その夜は、不思議なほど静かだった。
風の音もなければ、家のどこかがきしむ音さえもしない。
眠ろうと布団に入ったけれど、身体が落ち着かなかった。
目を閉じても、思い出すのは夕方のあの距離。
背中に添えられた、あの子の手。
すぐそばで感じた、呼吸の熱。
時間にすればほんの数秒。
でも、あの一瞬が、私の中の何かを決定的に変えてしまっていた。
こんなこと、してはいけない。
理性は、何度もそうささやいた。
でも、もう抑えきれなかった。
私は、静かに布団を抜け出し、足音を忍ばせて廊下を歩いた。
あの子の部屋の前で、一度、立ち止まる。
ドアの向こうからは何の気配もしない。
灯りは落ちている。眠っているのだろうか。
それでも私は、ノックすらせずに、そっとドアノブに手をかけた。
開いていた。鍵は――かかっていなかった。
ゆっくりと、ほとんど音を立てずに、ドアを開ける。
薄暗い室内。
ベッドに寝そべるあの子の姿が、うっすらと見えた。
仰向けで、目を閉じている。
起きているのか、寝ているのか、それすらわからなかった。
私はただ、それを“確認”しただけで、静かに部屋をあとにした。
何もしていない。
何も起きていない。
ただ――「来てしまった」。
その事実だけが、すべてだった。
戻った自分の部屋は、妙に冷たく感じた。
でも、それは空気のせいじゃない。
私の中の“境界線”が、もう壊れてしまったことに、気づいてしまったからだ。
私は初めて、“自分から動いた”。
あの子が寝ている部屋の前で立ち尽くした時間。
開いたドアの向こうの空気。
それは、いまだに私の手のひらに残っているような気がしていた。
そして私は、もう知ってしまった。
「やめたい」と思う気持ちよりも、
「見られたい」「求められたい」と願う自分のほうが、
強くなっているということを。
言葉はなかった。
行動も、ほんの一歩だけだった。
でも、それで充分だった。
それだけで、もう、前には戻れないことを思い知った夜だった。
私は、あの夜のことを誰にも話さなかった。
もちろん、あの子にも。
彼の部屋の前に立ち、ドアを開け、中をのぞき、
何もせずに戻ってきたこと――
それは行動にすらならない「一歩」だったはずだった。
でも、それは私の中では“境界線の破損”を意味していた。
その夜以来、私はどこか自分が変わったことを、否応なく自覚していた。
気づけば、カメラロールを開く回数が増えていた。
消しきれずに残っていた写真を、何度も見返してしまう。
画面に映るのは、あの子に“見られること”を意識した私の姿だった。
こんな自分が嫌いだった。
でも、否定はできなかった。
夜になると、眠る前の数分が怖くなる。
あの子が何を思っているのか、自分が次に何をするのか――
それを考えるだけで胸が苦しくなる。
でもその苦しさは、どこか甘さを含んでいた。
ある夜。
私はシャワーを浴びたあと、鏡の前で自分を見つめた。
濡れた髪。バスローブの隙間からのぞく胸元。
そこに写るのは、“母”ではなかった。
もう何度も見慣れてしまった「女」としての自分。
そして私は――またスマホを手に取っていた。
何枚かシャッターを切った。
でも今回は、撮ってすぐには保存しなかった。
一枚一枚、見比べながら、どれが“届く”かを考えていた。
“届いてしまったら、どうなるのか”。
その先のことを、初めて“明確に”想像してしまった。
あの子が、手を伸ばしてくる。
私が、それを受け入れてしまう。
言葉はなくても、視線と行動ですべてがわかってしまう夜。
ありえない。
そう思いながら、指先が震えていた。
でも、心の奥では、もう“その夜”を待ってしまっている自分がいた。
「どうして?」と誰かに聞かれたら、何も答えられない。
ただ、“理由のない何か”が、私を動かしていた。
満たされなかったもの。
求められることの歓び。
見られることでしか、自分を確かめられなくなった日々。
私は、もう止めることができなかった。
誰かに気づかれればいい、と思う反面、
誰にも知られたくないという矛盾も抱えながら――
その夜、私はまた写真を撮った。
けれど、保存だけはしなかった。
カメラロールを閉じ、スマホをベッドの横に置いた。
息を深く吸って、目を閉じた。
まだ、超えていない。
でも、境界の足元に立っていることだけは、はっきりと分かっていた。
そして、もう一歩――
踏み出すのは、次か、その次か。
それは時間の問題だという確信だけが、
私の中で、静かに根を張っていた。
その日も、特別なことは何もなかった。
買い物をして、洗濯をして、夕飯を作った。
あの子は、いつも通りにテーブルに座って、ごはんを食べていた。
でも、私はわかっていた。
彼の視線が、時折ほんの少しだけ、私の胸元を見ていること。
立ち上がるたび、足首や背中に目が流れていること。
もう、驚きはなかった。
むしろ、それが自然になってしまっていることが、少しだけ怖かった。
私は、彼の目に映る自分を、想像していた。
“母親”ではなく、
“あの写真”の中にいた私を。
そして、思ってしまったのだ。
――あの子がもし、今夜、私の部屋に来たら。
私は、きっともう……止められない。
それを思った瞬間、胸の奥に、はっきりとした熱が灯った。
言い訳も、理屈も、通じないような感情だった。
何かが、決まってしまったような感覚。
食器を洗っているとき、手元の水音が遠くに聞こえていた。
お湯のぬるさも、スポンジの感触も、ぼんやりとしか感じなかった。
その代わりに、頭の中ではひとつの問いが、何度も繰り返されていた。
――今夜、もしもあの子が来たら?
答えは、もう決まっていた。
私が“最後の写真”を撮るのは、きっと今夜なのだろう。
誰のためか――それももう、隠しようがなかった。
夜。
布団に入っても、目を閉じても、身体が温まらなかった。
肌の表面ばかりが熱く、心の奥がざわついていた。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
隣の部屋の気配に耳を澄ませている自分に気づいて、
ふと、静かに笑ってしまった。
私は――
もう、待っているのだと。
来るか来ないかではない。
来てくれることを、望んでしまっているのだと。
それが、決定的だった。
私は布団から起き上がり、タンスの引き出しを開けた。
いつもよりも柔らかな素材のインナー、
肩が落ちる薄手のカーディガン。
それらを身に着ける動作は、もう迷いのないものだった。
鏡の前に立ち、髪を整え、唇に薄く色を乗せる。
「母親」には必要のない準備だった。
でも、“あの子に見られる私”には、必要なものだった。
私はその姿を、スマホのカメラで一枚だけ、記録した。
それは、見せるための写真ではなかった。
ただ、自分に言い聞かせるように――
「私は、もう選んだ」と告げるための儀式のような一枚だった。
そして、明かりを消して、
ベッドの中で静かに目を閉じた。
心の中で、何かがはっきりと終わっていた。
そして、何かが――始まろうとしていた。