夜。
家の中が静かになったころ、私は一人、洗面所の鏡の前に立っていた。
この場所にこうして立つのは、何度目だろう。
それでも今夜は、どこか違っていた。
心の中に、迷いがなかったわけじゃない。
でも、すでに答えは出ていた。
“無意識のふり”は、もうできなかった。
私はスマホを手に取り、ゆっくりとカメラを起動する。
画面に映るのは、肩のライン、鎖骨の陰影、そして――
この数日間、あの子が確かに見ていた私の輪郭。
もう一度、それを刻む。
そう決めていた。
今夜は、隠さなかった。
前のように“偶然を装う配置”や“気づかれそうな隙”ではない。
はっきりと、“見られること”を前提に撮る。
視線が、そこに届くのを、想定した上で。
私は髪を軽くほどいて、頬にかかるように整える。
キャミソールの肩紐を片方だけ落とし、胸元のラインを露わにする。
そして、スマホを構え、静かにシャッターを押す。
シャッター音は、まるで自分の中のある境界を越えたことを知らせる合図のようだった。
音が鳴った瞬間、もう後戻りはできないと知った。
何枚か撮ったうち、一番“届く”であろう写真を選ぶ。
目線がまっすぐカメラを捉えているもの。
笑ってはいない。ただ、受け入れるような表情。
“これは、あなたのため”――そう言いたげなまなざし。
その写真を、わざと分かりやすい場所に保存した。
もう、隠さない。
むしろ、“見つけて”ほしかった。
スマホをテーブルに置く。
いつものように、テレビのリモコンの横に。
翌朝、彼が通りかかる場所に。
行為そのものよりも、その“沈黙”の中にある交信が、私の心を満たしていた。
言葉は交わさない。
触れ合いもしない。
ただ、“視線”と“気づき”だけで、繋がってしまっている。
私は、自分が何をしているのか分かっていた。
分かった上で、選んでいた。
あの朝、責められた私ではない。
もう一度、撮ると決めたのは――“私の意志”だった。
翌朝、リビングに現れたあの子の動きに、私は何も言わなかった。
背を向けて、食器を洗いながら、ただ静かに気配を感じていた。
画面が開かれた音。
写真が表示された気配。
そして、短く息を呑むような、ほんの小さな沈黙。
私は、その音を待っていた。
そして、心の中で、そっと受け止めていた。
これはもう、ただの“写真”じゃない。
これは、私たちの間に置かれた、言葉よりも重たい“沈黙の会話”なのだ。
私は知ってしまった。
見られることで、自分が存在を確かめられるということを。
そして、“見せる”ことで、自分の何かが救われてしまうことを。
静かなキッチンの光の中、
私は洗い終えた器をそっと拭きながら、
その確かさだけを、そっと胸にしまっていた。
それは、何も特別な日ではなかった。
夕飯も普通に終え、後片付けをし、テレビの音が部屋に流れていた。
私も、あの子も、なにひとつ“会話らしい会話”を交わさなかった。
でもその沈黙の中に、張りつめたものがあった。
私のスマホには、あの夜もまた、一枚の写真が保存されていた。
見せるつもりで撮った。
気づかれるように、あえて目立つ場所に置いておいた。
そして、彼は見た。
また、見てしまった。
私の背中越しに、その気配が伝わってきた。
ページをめくるような指の動き、シャッターを押した自分の呼吸が、逆流してくる感覚。
そして――それは、今までとは違った。
スマホがテーブルに“音を立てて”置かれた。
私は思わず、振り返ってしまった。
そこに立っていたあの子の表情は、今までとはまるで違っていた。
怒りでも、戸惑いでもない。
それは――何かが堰を切ったような顔だった。
「……なんで、こんなことするの?」
低く、しかし震えた声。
一歩、私に近づいてくる。
私は何も答えられなかった。
声を出そうとしても、喉の奥に何かが詰まっていた。
「……ずっと、見てたよ。全部」
「気づいてたでしょ?」
私は黙って頷いた。
うつむいたわけではない。
目を、逸らさなかった。
彼の目は、私を見ていた。
母親ではなく――あの写真の中にいた私を。
「やめてほしいのかと思った。けど、やめないから……もう、わからないんだ」
近づいてくる。
もう、ソファ一つぶんの距離もない。
手を伸ばせば触れられる場所。
言葉一つで、崩れてしまう距離。
それでも、私は動かなかった。
「母さん……これって……俺に向けてるの?」
静かに投げられた問い。
それは、とうに答えの出ている問いだった。
それでも私は、答えを口にすることができなかった。
ただ、わずかに――ほんのわずかに、頷いた。
その瞬間、何かが決壊した。
あの子の手が、私の手を取った。
一瞬、私の肩が震えた。
けれど――拒まなかった。
言葉が何一つ交わされないまま、私たちはその場に立ち尽くしていた。
手と手だけが触れあい、世界が静まり返っていた。
それは、もはや「親子」という言葉では語れない何かだった。
それでも、誰にも止められなかった。
私自身さえも。
これは、決して正しいものではない。
でも、どこかで私は、待っていたのだと思う。
あの朝からずっと。
いずれこの沈黙が、限界を迎えることを。
そしてそれが、今、ここにあるということを。