※この作品はR-18です。

裏 母の写真   作:松田義和

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何かが――始まろうとしていた

その夜は、不思議なほど静かだった。

風の音もなければ、家のどこかがきしむ音さえもしない。

 

眠ろうと布団に入ったけれど、身体が落ち着かなかった。

目を閉じても、思い出すのは夕方のあの距離。

背中に添えられた、あの子の手。

すぐそばで感じた、呼吸の熱。

 

時間にすればほんの数秒。

でも、あの一瞬が、私の中の何かを決定的に変えてしまっていた。

 

こんなこと、してはいけない。

理性は、何度もそうささやいた。

 

でも、もう抑えきれなかった。

 

私は、静かに布団を抜け出し、足音を忍ばせて廊下を歩いた。

あの子の部屋の前で、一度、立ち止まる。

ドアの向こうからは何の気配もしない。

灯りは落ちている。眠っているのだろうか。

 

それでも私は、ノックすらせずに、そっとドアノブに手をかけた。

開いていた。鍵は――かかっていなかった。

 

ゆっくりと、ほとんど音を立てずに、ドアを開ける。

 

薄暗い室内。

ベッドに寝そべるあの子の姿が、うっすらと見えた。

仰向けで、目を閉じている。

起きているのか、寝ているのか、それすらわからなかった。

 

私はただ、それを“確認”しただけで、静かに部屋をあとにした。

何もしていない。

何も起きていない。

ただ――「来てしまった」。

 

その事実だけが、すべてだった。

 

戻った自分の部屋は、妙に冷たく感じた。

でも、それは空気のせいじゃない。

私の中の“境界線”が、もう壊れてしまったことに、気づいてしまったからだ。

 

私は初めて、“自分から動いた”。

 

あの子が寝ている部屋の前で立ち尽くした時間。

開いたドアの向こうの空気。

それは、いまだに私の手のひらに残っているような気がしていた。

 

そして私は、もう知ってしまった。

 

「やめたい」と思う気持ちよりも、

「見られたい」「求められたい」と願う自分のほうが、

強くなっているということを。

 

言葉はなかった。

行動も、ほんの一歩だけだった。

 

でも、それで充分だった。

それだけで、もう、前には戻れないことを思い知った夜だった。

 

 

私は、あの夜のことを誰にも話さなかった。

もちろん、あの子にも。

 

彼の部屋の前に立ち、ドアを開け、中をのぞき、

何もせずに戻ってきたこと――

それは行動にすらならない「一歩」だったはずだった。

 

でも、それは私の中では“境界線の破損”を意味していた。

 

その夜以来、私はどこか自分が変わったことを、否応なく自覚していた。

気づけば、カメラロールを開く回数が増えていた。

消しきれずに残っていた写真を、何度も見返してしまう。

画面に映るのは、あの子に“見られること”を意識した私の姿だった。

 

こんな自分が嫌いだった。

でも、否定はできなかった。

 

夜になると、眠る前の数分が怖くなる。

あの子が何を思っているのか、自分が次に何をするのか――

それを考えるだけで胸が苦しくなる。

でもその苦しさは、どこか甘さを含んでいた。

 

ある夜。

私はシャワーを浴びたあと、鏡の前で自分を見つめた。

 

濡れた髪。バスローブの隙間からのぞく胸元。

そこに写るのは、“母”ではなかった。

もう何度も見慣れてしまった「女」としての自分。

 

そして私は――またスマホを手に取っていた。

何枚かシャッターを切った。

でも今回は、撮ってすぐには保存しなかった。

一枚一枚、見比べながら、どれが“届く”かを考えていた。

 

“届いてしまったら、どうなるのか”。

その先のことを、初めて“明確に”想像してしまった。

 

あの子が、手を伸ばしてくる。

私が、それを受け入れてしまう。

言葉はなくても、視線と行動ですべてがわかってしまう夜。

 

ありえない。

そう思いながら、指先が震えていた。

 

でも、心の奥では、もう“その夜”を待ってしまっている自分がいた。

 

「どうして?」と誰かに聞かれたら、何も答えられない。

ただ、“理由のない何か”が、私を動かしていた。

 

満たされなかったもの。

求められることの歓び。

見られることでしか、自分を確かめられなくなった日々。

 

私は、もう止めることができなかった。

誰かに気づかれればいい、と思う反面、

誰にも知られたくないという矛盾も抱えながら――

 

その夜、私はまた写真を撮った。

 

けれど、保存だけはしなかった。

カメラロールを閉じ、スマホをベッドの横に置いた。

息を深く吸って、目を閉じた。

 

まだ、超えていない。

でも、境界の足元に立っていることだけは、はっきりと分かっていた。

 

そして、もう一歩――

踏み出すのは、次か、その次か。

それは時間の問題だという確信だけが、

私の中で、静かに根を張っていた。

 

 

その日も、特別なことは何もなかった。

買い物をして、洗濯をして、夕飯を作った。

 

あの子は、いつも通りにテーブルに座って、ごはんを食べていた。

でも、私はわかっていた。

彼の視線が、時折ほんの少しだけ、私の胸元を見ていること。

立ち上がるたび、足首や背中に目が流れていること。

 

もう、驚きはなかった。

むしろ、それが自然になってしまっていることが、少しだけ怖かった。

 

私は、彼の目に映る自分を、想像していた。

 

“母親”ではなく、

“あの写真”の中にいた私を。

 

そして、思ってしまったのだ。

 

――あの子がもし、今夜、私の部屋に来たら。

私は、きっともう……止められない。

 

それを思った瞬間、胸の奥に、はっきりとした熱が灯った。

言い訳も、理屈も、通じないような感情だった。

何かが、決まってしまったような感覚。

 

食器を洗っているとき、手元の水音が遠くに聞こえていた。

お湯のぬるさも、スポンジの感触も、ぼんやりとしか感じなかった。

その代わりに、頭の中ではひとつの問いが、何度も繰り返されていた。

 

――今夜、もしもあの子が来たら?

 

答えは、もう決まっていた。

 

私が“最後の写真”を撮るのは、きっと今夜なのだろう。

誰のためか――それももう、隠しようがなかった。

 

夜。

布団に入っても、目を閉じても、身体が温まらなかった。

肌の表面ばかりが熱く、心の奥がざわついていた。

 

時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

隣の部屋の気配に耳を澄ませている自分に気づいて、

ふと、静かに笑ってしまった。

 

私は――

もう、待っているのだと。

来るか来ないかではない。

来てくれることを、望んでしまっているのだと。

 

それが、決定的だった。

 

私は布団から起き上がり、タンスの引き出しを開けた。

いつもよりも柔らかな素材のインナー、

肩が落ちる薄手のカーディガン。

 

それらを身に着ける動作は、もう迷いのないものだった。

鏡の前に立ち、髪を整え、唇に薄く色を乗せる。

 

「母親」には必要のない準備だった。

でも、“あの子に見られる私”には、必要なものだった。

 

私はその姿を、スマホのカメラで一枚だけ、記録した。

それは、見せるための写真ではなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように――

「私は、もう選んだ」と告げるための儀式のような一枚だった。

 

そして、明かりを消して、

ベッドの中で静かに目を閉じた。

 

心の中で、何かがはっきりと終わっていた。

そして、何かが――始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

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