母さんのスマホを、僕が初めて手に取ったのは、ほんの出来心だった。
あの日、母さんはシャワーを浴びていた。
洗面所の棚に、画面を伏せたままスマホが置かれていた。
通知音が一度だけ鳴った。
僕は反射的にその画面を見た。
メッセージはプレビューされていなかった。けれど、そこに表示されていたアプリの名前は見覚えのないものだった。
「G.Files」
ファイル転送・保管系のサービスアプリらしい。
でも、母さんがそんなものを使っているなんて……。
――まさか。
そのまま、僕はスマホを手に取った。
指紋認証はかかっていなかった。母さんはそういうのに疎い。
アプリを開くと、そこには「PRIVATE」という名のフォルダが一つだけ存在していた。
恐る恐る、そのフォルダをタップする。
表示されたのは数本の動画ファイル。ファイル名には何の情報もない。ただ無機質な数字と日付。
一番上のファイルを再生した。
⸻
暗い部屋。カーテンが半分閉じられたベランダ側の照明だけが点いている。
カメラは固定されていて、部屋の一角――ベッドの上を捉えていた。
映っているのは……母さんだった。
白いシャツに黒のインナー。髪を結い上げ、どこか準備されたような格好。
画面の右端に、男がゆっくりと現れる。
田原だ。
会話の音声は入っていない。けれど、表情と動きだけで状況が伝わってきた。
母さんは、笑っていた。
そして、シャツのボタンを自分で外していった。
田原の手が触れる前に、彼女はすでに肌を晒していた。
僕は動けなかった。
カメラの存在に気づいているように見えた。
いや――むしろ、**最初からそのカメラに“見せている”**ような動きだった。
表情、ポーズ、視線。
どれもが自然なようでいて、どこか作為的だった。
田原の手が彼女の脚に伸びたとき、母さんは一瞬だけ、カメラの方に視線を向けた。
それは偶然じゃない。
間違いなく“誰かに見せる”ことを意識した、確かな眼差しだった。
誰に?
田原に?
それとも――僕に?
⸻
映像は途中で暗転し、やがてフェードアウトした。
10分ほどの記録だった。
しかしその10分は、僕の頭の中で永遠にも感じられた。
スマホを棚に戻し、洗面所を出た後も、僕の心臓は激しく脈打ち続けていた。
息苦しかった。
けれど、その夜、僕はもう一度その映像を見たくてたまらなかった。
そして気づいてしまった。
この記録は、たまたま残されたものじゃない。
これは、保存された“誰かへの贈り物”だ。
その誰かが、もし――僕なのだとしたら。
母さんはもうすべてを、知っている?
⸻
翌朝。
食卓で目を合わせたとき、母さんがふっと笑った。
その笑みは、何も知らない母の顔のようでいて、どこか底知れぬ気配を孕んでいた。
「スマホ、充電しておいてくれてありがとう」
僕は黙って頷いた。
胸の奥に、言いようのない火種がくすぶり続けていた。