あの子が、また見た――そう思ったのは、夕食の準備をしているときだった。
いつもならスマホはキッチンの棚の上に置いている。
でもその日は、なぜか画面が裏返しになっていた。
触った覚えはない。
それに、ロック画面の通知履歴も、消えていた。
私しか知らないはずの操作。
それだけじゃない。
夕飯のときの、あの子の目。
私を避けているようで、でも、ときおりじっと見る。
その視線に宿る、戸惑いとも、興味ともつかない感情の濁り。
それはもう、母と息子の間にだけあるはずのものじゃなかった。
――気づいている。
――もう、“知ってしまっている”。
私はその実感に、言いようのない震えを覚えていた。
怖い。でも、それだけじゃない。
確かに、その視線の奥には、“欲”が混ざっていた。
それは見間違いじゃない。
私自身が、その視線を――待っていたのだから。
夜。
夫が寝静まったあと、私は洗面所の戸を閉め、スマホを手に鏡の前に立った。
今日は、もっと深く――もう一歩、先まで。
バスローブを羽織ったまま、片側の肩を落とし、ゆっくりと肌をあらわにする。
脚を組み替え、手の置き場所にまで意識を向ける。
あの子の目線を想像しながら、自分の輪郭をなぞるように、カメラを構える。
“見られるための姿”を、私は撮っていた。
それは誰のためでもない。
もう、明らかに――あの子のためだった。
シャッター音が静かに響く。
一枚。二枚。
表情まで写るように、今回は顔も少しだけ入れた。
でも笑わなかった。
淡々と、受け入れるような目で、自分自身を見つめたまま。
何枚か撮ったあと、もっとも“強く訴えかけてくる”一枚だけを選び、保存した。
前と同じように、ロックはかけない。
目立たないように見せかけて、でも確実に気づかれる場所へ――そっと、置いておいた。
翌朝、あの子は私のスマホを何気ない顔で手に取った。
掃除のとき、テレビのリモコンを探すふりをして。
私は、キッチンから黙ってその様子を見ていた。
そして、はっきりと見た。
画面が点灯し、アルバムアプリが開かれるのを。
ほんの数秒。
でも、その間に、私は何度も深呼吸をした。
あの子は、スマホをテーブルに戻し、私と目を合わせずに部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、私は自分の胸にそっと手を当てた。
鼓動が、異常なほどに速かった。
これはもう偶然じゃない。
たった一度の出来心でもない。
私たちは、いま、名前のない何かの中にいる。
言葉では届かない領域で、何かが始まってしまった。
それでも私は、今日もまた、スマホを枕元に置いた。
何も知らない顔で。
――明日も、見られるかもしれない。
そう思うと、不思議と、眠れなかった。
あの子は、また見た。
間違いない。
スマホに残しておいた“あの写真”が、確実に開かれた痕跡。
そしてその後の、無言の距離感。
避けるような素振りと、ちらりと向けられる視線。
その視線の温度に、私はもう、恐怖さえ感じなくなっていた。
むしろ――待っていた。
次は、どこまで“届く”だろうかと。
私は変わってしまったのだと思う。
でも、それはもう止めようのない流れだった。
夜、部屋の明かりを落とす。
カーテンを引いて、スマホのカメラを鏡に向ける。
一枚、また一枚。
少しずつ布を減らしながら、自分を“構成”していく。
今日は、もう迷わなかった。
あえて肌のラインが強調される角度。
手で隠すふりをしながら、かえって“見せる”ような構図。
視線だけは真っ直ぐにカメラを見つめた。
何も言わないその写真が、何より多くを語っていた。
撮った中から、最も際どい一枚だけを残した。
輪郭と陰影。
それがただの写真ではなく、“何かの合図”であると、きっと伝わってしまう。
そう思いながらも――私は保存ボタンを押した。
スマホを、そっとリビングの棚の上に置く。
いつもと同じ位置。
でも、彼にとってはもう“意味を持つ場所”になっている。
明日、またあの子が何気ないふりをして手に取るだろう。
そう確信しながら、私は寝室に戻った。
布団に入っても、まぶたを閉じても、
撮ったときの自分の目が、脳裏に焼きついていた。
あの視線は、“見て”と言っていた。
見つけて、気づいて、受け取って――と。
もはや、自分が何を期待しているのかもわからない。
でも確かに、どこかで応答を求めている。
母として、ではなく。
女として。
スマホの中には、もう“母”は映っていなかった。
そこにあるのは、誰かに求められたいと願う、ひとりの女の輪郭だった。