あの夜を境に、僕の中の何かが音を立てて崩れた。
けれど、何事もなかったように日常は続いていった。
母さんも変わらなかった。
朝はいつも通りに起き、弁当を作り、洗濯物を干す。
ただ――夜になると、少しだけ時間の流れが変わる気がした。
22時を過ぎると、母さんは妙に落ち着きがなくなる。
スマホをチェックする頻度が増え、鏡の前で髪を整える回数が増えた。
「ちょっとコンビニ行ってくるね」
そう言って出ていく後ろ姿が、すでに女のものに見えた。
僕は、問いただすことができなかった。
怖かった。母さんが何を答えるのか、その言葉がどれだけ残酷なものになるか、考えるだけで喉がつまる。
だから、僕は――見に行くことにした。
最初は確認だった。ただの確認。
母さんが隣に入っていく姿を見る。それだけでよかった。
でも、ある夜、鍵が閉まっている玄関の前で、僕は思わず耳をあてていた。
廊下の冷たい空気。湿った壁の匂い。
そして、扉の向こうから聞こえるかすかな音――笑い声、ベッドのきしむ音、息遣い。
耳に響くその音が、僕の体の奥に何かを残していった。
やがて、その“何か”は習慣になった。
⸻
毎夜、母さんが出かけると、僕もこっそり後を追った。
二軒隣の田原の家の前。
鍵が開いていれば、隙間から覗いた。
閉まっていれば、耳を当てた。
ある晩は、はっきりと聞こえた。
母さんの、少し甘えた声。
「あ……そこ、だめ……」
なのに、それは本気で拒んでいる声ではなかった。むしろ、誘うように、男の手を導いているように聞こえた。
僕は息を殺し、壁に張りついたまま、ずっと耳を澄ませていた。
そして気づいた。
僕は、楽しんでいる。
母さんが堕ちていく姿を、見届けることに。
自分が、最低だという自覚はあった。
でもやめられなかった。
この行為は、僕の中で何かを満たしてくれる。
母さんが他の男に抱かれている、その現実を、確かめることでしか癒せない感情がある。
何に対する怒りなのか、嫉妬なのか、愛情なのか――もうわからなかった。
⸻
ある夜、いつものように壁に耳を当てていた僕に、ある異変が起きた。
ガチャリ――と、鍵の音。
反射的にしゃがみこみ、物陰に身を隠した僕の目の前を、母さんが歩いていった。
笑っていた。
頬が赤く染まり、髪は少し乱れていた。
そして、その手にはスマホが握られていた。
ふと、彼女が足を止める。
僕の隠れている場所のすぐそば。
そして、スマホを取り出し、カメラをこちらに向けた。
――まさか。気づかれている?
僕は一瞬、心臓が止まるかと思った。
でも母さんは、何も言わず、そのままスマホをポケットに戻し、家へと消えていった。
……その夜、僕は眠れなかった。
画面の向こうで何かが始まっている気がしてならなかった。
覗いているのは、果たして僕だけなのか――それすらも。