朝、目が覚めたとき、私はしばらく天井を見つめていた。
現実感がなかった。
昨夜のことを“夢だったのかもしれない”と思いたい自分と、
まだ肌の奥に残る感覚がそれを否定する自分が、静かにぶつかり合っていた。
台所に立つ手が少し震えていることに気づき、
私は深呼吸してから包丁を握り直した。
リビングに現れた彼は、
いつも通りの顔をしていた。
でも、目が合うのはほんの一瞬。
会話は短く、ぎこちない沈黙が流れた。
「ごはん、できてるよ」
そう言う声が、自分のものとは思えなかった。
彼は「うん」とだけ答えて、黙って席についた。
食器の音、テレビの音、外の蝉の声。
それらがかえって不自然に感じられた。
何かを話そうと口を開いても、
喉の奥が固くなって、言葉が出てこなかった。
ふたりとも、“何か”を壊してしまったことを理解していた。
それなのに、何をどう戻せばいいのかもわからず、
ただ日常の形をなぞるしかなかった。
あの夜の続きはなかった。
でも、終わってもいなかった。
触れなければ、またもとに戻れるのか。
それとも、もう一度触れてしまうのか。
曖昧な沈黙だけが、
私たちの間に残っていた。
洗濯機の音を聞きながら、私は台所の椅子に座っていた。
ただ座っているだけなのに、背筋がずっとこわばっていた。
視線の置き場がない。
何かをしていないと、あの夜の感覚がよみがえってきてしまう。
――どうかしてた。
一瞬でも、あんなものに身を任せるなんて。
心の中では何度もそう言い聞かせている。
なのに、身体は忘れてくれなかった。
あのときの温度、息遣い、肌に触れた手の震えまでも。
思い出すたびに、胸の奥がざわついた。
罪悪感は重く、鈍く、心の底に沈んでいるのに、
そのすぐ隣で、どうしようもない“感触”が灯りのように残っていた。
どこで間違ったんだろう。
なぜ、あの瞬間に拒めなかったんだろう。
私は母親なのに。
母親で、あるべきなのに――
洗濯機の終わりの電子音が鳴っても、私は立ち上がれなかった。
膝に置いた手が、うっすらと汗ばんでいた。
彼の顔を見るのが怖い。
でも、見ずにいるのも、苦しい。
私が黙っていれば、何もなかったことになるのだろうか。
でも、私のなかではもう――
何もかもが「前」とは違ってしまっていた。
自分の中にある“母ではない部分”が、
こんなにも鮮明だったなんて、知らなかった。
知ってしまったことが、いちばん怖い。
昼前、リビングに彼が顔を出した。
「洗濯、終わってたよ」と、当たり前のような声で。
私はいつも通りの顔で「ありがとう」と返したつもりだったけれど、
その声が少しかすれていたのは、自分でも気づいていた。
彼は洗濯かごを抱えたまま、私をちらりと見て、すぐに目を逸らした。
その視線が――たったそれだけのことで、
胸の奥がきゅっと縮まった。
見られた気がした。
それとも、見てほしいと思ってしまったのか。
……いや、違う。そんなこと、考えちゃいけない。
私は急いで立ち上がって台所に向かった。
シンクに手をかけて深く息を吐く。
逃げているのが自分でもわかる。
あの子は、何を思っているのだろう。
私のことを“母親”として見ているのか、それとも――
その「もしも」を想像した瞬間、
指先がほんのわずかに震えた。
包丁を握っている手を見て、私は小さく首を振った。
駄目。
何もなかったことにしないと。
そうでなければ、壊れてしまう。
でも、心は勝手に動いてしまう。
彼がふいに近づいてきたとき、
私は意味もなく引き出しを開けて背中を向けた。
足音、気配、視線――
すべてが、昨日までと違って聞こえてくる。
自分でも、どうしてこんなに敏感になってしまったのかわからなかった。
ただ、彼が少し笑っただけで、
その笑顔の“裏”を探してしまうようになった。
