湯けむりの向こうから、男がゆっくりと湯に入ってくる気配がした。
ざぶん、と音を立てて湯が波打つ。
その波が私のもとまで届き、胸元のタオルがわずかにふわりと浮いた。
私は思わず手でそれを押さえ、そっと身体を沈め直した。
男は、私から少し離れた岩の縁に背を預けるようにして腰を下ろした。
その距離は、見えない緊張で測られているようだった。
「……混浴って、今どき珍しいですよね」
声をかけたのは、私だった。
沈黙が怖かったわけじゃない。でも、声を出さずにはいられなかった。
「ええ。俺も最初びっくりしました。…けど、好きなんですよ、こういう風呂」
男の声は、思ったより穏やかで、少し笑っているようだった。
私はその声音に、ほっとしたような、でも逆に身構えてしまうような、不思議な感覚を覚えた。
「…この時間、空いててよかったですね」
「そうですね。…お一人ですか?」
「いえ。家族で。…主人と、息子と」
「そっか…羨ましいな」
男はそう言うと、軽く肩をすくめたように見えた。
それ以上は聞いてこない。私も、聞かれたくなかった。
再び静寂が落ちる。
湯の音と、虫の声と、時折吹く風の音だけ。
そのなかで、私は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。
(何を、してるの……私)
こんな場所にひとりで来るべきじゃなかったのかもしれない。
でも、帰るに帰れない。今、湯から上がるという行為が、この状況を特別にしてしまう気がして。
だから私は、何もなかったように、そこにいるしかなかった。
「月が綺麗ですね」
男の声に、私はふと顔を上げる。
空に、まるい月がひとつ、雲のない夜空に浮かんでいた。
「……ええ」
それしか言えなかった。
でもきっと、今の私は、いつもの私とは少しだけ違う顔をしている気がした。
湯の中で静かに揺れるその気持ちを、私はまだ言葉にできずにいた。
ふと──
男が、湯の中で動いた。
ざぶ…と音を立てて、彼は湯から立ち上がった。
私は咄嗟に目を逸らした。
でも、完全には見ないふりなんて、できなかった。
湯けむりの向こう、背の高いその男の身体が、月明かりに照らされて静かに浮かび上がる。
肩幅の広い、無駄な肉のない体つき。
腕や脚に刻まれた筋肉の陰影が、なぜかやけにくっきりと目に映った。
──隠さないんだ。
そう思った瞬間、自分の心がざわついた。
バスタオルひとつで身を隠していた私とは、まるで違う。
恥じらいもなく、ためらいもなく、ただそのままの姿で湯から出ていく男の背中が、
なぜか、まぶしく見えた。
「先に上がります。…いい湯でした」
そう言って、男は私の方を振り返ることなく、ゆっくりと湯船から離れていった。
足音が遠ざかり、やがて脱衣所の扉が開き──静かに閉じられた。
私は、湯の中で小さく息をついた。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
湯気に紛れて、自分の胸の鼓動がじわじわと響いていた。
──見てしまった。
でもそれ以上に、何かを“感じてしまった”。
自分がなぜ、こんなにも動揺しているのか、わからなかった。
何もされていない。話をしただけ。
ただ、それだけなのに。
私はそっと、胸元のタオルを握りしめた。
湯の中で、まだ身体が熱くて、冷める気配はなかった。
脱衣所に戻ったとき、そこにも誰の姿もなかった。
扉を閉めると、外の冷たい空気がぴたりと遮断されて、湯気の余韻と、木の香りがほんのり漂う静かな空間が広がっていた。
私は籠の前に腰を下ろし、タオルをそっとはずす。
湿った布地が肌から離れると、ひんやりとした空気が一気にまとわりついてきた。
火照った肌に冷たさが触れて、ようやく自分の輪郭を思い出すような感覚があった。
鏡の前に立って、髪を下ろす。
しっとりと湿った髪を指でとかしながら、鏡越しに映る自分をぼんやりと見つめた。
──いつもと同じ顔のはずなのに、どこか、違って見えた。
頬がほんのり紅いのは、湯に長く浸かっていたせいだろうか。
それとも──
私は、自分の唇に視線を落とした。
うっすらと濡れて、わずかに開いているその形が、なぜか自分のものではないように感じた。
(見てしまったんだ、私)
目を逸らしたはずなのに、焼きついた輪郭が、まだ頭の奥に残っている。
そのくっきりとした背中、太腿の筋、そして…
私は思わず、タオルを握りしめた手に力が入っていたことに気づいた。
──私は、何に動揺しているの?
恥ずかしい? 怖かった?
それとも、何かを比べてしまったから──?
