朝。
あの子の気配は、いつもよりわずかに早く、わずかに静かだった。
私は台所で湯を沸かしていた。背中越しに感じる、息の詰まるような空気。
振り返ると、そこにあの子が立っていた。
スマホを手に持ったまま。
私の、スマホだった。
その手の力の入り具合でわかった。
中を見たということ。
そして、何かを――感じたということ。
「あのさ」
声が、震えていた。
普段は口数の少ない彼が、絞り出すように、言葉を吐いた。
「……これ、見た。ごめん。でも……なんで?」
その言葉が、空気を切り裂く。
終わりだ、と思った。
いままで積み上げてきた沈黙のバランスが、音もなく崩れていく。
私は、何も言えなかった。
言い訳も、説明も、できなかった。
ただ、あの子の目を見た。
そこには、混乱と、困惑と、怒りと、そして――
欲望があった。
そう。
私の写真を“見た”目ではなく、
“見たことを止められなかった”目。
私は息を呑んだ。
手にしていたお湯のポットを、静かに置く。
キッチンとリビングのあいだの距離が、やけに遠く感じられた。
「なんで、そんなの……残してたの」
あの子はそう言いながら、目を逸らさなかった。
責めているようでいて、でもその声の底には、切実な何かが混じっていた。
私はようやく、口を開いた。
でも声は、思っていたよりも小さく、浅かった。
「……ごめん。消すつもりだったのに、忘れてたのよ」
嘘だった。
でも、それ以外の言葉が見つからなかった。
彼はしばらく黙っていた。
そして、スマホをそっとテーブルの上に置いた。
「……俺、ちょっと外行ってくる」
靴を履く音。ドアが閉まる音。
そのすべてが、鼓膜の奥で響いた。
私は立ち尽くしていた。
胸の奥が、焼けるように熱かった。
これで終わる。
そう思えば、ほっとするべきなのに――なぜか、心のどこかが空っぽになっていた。
あの子の目。
怒っていた。でも、ただ怒っていただけじゃない。
そこには、確かに“求める目”があった。
私を、“母”としてではなく。
私は自分の胸元を見下ろした。
さっきまで、写真に撮られたその場所を。
あの子の目に、どこまで映っていたのだろう。
どこまで、伝わってしまっていたのだろう。
一線を越えたのは、果たして私だったのか――
それとも、彼だったのか。
まだ答えは出なかった。
でも私は、自分がもう後戻りできない場所にいることだけは、確かにわかっていた。
あの朝、あの子が家を出てから――
私たちのあいだには、確かに何かが変わった。
表面上は、何事もなかったかのように時間は流れていった。
私はいつも通り、洗濯をし、掃除をし、台所に立った。
あの子も、普段通りに「いただきます」と言い、「ごちそうさま」と言った。
でも、私たちは目を合わせなかった。
まるで、お互いの存在を“輪郭だけ”で認識しているような、そんな距離感。
それは、以前のような自然な親子の空気ではなかった。
むしろ、何かを押し殺すような、張り詰めた静けさだった。
夜。
私はスマホを手に取りながら、ふと、アルバムの中の写真をすべて削除した。
そうするべきだと、ようやく思えた。
あの子の顔が、今も胸の奥に残っている。
震えるような目。言葉にならない思いを飲み込んだ唇。
――ごめんね。
心の中で、そう呟いた。
でも、写真を消しても、あのときの感情は消えてはくれなかった。
胸の奥に残った熱だけが、どうしても抜けなかった。
*
数日が経った。
不思議なことに、あの子の態度は、少しだけ変わっていた。
言葉数は少ないままだったけれど、前ほど視線を避けなくなった。
私が話しかけると、小さく頷くようになった。
――でも、それは“以前に戻った”ということではない。
変わってしまったのだ。
私たちの関係が。
もう、親子という枠の中だけには収まりきらない、妙な気配を帯びていた。
夜、リビングでテレビを見ていたときのこと。
あの子がふいにソファに座って、私の隣に並んだ。
画面の方を見ていたけれど、明らかに落ち着かない様子だった。
私も視線をテレビに向けたまま、ただ静かに息を整えた。
そのとき、ふと気づいた。
あの子の手が、ほんの少しだけ、私の手に触れそうな距離にあった。
わざと、じゃない。
でも、それは“偶然”としては、近すぎた。
その距離に、私の心臓が軽く脈打つ。
見てはいけなかった。
見せるべきではなかった。
――でも、見られてしまった。
そして、見せてしまった。
あの朝が、ただの境界線だったとは思えなかった。
それは、むしろ“始まり”だったのかもしれない。
私は目を閉じ、深く息を吸った。
この空気の中で、どうすればいいのかなんて、もう誰にもわからなかった。
ただ一つ、確かなのは――
もう、戻れないということだった。