次の夜も、同じように時間が過ぎていった。
夕食後、少しだけ会話を交わした。
いつも通りの話題。天気のこと、スーパーの特売、テレビの内容。
でも、言葉の奥にあった“昨日の沈黙”は、互いに触れずとも分かっていた。
私は、また部屋のドアを少しだけ開けておいた。
何も言わず、ただ、同じように。
昨日と同じ照明、同じ寝巻き。
でも、今日は少しだけ“意識した”。
薄手の布地が、腰から脚にかけてやや緩むように。
寝たふりをしながら、耳は研ぎ澄まされていた。
廊下の足音。
それが、また近づいてくる。
来た。
また、あの子が――来ていた。
足音が、部屋の前で止まる。
昨日と同じ。
ノックもない。
声もかけられない。
でも、そこにいる。
その気配の濃さに、胸の奥がゆっくり熱を持ちはじめた。
私は、あえて動いた。
静かに、寝返りを打つ。
背を向けていた身体を、そっと反転させ、
扉にわずかに開かれた隙間のほうへ、身を傾けるように。
薄手の部屋着が、胸元から脇にかけて緩み、
そのまま横たわる姿勢が、わずかに“肌の線”を描く。
裾は捲れ足が太ももまで露出している。
目は閉じたまま。
息を整える。
まるで夢の中にいる人間を演じるように。
でも意識は、はっきりと“見られていること”を感じていた。
扉は開かれていない。
それでも、あの子の視線がそこにあることは、分かっていた。
私は何も言わない。
何も求めない。
ただ、こうして**“姿を見せる”**ことで、あの子の迷いを抱きとめていた。
彼がそのまま立ち去るのか、扉を開けるのか。
それはもう、私の側の問題ではなかった。
私は“受け取る準備”をして、
あとはすべて、彼に預けるだけだった。
時間が、永遠のように長く感じられた。
でも私は、目を開けなかった。
沈黙の中で、あの子の息づかいを、扉越しに感じながら――
私は、自分がついに見せるという行為を選んだ夜にいることを、
静かに、苦しく、でもどこか甘く、受け入れていた。
扉の前の気配が、微かに動いた。
一歩、近づいたのだろうか。
私の寝息と同じくらい静かな動き。
それだけで、心臓が強く打った。
そして――
「カチ…」
ドアノブの金属が、ごく控えめに音を立てた。
私はその音だけで、すべてを理解した。
数秒の沈黙。
そして、
扉が、ほんのわずかに――開いた。
薄明かりが廊下から差し込んでくる。
部屋の空気が、わずかに動く。
目を閉じたまま、私はその“開かれる瞬間”を全身で受け止めていた。
肩のあたりにかかる風。
布地が、肌に軽く触れる角度を変えた。
気配は、そのまま中へ。
ゆっくりと。
静かに。
軋むこともない足音。
彼は――入ってきた。
私は寝返りを打ったままの姿勢を変えなかった。
横たわったまま、胸元を片方だけわずかに引き上げるような自然な呼吸で、
寝ているふりを、続けた。
でも、それはもう“演技”ではなかった。
私は、完全に目を覚ましている。
ただ、目を開けない。
声を出さない。
動かない。
すべてを――
彼に委ねるために。
彼がどこまで入ってきたのか、わからなかった。
でも、すぐそばにいるのは分かった。
息づかいが、かすかに部屋の空気を振るわせていた。
あの写真を見たときから始まった“沈黙の往復”は、
ついに言葉ではなく、
身体の気配と選択によって応えられようとしていた。
私は、待っていた。
そして今、受け取っている。
すべてを。
気配が、近づいてきた。
布団のそば――私の肩の位置あたりで、止まる。
音はしなかった。
でも空気がわずかに揺れた。
息の気配。視線の重み。
肌の上に、何かが静かに降りてくるようだった。
私は、目を閉じたまま、
眠っているふりを続けていた。
けれど、意識は冴えたまま。
――ここで私が声をかけたら、きっと何かが崩れる。
でも、待っていれば。
あの子が、自分の意志で近づいてくるのなら。
そのとき私は、受け止められるのだろうか。
そんな問いが、胸の内で何度も巡った。
でも私は、選ばなかった。
ただ、“委ねる”ことを選んだ。
なにもしないという、唯一の意思表示。
そして――
「……お母さん」
その声は、すぐ近くから響いた。
ささやくように。迷うように。
でも、確かに私を呼んでいた。
“母”としてではない。
もっと曖昧で、不確かな何かとして。
私は答えなかった。
呼吸を静かに整えながら、布団の中でそっと指を動かす。
ほんの少しだけ、布の上をなぞるように。
そのささやかな反応に、彼の影が、わずかに動いた。
一歩、近づいた気配。
「……起きてるんでしょ」
震えるような声。
けれど、もう引き返す気配はなかった。
私は――目を開けなかった。
ただ、何も言わずに、
その静けさに身を沈めた。
これ以上、何を言えばよかったのか、わからなかった。
あとは彼が、どんなふうに近づいてくるのか。
そのすべてを、私は静かに、受け止める覚悟でいた。
彼は、まるで何かを試すかのように――
そっと私の肩に触れてきた。
それは本当に、羽のように軽い触れ方だった。
押すでもなく、すがるでもなく、ただそっと置かれるような、そんな手。
すぐに引くのかと思った。
けれど、彼の指先は、ほんのわずかに動いた。
私の肩の線をなぞるように、ためらいがちに。
私は目を閉じたまま、身じろぎもしなかった。
眠っているふりを続けた。
そうすることでしか、自分の動揺を隠せなかった。
心臓の鼓動が、静かな室内に響く気がした。
あの子は気づいているだろうか?
私が、起きていると。
でも――私は、それでも動かなかった。
その手から伝わってくるのは、欲望ではなかった。
むしろ、戸惑いと、傷つくことへの恐れ。
この沈黙の中にある“答え”を探そうとするような、弱い願い。
私の肩にあるその手が、ほんの少し強くなった気がした。
でも、それでもなお、すぐに壊れてしまいそうなほど、脆くて頼りない。
怖かった。
何が起きているのかではなく――
自分が、拒めないままでいることが。
けれど私は、ただそのまま、身を任せていた。
言葉も、息も、動作も封じたまま。
私は目を閉じたまま、
静かに寝返りをうつふりをして、仰向けになった。
一瞬、肩に触れていた彼の手が戸惑うように留まり――
次の瞬間、はっとしたように離れていった。
その手の動きから、彼の驚きと迷いがはっきりと伝わってきた。
私は何も言わず、何も示さず、
ただ“眠っているふり”を守り続けた。
仰向けになったために胸の盛り上がりを隠すものは何もなくなった。
薄い生地の下は素肌だけ。
彼が息を呑むのが伝わってくる。