※この作品はR-18です。

裏 母の写真   作:松田義和

3 / 15
ひとりの女の輪郭

あの子が、また見た――そう思ったのは、夕食の準備をしているときだった。

 

いつもならスマホはキッチンの棚の上に置いている。

でもその日は、なぜか画面が裏返しになっていた。

触った覚えはない。

それに、ロック画面の通知履歴も、消えていた。

私しか知らないはずの操作。

 

それだけじゃない。

夕飯のときの、あの子の目。

 

私を避けているようで、でも、ときおりじっと見る。

その視線に宿る、戸惑いとも、興味ともつかない感情の濁り。

それはもう、母と息子の間にだけあるはずのものじゃなかった。

 

――気づいている。

――もう、“知ってしまっている”。

 

私はその実感に、言いようのない震えを覚えていた。

 

怖い。でも、それだけじゃない。

確かに、その視線の奥には、“欲”が混ざっていた。

それは見間違いじゃない。

私自身が、その視線を――待っていたのだから。

 

夜。

夫が寝静まったあと、私は洗面所の戸を閉め、スマホを手に鏡の前に立った。

 

今日は、もっと深く――もう一歩、先まで。

 

バスローブを羽織ったまま、片側の肩を落とし、ゆっくりと肌をあらわにする。

脚を組み替え、手の置き場所にまで意識を向ける。

あの子の目線を想像しながら、自分の輪郭をなぞるように、カメラを構える。

 

“見られるための姿”を、私は撮っていた。

それは誰のためでもない。

もう、明らかに――あの子のためだった。

 

シャッター音が静かに響く。

一枚。二枚。

表情まで写るように、今回は顔も少しだけ入れた。

でも笑わなかった。

淡々と、受け入れるような目で、自分自身を見つめたまま。

 

何枚か撮ったあと、もっとも“強く訴えかけてくる”一枚だけを選び、保存した。

前と同じように、ロックはかけない。

目立たないように見せかけて、でも確実に気づかれる場所へ――そっと、置いておいた。

 

翌朝、あの子は私のスマホを何気ない顔で手に取った。

掃除のとき、テレビのリモコンを探すふりをして。

 

私は、キッチンから黙ってその様子を見ていた。

そして、はっきりと見た。

画面が点灯し、アルバムアプリが開かれるのを。

 

ほんの数秒。

でも、その間に、私は何度も深呼吸をした。

 

あの子は、スマホをテーブルに戻し、私と目を合わせずに部屋を出ていった。

 

その背中を見送りながら、私は自分の胸にそっと手を当てた。

鼓動が、異常なほどに速かった。

 

これはもう偶然じゃない。

たった一度の出来心でもない。

 

私たちは、いま、名前のない何かの中にいる。

言葉では届かない領域で、何かが始まってしまった。

 

それでも私は、今日もまた、スマホを枕元に置いた。

何も知らない顔で。

 

――明日も、見られるかもしれない。

そう思うと、不思議と、眠れなかった。

 

 

あの子は、また見た。

間違いない。

スマホに残しておいた“あの写真”が、確実に開かれた痕跡。

そしてその後の、無言の距離感。

避けるような素振りと、ちらりと向けられる視線。

その視線の温度に、私はもう、恐怖さえ感じなくなっていた。

 

むしろ――待っていた。

次は、どこまで“届く”だろうかと。

 

私は変わってしまったのだと思う。

でも、それはもう止めようのない流れだった。

 

夜、部屋の明かりを落とす。

カーテンを引いて、スマホのカメラを鏡に向ける。

一枚、また一枚。

少しずつ布を減らしながら、自分を“構成”していく。

 

今日は、もう迷わなかった。

あえて肌のラインが強調される角度。

手で隠すふりをしながら、かえって“見せる”ような構図。

視線だけは真っ直ぐにカメラを見つめた。

何も言わないその写真が、何より多くを語っていた。

 

撮った中から、最も際どい一枚だけを残した。

輪郭と陰影。

それがただの写真ではなく、“何かの合図”であると、きっと伝わってしまう。

そう思いながらも――私は保存ボタンを押した。

 

スマホを、そっとリビングの棚の上に置く。

いつもと同じ位置。

でも、彼にとってはもう“意味を持つ場所”になっている。

 

明日、またあの子が何気ないふりをして手に取るだろう。

そう確信しながら、私は寝室に戻った。

 

布団に入っても、まぶたを閉じても、

撮ったときの自分の目が、脳裏に焼きついていた。

 

あの視線は、“見て”と言っていた。

見つけて、気づいて、受け取って――と。

 

もはや、自分が何を期待しているのかもわからない。

でも確かに、どこかで応答を求めている。

 

母として、ではなく。

女として。

 

スマホの中には、もう“母”は映っていなかった。

そこにあるのは、誰かに求められたいと願う、ひとりの女の輪郭だった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。