母さんが変わったと感じたのは、春が終わりかけた頃だった。
いつも通りの朝食、いつも通りの洗濯物、いつも通りの笑顔。けれどそのすべてに、どこか“余所行き”の匂いがした。
最初に気づいたのは、玄関の鍵の音だった。
夜、僕が部屋にいると、決まって22時過ぎにカチャリと鳴る。母さんは「近所のスーパーで安売りがあるから」と言っていたけれど、毎日毎日、夜遅くに買い物なんておかしい。
それに、その日は雨が降っていた。
びしょ濡れで帰ってきた母さんは、傘を持っていなかった。
「……傘は?」
「え? あ、持ってたんだけど、風で飛ばされちゃって」
そう言って笑う母さんの横顔には、濡れた髪が張りついていた。
なぜか、その様子が妙に艶っぽく見えて、僕は思わず目を逸らした。
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数日後、僕はあることに気づく。
二軒隣に住む男――無口で、いつも洗濯物を干す姿だけが見える中年の男――のベランダと、母さんのベランダが“何か”でつながっていた。
細いロープのようなもの。洗濯紐かもしれないし、コードのようにも見えた。
はじめは偶然かと思った。でも、そのロープの中央には小さな布袋のようなものがぶら下がっていた。何かを“渡す”ための仕掛けだったのかもしれない。
僕は、その晩、寝たふりをしてリビングの様子をうかがった。
0時近く。
母さんはスマホをいじりながら、ソファに座っていた。部屋着は少し薄手で、肩が見えていた。
その姿のまま、ゆっくりとベランダに出ていく。
そして――彼女は何かを受け取った。
暗くてはっきりとは見えなかったが、手にした小袋のようなものを見て、母さんは一瞬、笑った。
どこか甘えるような、そんな表情だった。
僕の喉が、カラカラに乾いた。
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ある夜、ついに決定的な場面を見てしまった。
僕が帰宅したとき、母さんはいなかった。
「ご飯は自分でチンして」とLINEだけが来ていた。
でも、洗面所に彼女のスマホが置きっぱなしだった。画面には通知が表示されていた。
『22時。今日はこっちの部屋で。ドア開けておくから』
送り主は“田原”という名前だった。
……二軒隣の、あの男。
僕は、スマホを握りしめたまま、動けなくなった。
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それから数日後。
母さんは何事もなかったかのようにふるまっていた。でも僕は知っている。彼女の目がどこか遠くを見ていること。夜になると化粧直しをするようになったこと。香水の匂いが微かに変わったこと。
ある晩、僕は覚悟を決めて、田原の家の前に立った。
ドアに耳を当てると、かすかな音が聞こえた。
笑い声。低い男の声。そして、母さんの、押し殺したような吐息。
僕はそっとドアノブに手をかけた。
鍵は……開いていた。