見てしまったもの。
越えてしまったもの。
それらが、何も言わずに毎日を少しずつ歪めていく。
なのに、私たちはいつも通りを演じ続けている。
そのことが、かえって苦しかった。
夜、家のすべての明かりを落とし、私はひとり布団に入った。
寝つけなかった。
目を閉じても、静かすぎる室内の気配が気になって仕方がない。
遠くで時計の秒針が、まるで胸の奥をなぞるようにカチ、カチ、と響いていた。
……この静けさが、いちばん苦しい。
昼間はまだ良かった。
家事をしていれば、何かに没頭していれば、
あの夜のことを“追い出す”ことができた。
けれど夜は、容赦なく思い出させてくる。
彼の手のひらの、あの温度。
指先のかすかな震え。
身体が受け取ってしまった“迷いと欲”の混ざり合った感触。
私は目を開け、天井を見つめた。
闇の中に浮かぶぼんやりとした輪郭の中で、呼吸だけがやけに大きく感じる。
あれは一度きりの、間違いだったはず。
そう思おうとしているのに、
心のどこかでは、まだ“終わっていない”という感覚が消えていない。
触れられた肩のあたりが、まだどこか火照っている気がする。
思い出すたびに、鼓動が早くなるのを止められなかった。
私はそっと布団の中で身じろぎした。
手のひらを胸元に当てると、肌の下で何かがわずかにざわめいた。
……情けない。
こんなふうに、記憶に引きずられている自分がいちばん嫌だった。
私は母親なのに。
“母親”として、何を守るべきかなんてわかっているのに。
けれど、あの夜――
ほんの少しでも、あの子の体温に安らぎを感じてしまったのは、
どうしようもない事実だった。
私は布団の中で小さく丸くなった。
それでも、身体の奥に残った感触だけは、
まるで埋めようのない空洞を抱えるように、消えてくれなかった。
深夜、誰も起きていない時間。
私は台所の明かりを一つだけつけて、スマホを手に取った。
画面に映る自分の顔は、どこか疲れていて、そして――少し、遠い。
ふと思い出す。
最初に、自撮りをしたあの夜のこと。
唐突で、意味もなくて、ただ気まぐれだったはずなのに、
そこから何かが静かに動き出してしまった。
あれは、ほんの戯れのようなものだった。
でも、あの一枚が、自分の中の“母親ではない部分”を知らず知らず呼び覚ましていたのだと思う。
スマホを構えた手が、わずかに震えていた。
でも私は、シャッターを押した。
カシャッ。
無音設定にしていたのに、なぜかその音がした気がした。
映ったのは、今の私。
化粧も落とし、部屋着のままの、何の飾りもない姿。
だけどその顔は、ほんの少し――決意を帯びていた。
「これでいい」と、私は小さくつぶやいた。
あの夜を思い出すことも、心に残るざわめきも、
きっとこれからもしばらく消えない。
でも、私は進まなければいけない。
“母としての日常”を、もう一度歩き始めるために。
写真フォルダを開くと、サムネイルの中に、あの夜の私がいた。
視線はまっすぐカメラを見つめている。
自分で撮ったものなのに、どこか他人のように感じられた。
“削除”の文字に指を重ねる。
一瞬、画面が赤く光る。
でも――
そのまま、動けなかった。
心の奥で、何かが叫んでいた。
「消せ」と。
「もう終わりにしろ」と。
でも、それと同じくらい強く、
「まだできない」と言う声もあった。
なぜだろう。
ただの写真なのに。
そこに写っているのは自分なのに。
私は、ゆっくりとスマホをテーブルに置いた。
画面を伏せて、光が漏れないように。
まるで、それを見てしまわないように、
けれど――完全には手放せないまま。
小さく息を吐いた。
私はきっとまだ、立ち止まっている。
戻るべき場所も、進むべき場所もわからず、
ただ、この夜にひとり、取り残されていた。
背後で足音がした。