久しぶりの家族旅行だった。
車から降りたとき、ふっと鼻に入ってきた硫黄の匂いに、私は「来たなぁ」と思わず小さく呟いてしまった。
「やっぱり温泉の匂いって、いいわね」
夫は何も言わずに黙々とトランクを開けて荷物を取り出し、息子はスマホをいじりながらその後ろをついていく。
私たち三人──静かな夫と、思春期まっただ中の息子と、そして私。
平凡な家族。けれど、かけがえのない、私のすべてだった。
「こら、歩きスマホやめなさいってば」
私の声に、息子は「はいはい」と生返事を返す。
その様子に、私は苦笑するしかない。
それでも、ほんの少し前まで手を繋いで歩いていた男の子が、こうしてもう私の背を越えて並んで歩いている。
その成長を、私はどれだけ嬉しく、そしてどこか寂しく思ってきたことだろう。
──母でいることは、私の誇りだった。
家を守り、夫を支え、息子の成長を見届ける。
それ以上に望むものなんて、私にはなかった。
自分の写真を撮ることもほとんどないけれど、庭の花や、毎朝の朝ごはん、息子のお弁当はよくスマホに残している。
その一枚一枚が、私にとって“幸せ”の証だった。
「いらっしゃいませ。当館へようこそ」
旅館の女将さんの柔らかな声に出迎えられて、私は深く頭を下げる。
照明の優しい光、磨き込まれた木の床、ほのかに香る畳の匂い──
ああ、やっぱり日本の旅館って落ち着くなぁ、と思う。
部屋に通されると、息子は窓際で景色を眺め、夫はテレビのリモコンを手に取る。
私はその光景を、少し離れたところから見るのが好きだった。
こうして、二人のいる空間にいること。
その中心に“母”として座っていられること。
それだけで、私は十分だった。
──そう、ほんのささいなきっかけが、すべてを変えるまでは。
囲炉裏を囲むようにして並べられた料理の数々に、私は思わず「わぁ……」と声を漏らした。
川魚の塩焼きに、小さな籠盛りの前菜、湯葉の刺身に季節の炊き込みご飯。
どれも丁寧に作られていて、見た目にも鮮やかだった。
「豪華だね」
息子がぽつりと呟いたその一言が、私はなぜかすごく嬉しかった。
最近は学校の帰りにコンビニで何か買って食べてくることも多くなって、
夕食を「美味しそう」と言ってくれることも少なくなっていたから。
「あなたもこういうの、覚えておきなさいね。女の子と旅行するときに役立つわよ」
そうからかうように言うと、息子は「まだ早いよ」と顔をしかめて箸を取った。
夫は相変わらず多くを語らず、それでも私がよそったお椀の味噌汁に「うん、うまいな」と一言。
──それだけで、よかった。
「これ、写真撮ってもいい?」
「もちろん。ほら、湯気が立ってるうちに撮った方が綺麗よ」
息子がスマホを向けた瞬間、私は思わず手元の小鉢を少し右に寄せた。
そうすれば、お皿の配置がもっと映えると思ったから。
そんな細かい気配りが、私はきっと、好きなのだ。
何かを整えること。誰かが満足するように、気を配ること。
食事中、夫は仕事の話をちらっと口にして、それに息子が軽く相槌を打つ。
私はそんな二人の会話を聞きながら、ただお酒を少しだけ舐めるように口に運んでいた。
──幸せって、こういうものなんだと思う。
にぎやかでもなく、特別な会話があるわけでもないけれど、
誰かと温かいものを食べて、同じ空間にいることがこんなにも満たされることだなんて。
「ごちそうさまでした」
三人で並んで食事を終えたあと、私たちは部屋へ戻った。
お腹がいっぱいになった夫は早々に浴衣に着替え、いつものようにテレビの前にどっかりと座る。
息子はスマホを持って、窓際の椅子に腰かけて何やら画面を眺めている。
そんな二人を見ているだけで、私はなんだか心が落ち着いた。
この空気が好きだった。
誰かに気を張る必要もなくて、自然と家族の輪の中にいられる、この静かな安心感。
けれど──ふと、私は立ち上がった。
「ちょっと、お風呂行ってくるわね」
「うん」
「行ってらっしゃい」
返ってくるのは、短くて素っ気ない返事。
でも、それがいい。私がそう言えば、二人とも何も気にせず、そこにいてくれる。
だから私は安心して、襖を静かに開けた。
廊下に出ると、ふわりとした畳の感触が足裏に心地よく伝わる。
時間は、もう夜の九時を少し回ったころ。
館内はしん…と静まりかえっていて、時折、遠くのどこかの部屋から笑い声が聞こえてくるだけだった。
お風呂は、離れにある露天風呂“月影の湯”。
フロントに貼られていた案内には「21時までは混浴ですが、女性専用時間も設けております」とあった。
けれど私は、その“混浴”の文字をあまり気にしていなかった。
まさか、この時間に誰かと鉢合わせするなんて思いもしなかったから。
「……空いてるといいな」
そうつぶやきながら、私は木の渡り廊下を進んだ。
外気がひんやりと肌に触れて、浴衣の袖が小さく揺れる。
頭上にはくっきりとした月が浮かんでいて、その光が遠くの山の端を白く照らしていた。
──たまには、こういう時間も、いいかもしれない。
そう思いながら、私は暖簾をくぐり、そっと脱衣所へと足を踏み入れた。
脱衣所には誰もいなかった。
思わず小さく息をついて、私はそっと扉を閉めた。
籐の籠に浴衣をたたんで入れ、タオルだけを手に取って、鏡の前に立つ。
髪を軽く結い直して、額に少し汗がにじんでいるのを見て、指先で拭った。
──なんだか、久しぶりかも。
ひとりでお風呂に入るのって。
夫と息子が家にいるときは、なるべく素早く済ませるようにしている。
家族を待たせたくないし、湯船に浸かってぼんやりする時間なんて、正直、ここ数年はほとんどなかった。
でも今夜は──少しだけ、いいかな。
そう思いながら、私は暖簾をくぐって外へ出た。
ふわり、と冷たい夜風が足元を撫でた。
湯気の立ちのぼる露天風呂の岩縁が、月明かりに照らされて白く光っている。
その光景に、私は思わず目を細めた。
タオルを巻いたまま、湯に片足を沈める。
熱すぎない、ちょうどいい温度だった。
ゆっくりと身を滑らせていくと、体の芯からじんわりと温まっていく。
「……ふぅ」
自然に、声が漏れた。
肩まで湯に浸かり、背を岩にもたせて見上げた空には、雲ひとつない。
湯気と虫の音だけが耳に届く、静かな時間。
こんなふうに、何も考えずに空を眺めるのはいつ以来だろう。
私は目を閉じ、胸の前でそっと腕を組んだ。
──私は、母でいることが好きだ。
夫がいて、息子がいて、毎日同じような日々でも、あの人たちが元気でいてくれればそれでいい。
それが、ずっと、私の誇りだった。
湯の表面が、わずかに揺れた。
……風だろうか。そう思って目を開けたそのとき──
ざぶっ。
岩を踏む音。湯をかく水音。
耳に届いたその気配に、私は体をこわばらせた。
──誰か、来た?
心臓が一瞬、跳ねる。
湯気の向こう、まだはっきりとは見えないその影が、少しずつこちらに近づいてきた。
「こんばんは」
低く、よく通る男の声。
その声に、私は思わず肩をすくめた。
「……こんばんは」
返した声は、自分でもわかるほど上ずっていた。
私は視線を逸らしたまま、胸元のタオルをそっと押さえる。
──まさか、本当に混浴だったなんて。