※この作品はR-18です。

裏 母の写真   作:松田義和

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母としての日常

朝、目が覚めたとき、私はしばらく天井を見つめていた。

現実感がなかった。

昨夜のことを“夢だったのかもしれない”と思いたい自分と、

まだ肌の奥に残る感覚がそれを否定する自分が、静かにぶつかり合っていた。

 

台所に立つ手が少し震えていることに気づき、

私は深呼吸してから包丁を握り直した。

 

リビングに現れた彼は、

いつも通りの顔をしていた。

でも、目が合うのはほんの一瞬。

会話は短く、ぎこちない沈黙が流れた。

 

「ごはん、できてるよ」

 

そう言う声が、自分のものとは思えなかった。

彼は「うん」とだけ答えて、黙って席についた。

 

食器の音、テレビの音、外の蝉の声。

それらがかえって不自然に感じられた。

 

何かを話そうと口を開いても、

喉の奥が固くなって、言葉が出てこなかった。

 

ふたりとも、“何か”を壊してしまったことを理解していた。

それなのに、何をどう戻せばいいのかもわからず、

ただ日常の形をなぞるしかなかった。

 

あの夜の続きはなかった。

でも、終わってもいなかった。

 

触れなければ、またもとに戻れるのか。

それとも、もう一度触れてしまうのか。

 

曖昧な沈黙だけが、

私たちの間に残っていた。

 

洗濯機の音を聞きながら、私は台所の椅子に座っていた。

ただ座っているだけなのに、背筋がずっとこわばっていた。

視線の置き場がない。

何かをしていないと、あの夜の感覚がよみがえってきてしまう。

 

――どうかしてた。

一瞬でも、あんなものに身を任せるなんて。

 

心の中では何度もそう言い聞かせている。

なのに、身体は忘れてくれなかった。

あのときの温度、息遣い、肌に触れた手の震えまでも。

 

思い出すたびに、胸の奥がざわついた。

罪悪感は重く、鈍く、心の底に沈んでいるのに、

そのすぐ隣で、どうしようもない“感触”が灯りのように残っていた。

 

どこで間違ったんだろう。

なぜ、あの瞬間に拒めなかったんだろう。

 

私は母親なのに。

母親で、あるべきなのに――

 

洗濯機の終わりの電子音が鳴っても、私は立ち上がれなかった。

膝に置いた手が、うっすらと汗ばんでいた。

 

彼の顔を見るのが怖い。

でも、見ずにいるのも、苦しい。

 

私が黙っていれば、何もなかったことになるのだろうか。

でも、私のなかではもう――

何もかもが「前」とは違ってしまっていた。

 

自分の中にある“母ではない部分”が、

こんなにも鮮明だったなんて、知らなかった。

 

知ってしまったことが、いちばん怖い。

 

 

昼前、リビングに彼が顔を出した。

「洗濯、終わってたよ」と、当たり前のような声で。

 

私はいつも通りの顔で「ありがとう」と返したつもりだったけれど、

その声が少しかすれていたのは、自分でも気づいていた。

 

彼は洗濯かごを抱えたまま、私をちらりと見て、すぐに目を逸らした。

その視線が――たったそれだけのことで、

胸の奥がきゅっと縮まった。

 

見られた気がした。

それとも、見てほしいと思ってしまったのか。

 

……いや、違う。そんなこと、考えちゃいけない。

 

私は急いで立ち上がって台所に向かった。

シンクに手をかけて深く息を吐く。

逃げているのが自分でもわかる。

 

あの子は、何を思っているのだろう。

私のことを“母親”として見ているのか、それとも――

 

その「もしも」を想像した瞬間、

指先がほんのわずかに震えた。

 

包丁を握っている手を見て、私は小さく首を振った。

 

駄目。

何もなかったことにしないと。

そうでなければ、壊れてしまう。

 

でも、心は勝手に動いてしまう。

 

彼がふいに近づいてきたとき、

私は意味もなく引き出しを開けて背中を向けた。

 

足音、気配、視線――

すべてが、昨日までと違って聞こえてくる。

 

自分でも、どうしてこんなに敏感になってしまったのかわからなかった。

ただ、彼が少し笑っただけで、

その笑顔の“裏”を探してしまうようになった。

 