「……違う」
小さく、つぶやいた声が、自分の耳にもはっきりと届いた。
違う、そんな気持ちじゃない。
でも、それが何かも、今の私にはまだはっきり言えなかった。
髪を乾かしながら、私は一度、鏡に背を向けた。
そしてもう一度振り返って、自分の顔を見つめた。
──私は、母親だ。
夫がいて、息子がいて、家族を守ってきた。
それは揺るぎない、私自身の誇りのはずだった。
なのに、たったひとつの出会いが、ひとつの視線が、
どうして、こんなにも胸の奥を騒がせるのだろう。
脱衣所の静けさのなか、私はしばらく動けずにいた。
廊下に出た瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
湯で火照った体に、その冷たさが少し気持ちよかった。
浴衣の襟元をきゅっと合わせ直しながら、私は渡り廊下をゆっくりと歩いた。
静かな夜だった。
虫の声と、遠くの川のせせらぎだけが耳に届く。
さっきの出来事を、なぜかもう一度思い返してしまっていた。
(もう、忘れよう)
そう心の中で小さく呟いて、深呼吸をする。
──何もなかった。話しただけ。
それだけのこと。
自分に言い聞かせるようにして、私は部屋の襖をそっと開けた。
「おかえり」
一番に声をかけてきたのは、息子だった。
窓際の椅子にまだ座ったまま、スマホを片手に顔だけをこちらへ向けていた。
「……ただいま。まだ起きてたの?」
「うん。眠くないし」
その何気ない言葉が、なぜか妙に胸に染みた。
あの湯舟で、私はほんの少しだけ“母”じゃなくなっていたような気がして──
でも今、この部屋に戻ったとたんに、私はちゃんと“お母さん”の顔に戻らなければならなかった。
夫はすでに布団に入っていて、目を閉じていた。
規則正しく寝息を立てている。
その姿を見て、少しだけ安堵した。
私は洗面台で手を洗い、軽くうがいをしてから、自分の布団へと向かった。
布団に入って横になると、ようやく体が沈むような感覚がした。
──何もなかったのに。
どうして、こんなに鼓動が静まらないの。
布団の中で目を閉じながら、私は自分の胸にそっと手を置いた。
熱は少しずつ引いていくのに、その奥に残っている“ざわつき”だけが、なぜかずっと消えないでいた。
どうしても──眠れなかった。
布団に入り、目を閉じて、何度も深呼吸を繰り返してみたけれど、
瞼の裏には、あの男の背中と、湯の揺れしか浮かんでこなかった。
耳をすませば、隣で夫の寝息が静かに繰り返されている。
その向こう、息子の布団からも、かすかな寝返りの音が聞こえたきり、動きはない。
二人とも、すっかり眠っている。
それを確認して、私はそっと身体を起こした。
襖が軋まないように、慎重に立ち上がり、足音を立てないように浴衣の裾をたぐる。
旅館の廊下は、さっきよりもさらに静かだった。
まるで、世界の音がすべて止まってしまったような、深い夜の気配。
私は脱衣所に置きっぱなしにしていた髪留めを取りに行く──そんな言い訳を頭の中に浮かべながら、
再び、渡り廊下へと足を踏み出した。
月はまだ空に浮かんでいて、雲ひとつない空が、白く光っていた。
昼間の賑やかさとはまるで別の顔を見せるこの旅館の夜の静寂に、
私はなぜか、ほんの少し胸が高鳴るのを感じていた。
──誰もいない。きっと、今度こそ。
そう思った。
たぶん、本当に湯に入りたかっただけ。
もう一度あたたまれば、きっと眠れるはず──と、そう思っていた。
けれど、私は知っていた。
その足取りが、さっきよりもずっと静かで、慎重で、
どこか期待のようなものを帯びていることに。
私はもう一度、あの湯けむりのなかへと向かっていた。
それが、なぜなのか、自分でもはっきりとはわからないまま──。
暖簾をくぐると、静かな空気が身体を包んだ。
脱衣所の灯りは控えめで、照明の明かりが籐の棚に淡く滲んでいた。
誰もいない。
その気配に、私は小さく安堵の息をついた。
浴衣を脱ぎ、タオルを巻いて、そっと湯殿へと向かう。
さっきと同じように冷たい夜気が足元をくすぐる。
けれど今度は、その感触すら心地よかった。
──今度こそ、ひとり。
ただ静かに湯に浸かって、身体を温めて眠るだけ。
湯気が立ちこめる岩風呂の縁に、そっと足をかける。
片足を滑り込ませ、次いでもう片方。
ゆっくりと腰を沈めていくと、湯のぬくもりが全身を包んだ。
「……ああ……」
思わず漏れた声は、さっきよりも深く、甘やかだった。
私は目を閉じ、頭を少し仰け反らせて月明かりを仰ぐ。
湯けむりの向こうに、空がある──その感覚だけで、心がほどけていく。
本当に誰もいない。
虫の声も、風の音も、さっきよりさらに遠くに感じる。
私は胸の前で腕を組み、身体を少し丸めた。
水面の揺れが静かで、まるで自分の心のなかまで洗われていくような、そんな気がした。
──それなのに。
気配は、突然だった。
確かに、誰もいないと思っていたはずなのに。
湯けむりの向こうで、岩がわずかに軋んだ音がした。
ごくわずかな、水音。
空気が、さっきとは違う重さを持ち始める。
私は、肩をすくめるようにして、そっと目を開けた。
湯の中で波が立っている──誰かが、また。
(……嘘)
振り返ることもできず、私はただ、静かに、胸元のタオルを握りしめた。