翌朝、いつものように洗濯機を回し、湯を沸かし、味噌汁を火にかける。
何も変わらない、いつもの朝のはずだった。
でも、自分の内側だけが少し違っていた。
昨夜、撮ってしまったあの写真。
「見せるつもりはなかった」と自分に言い聞かせながらも、
どこかで――“見つかる可能性”を残したままにしていた。
それは、ロックをかけずにスマホを使い続けたこと。
あえて“非表示”フォルダに入れず、アルバムの端にそのまま残したこと。
指先ひとつで触れられる距離に、その写真はあった。
そして、私が味噌汁の味を確かめていたとき。
背後から、ほんのわずかに感じた気配。
ソファに座ったあの子が、なぜか静かにしている。
テレビもつけず、音も立てず、息遣いさえ遠慮がちだ。
それがかえって、すべてを物語っていた。
私は、おたまを持ったまま、静かに振り返った。
ソファの背に、私のスマホがあった。
画面は点灯していた。
あの子の指が、ほんの一瞬、画面から離れる。
私と目が合った。
何か言いかけたような表情。
でも、何も言葉は出てこなかった。
その沈黙が、すべてだった。
あの子は、見た。
間違いなく――また、見てしまったのだ。
昨夜、誰にも見せるつもりはないと思っていた“あの写真”。
でも本当は。
心のどこかで、「また見つけて」と願っていた。
だから私は、驚かなかった。
ただ、心が静かに揺れていた。
あの子は、そっとスマホをテーブルに戻した。
何事もなかったように立ち上がり、
「……飯、できた?」とだけ言った。
「うん」
私はそう答えるのが精一杯だった。
手のひらがじんわりと汗ばんでいることに、自分で驚いた。
テーブルをはさみ、私たちは向かい合って朝食をとった。
でも、視線は合わない。
それでも、確かに“何か”がそこにあった。
言葉にはならない。
でも、もう隠されてもいない。
私たちのあいだにあるのは、
見つけてしまった写真と、
見せてしまった私。
箸の動きだけが静かに響くなかで、私は思った。
――これは、偶然だったのか。
それとも、意図的だったのか。
自分でも、もうわからなかった。
でも、もし“また撮ったら”――
きっと、彼はまた見る。
それだけは確信できた。
そして私は、今夜もスマホを手に取るかもしれない。
その可能性が、自分の中でだんだんと濃くなっていくのを、
ただ黙って、受け入れていた。
それは、何の前触れもなくやってきた。
その日も、私はいつものように夕飯を作っていた。
包丁の音、味噌汁の湯気、炒め物の匂い。
窓から差し込む夕方の光が、キッチンのタイルを鈍く照らしていた。
後ろから、足音がした。
軽い、慎重な足取り。
気づいていないふりをして、私は味噌汁の味を見ていた。
すると突然――
背中に、手が添えられた。
軽く、でも確かに。
腰の少し上、エプロンの結び目のあたり。
柔らかく置かれたその手の感触に、全身がびくっと震えた。
「……熱くない?」
息子の声だった。
低く、小さく、でも確かに私の耳に届いた。
私の手元をのぞくようにしながら、彼はすぐそばに立っていた。
肩と肩が、かすかに触れ合う距離。
台所にこんなに狭いスペースがあっただろうか、と思うほどの近さ。
「うん、大丈夫よ」
私はなるべく平静を装って答えたけれど、声は少しかすれていた。
息子はそれ以上何も言わなかった。
けれど、すぐに離れることもなかった。
その手は、しばらくのあいだ、そこに残っていた。
まるで私の反応を試すように。
それとも、自分の衝動を確かめるように。
私は――動けなかった。
言葉を失い、ただ、心臓の音ばかりが身体の奥で膨らんでいく。
やがて彼は、そっと手を離した。
何もなかったように冷蔵庫を開け、水を取り出し、
何気ない口調で言った。
「今日の、ごはんの匂い……なんか落ち着く」
それだけ言って、リビングへ戻っていった。
私はその場に立ち尽くしたまま、味噌汁の火を止めるのも忘れていた。
あの手のぬくもりが、まだ背中に残っていた。
彼は――距離を詰めてきた。
無言の写真のやりとりを越えて、
もう「言葉」も「触れる」ことも恐れない顔をしていた。
私は、何をしてしまったんだろう。
それとも、何を望んでしまっているのだろう。
答えは出なかった。
でも、このままではいけないと、思うことさえもう難しかった。
私たちは、きっともう、
“許される関係”という岸辺から、
遠くへ流されはじめていたのだ。