見てしまったもの。

越えてしまったもの。

それらが、何も言わずに毎日を少しずつ歪めていく。

 

なのに、私たちはいつも通りを演じ続けている。

 

そのことが、かえって苦しかった。

 

 

夜、家のすべての明かりを落とし、私はひとり布団に入った。

 

寝つけなかった。

目を閉じても、静かすぎる室内の気配が気になって仕方がない。

遠くで時計の秒針が、まるで胸の奥をなぞるようにカチ、カチ、と響いていた。

 

……この静けさが、いちばん苦しい。

 

昼間はまだ良かった。

家事をしていれば、何かに没頭していれば、

あの夜のことを“追い出す”ことができた。

 

けれど夜は、容赦なく思い出させてくる。

 

彼の手のひらの、あの温度。

指先のかすかな震え。

身体が受け取ってしまった“迷いと欲”の混ざり合った感触。

 

私は目を開け、天井を見つめた。

闇の中に浮かぶぼんやりとした輪郭の中で、呼吸だけがやけに大きく感じる。

 

あれは一度きりの、間違いだったはず。

そう思おうとしているのに、

心のどこかでは、まだ“終わっていない”という感覚が消えていない。

 

触れられた肩のあたりが、まだどこか火照っている気がする。

思い出すたびに、鼓動が早くなるのを止められなかった。

 

私はそっと布団の中で身じろぎした。

手のひらを胸元に当てると、肌の下で何かがわずかにざわめいた。

 

……情けない。

こんなふうに、記憶に引きずられている自分がいちばん嫌だった。

 

私は母親なのに。

“母親”として、何を守るべきかなんてわかっているのに。

 

けれど、あの夜――

ほんの少しでも、あの子の体温に安らぎを感じてしまったのは、

どうしようもない事実だった。

 

私は布団の中で小さく丸くなった。

それでも、身体の奥に残った感触だけは、

まるで埋めようのない空洞を抱えるように、消えてくれなかった。

 

 

深夜、誰も起きていない時間。

私は台所の明かりを一つだけつけて、スマホを手に取った。

 

画面に映る自分の顔は、どこか疲れていて、そして――少し、遠い。

 

ふと思い出す。

最初に、自撮りをしたあの夜のこと。

唐突で、意味もなくて、ただ気まぐれだったはずなのに、

そこから何かが静かに動き出してしまった。

 

あれは、ほんの戯れのようなものだった。

でも、あの一枚が、自分の中の“母親ではない部分”を知らず知らず呼び覚ましていたのだと思う。

 

スマホを構えた手が、わずかに震えていた。

 

でも私は、シャッターを押した。

 

カシャッ。

 

無音設定にしていたのに、なぜかその音がした気がした。

 

映ったのは、今の私。

化粧も落とし、部屋着のままの、何の飾りもない姿。

 

だけどその顔は、ほんの少し――決意を帯びていた。

 

「これでいい」と、私は小さくつぶやいた。

 

あの夜を思い出すことも、心に残るざわめきも、

きっとこれからもしばらく消えない。

でも、私は進まなければいけない。

“母としての日常”を、もう一度歩き始めるために。

 

 

写真フォルダを開くと、サムネイルの中に、あの夜の私がいた。

視線はまっすぐカメラを見つめている。

自分で撮ったものなのに、どこか他人のように感じられた。

 

“削除”の文字に指を重ねる。

一瞬、画面が赤く光る。

 

でも――

そのまま、動けなかった。

 

心の奥で、何かが叫んでいた。

「消せ」と。

「もう終わりにしろ」と。

 

でも、それと同じくらい強く、

「まだできない」と言う声もあった。

 

なぜだろう。

ただの写真なのに。

そこに写っているのは自分なのに。

 

私は、ゆっくりとスマホをテーブルに置いた。

画面を伏せて、光が漏れないように。

まるで、それを見てしまわないように、

けれど――完全には手放せないまま。

 

小さく息を吐いた。

 

私はきっとまだ、立ち止まっている。

戻るべき場所も、進むべき場所もわからず、

ただ、この夜にひとり、取り残されていた。

 

 

 

背後で足音がした。

 

 

 

 

 

 

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