※この作品はR-18です。

母さんと隣の男   作:松田義和

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第一章:境界線の向こう側

母さんが変わったと感じたのは、春が終わりかけた頃だった。

いつも通りの朝食、いつも通りの洗濯物、いつも通りの笑顔。けれどそのすべてに、どこか“余所行き”の匂いがした。

 

最初に気づいたのは、玄関の鍵の音だった。

夜、僕が部屋にいると、決まって22時過ぎにカチャリと鳴る。母さんは「近所のスーパーで安売りがあるから」と言っていたけれど、毎日毎日、夜遅くに買い物なんておかしい。

 

それに、その日は雨が降っていた。

びしょ濡れで帰ってきた母さんは、傘を持っていなかった。

 

「……傘は?」

 

「え? あ、持ってたんだけど、風で飛ばされちゃって」

 

そう言って笑う母さんの横顔には、濡れた髪が張りついていた。

なぜか、その様子が妙に艶っぽく見えて、僕は思わず目を逸らした。

 

⸻

 

数日後、僕はあることに気づく。

二軒隣に住む男――無口で、いつも洗濯物を干す姿だけが見える中年の男――のベランダと、母さんのベランダが“何か”でつながっていた。

 

細いロープのようなもの。洗濯紐かもしれないし、コードのようにも見えた。

はじめは偶然かと思った。でも、そのロープの中央には小さな布袋のようなものがぶら下がっていた。何かを“渡す”ための仕掛けだったのかもしれない。

 

僕は、その晩、寝たふりをしてリビングの様子をうかがった。

 

0時近く。

母さんはスマホをいじりながら、ソファに座っていた。部屋着は少し薄手で、肩が見えていた。

その姿のまま、ゆっくりとベランダに出ていく。

 

そして――彼女は何かを受け取った。

 

暗くてはっきりとは見えなかったが、手にした小袋のようなものを見て、母さんは一瞬、笑った。

どこか甘えるような、そんな表情だった。

 

僕の喉が、カラカラに乾いた。

 

⸻

 

ある夜、ついに決定的な場面を見てしまった。

 

僕が帰宅したとき、母さんはいなかった。

「ご飯は自分でチンして」とLINEだけが来ていた。

 

でも、洗面所に彼女のスマホが置きっぱなしだった。画面には通知が表示されていた。

 

『22時。今日はこっちの部屋で。ドア開けておくから』

 

送り主は“田原”という名前だった。

……二軒隣の、あの男。

 

僕は、スマホを握りしめたまま、動けなくなった。

 

⸻

 

それから数日後。

母さんは何事もなかったかのようにふるまっていた。でも僕は知っている。彼女の目がどこか遠くを見ていること。夜になると化粧直しをするようになったこと。香水の匂いが微かに変わったこと。

 

ある晩、僕は覚悟を決めて、田原の家の前に立った。

 

ドアに耳を当てると、かすかな音が聞こえた。

笑い声。低い男の声。そして、母さんの、押し殺したような吐息。

 

僕はそっとドアノブに手をかけた。

鍵は……開いていた。

 

 

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