※この作品はR-18です。

裏 母の写真   作:松田義和

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後戻りできない場所

朝。

あの子の気配は、いつもよりわずかに早く、わずかに静かだった。

私は台所で湯を沸かしていた。背中越しに感じる、息の詰まるような空気。

振り返ると、そこにあの子が立っていた。

スマホを手に持ったまま。

 

私の、スマホだった。

 

その手の力の入り具合でわかった。

中を見たということ。

そして、何かを――感じたということ。

 

「あのさ」

 

声が、震えていた。

普段は口数の少ない彼が、絞り出すように、言葉を吐いた。

 

「……これ、見た。ごめん。でも……なんで?」

 

その言葉が、空気を切り裂く。

終わりだ、と思った。

いままで積み上げてきた沈黙のバランスが、音もなく崩れていく。

 

私は、何も言えなかった。

言い訳も、説明も、できなかった。

ただ、あの子の目を見た。

 

そこには、混乱と、困惑と、怒りと、そして――

 

欲望があった。

 

そう。

私の写真を“見た”目ではなく、

“見たことを止められなかった”目。

 

私は息を呑んだ。

手にしていたお湯のポットを、静かに置く。

キッチンとリビングのあいだの距離が、やけに遠く感じられた。

 

「なんで、そんなの……残してたの」

 

あの子はそう言いながら、目を逸らさなかった。

責めているようでいて、でもその声の底には、切実な何かが混じっていた。

 

私はようやく、口を開いた。

でも声は、思っていたよりも小さく、浅かった。

 

「……ごめん。消すつもりだったのに、忘れてたのよ」

 

嘘だった。

でも、それ以外の言葉が見つからなかった。

 

彼はしばらく黙っていた。

そして、スマホをそっとテーブルの上に置いた。

 

「……俺、ちょっと外行ってくる」

 

靴を履く音。ドアが閉まる音。

そのすべてが、鼓膜の奥で響いた。

 

私は立ち尽くしていた。

胸の奥が、焼けるように熱かった。

 

これで終わる。

そう思えば、ほっとするべきなのに――なぜか、心のどこかが空っぽになっていた。

 

あの子の目。

怒っていた。でも、ただ怒っていただけじゃない。

そこには、確かに“求める目”があった。

 

私を、“母”としてではなく。

 

私は自分の胸元を見下ろした。

さっきまで、写真に撮られたその場所を。

 

あの子の目に、どこまで映っていたのだろう。

どこまで、伝わってしまっていたのだろう。

 

一線を越えたのは、果たして私だったのか――

それとも、彼だったのか。

 

まだ答えは出なかった。

でも私は、自分がもう後戻りできない場所にいることだけは、確かにわかっていた。

 

 

 

あの朝、あの子が家を出てから――

私たちのあいだには、確かに何かが変わった。

 

表面上は、何事もなかったかのように時間は流れていった。

私はいつも通り、洗濯をし、掃除をし、台所に立った。

あの子も、普段通りに「いただきます」と言い、「ごちそうさま」と言った。

 

でも、私たちは目を合わせなかった。

まるで、お互いの存在を“輪郭だけ”で認識しているような、そんな距離感。

 

それは、以前のような自然な親子の空気ではなかった。

むしろ、何かを押し殺すような、張り詰めた静けさだった。

 

夜。

私はスマホを手に取りながら、ふと、アルバムの中の写真をすべて削除した。

 

そうするべきだと、ようやく思えた。

あの子の顔が、今も胸の奥に残っている。

震えるような目。言葉にならない思いを飲み込んだ唇。

 

――ごめんね。

心の中で、そう呟いた。

 

でも、写真を消しても、あのときの感情は消えてはくれなかった。

胸の奥に残った熱だけが、どうしても抜けなかった。

 

*

 

数日が経った。

 

不思議なことに、あの子の態度は、少しだけ変わっていた。

言葉数は少ないままだったけれど、前ほど視線を避けなくなった。

私が話しかけると、小さく頷くようになった。

――でも、それは“以前に戻った”ということではない。

 

変わってしまったのだ。

私たちの関係が。

もう、親子という枠の中だけには収まりきらない、妙な気配を帯びていた。

 

夜、リビングでテレビを見ていたときのこと。

あの子がふいにソファに座って、私の隣に並んだ。

画面の方を見ていたけれど、明らかに落ち着かない様子だった。

 

私も視線をテレビに向けたまま、ただ静かに息を整えた。

 

そのとき、ふと気づいた。

あの子の手が、ほんの少しだけ、私の手に触れそうな距離にあった。

わざと、じゃない。

でも、それは“偶然”としては、近すぎた。

 

その距離に、私の心臓が軽く脈打つ。

 

見てはいけなかった。

見せるべきではなかった。

――でも、見られてしまった。

そして、見せてしまった。

 

あの朝が、ただの境界線だったとは思えなかった。

それは、むしろ“始まり”だったのかもしれない。

 

私は目を閉じ、深く息を吸った。

この空気の中で、どうすればいいのかなんて、もう誰にもわからなかった。

 

ただ一つ、確かなのは――

もう、戻れないということだった。

 

 

 

 

 

 

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