※この作品はR-18です。

母の家族旅行 その夜、湯けむりの向こうに   作:松田義和

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湯けむりの向こう

湯けむりの向こうから、男がゆっくりと湯に入ってくる気配がした。

ざぶん、と音を立てて湯が波打つ。

その波が私のもとまで届き、胸元のタオルがわずかにふわりと浮いた。

私は思わず手でそれを押さえ、そっと身体を沈め直した。

 

男は、私から少し離れた岩の縁に背を預けるようにして腰を下ろした。

その距離は、見えない緊張で測られているようだった。

 

「……混浴って、今どき珍しいですよね」

声をかけたのは、私だった。

沈黙が怖かったわけじゃない。でも、声を出さずにはいられなかった。

 

「ええ。俺も最初びっくりしました。…けど、好きなんですよ、こういう風呂」

 

男の声は、思ったより穏やかで、少し笑っているようだった。

私はその声音に、ほっとしたような、でも逆に身構えてしまうような、不思議な感覚を覚えた。

 

「…この時間、空いててよかったですね」

 

「そうですね。…お一人ですか?」

 

「いえ。家族で。…主人と、息子と」

 

「そっか…羨ましいな」

 

男はそう言うと、軽く肩をすくめたように見えた。

それ以上は聞いてこない。私も、聞かれたくなかった。

 

再び静寂が落ちる。

湯の音と、虫の声と、時折吹く風の音だけ。

そのなかで、私は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。

 

(何を、してるの……私)

 

こんな場所にひとりで来るべきじゃなかったのかもしれない。

でも、帰るに帰れない。今、湯から上がるという行為が、この状況を特別にしてしまう気がして。

だから私は、何もなかったように、そこにいるしかなかった。

 

「月が綺麗ですね」

 

男の声に、私はふと顔を上げる。

空に、まるい月がひとつ、雲のない夜空に浮かんでいた。

 

「……ええ」

 

それしか言えなかった。

でもきっと、今の私は、いつもの私とは少しだけ違う顔をしている気がした。

湯の中で静かに揺れるその気持ちを、私はまだ言葉にできずにいた。

 

 

ふと──

男が、湯の中で動いた。

 

ざぶ…と音を立てて、彼は湯から立ち上がった。

 

私は咄嗟に目を逸らした。

でも、完全には見ないふりなんて、できなかった。

 

湯けむりの向こう、背の高いその男の身体が、月明かりに照らされて静かに浮かび上がる。

肩幅の広い、無駄な肉のない体つき。

腕や脚に刻まれた筋肉の陰影が、なぜかやけにくっきりと目に映った。

 

──隠さないんだ。

 

そう思った瞬間、自分の心がざわついた。

バスタオルひとつで身を隠していた私とは、まるで違う。

恥じらいもなく、ためらいもなく、ただそのままの姿で湯から出ていく男の背中が、

なぜか、まぶしく見えた。

 

「先に上がります。…いい湯でした」

 

そう言って、男は私の方を振り返ることなく、ゆっくりと湯船から離れていった。

足音が遠ざかり、やがて脱衣所の扉が開き──静かに閉じられた。

 

私は、湯の中で小さく息をついた。

冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。

湯気に紛れて、自分の胸の鼓動がじわじわと響いていた。

 

──見てしまった。

でもそれ以上に、何かを“感じてしまった”。

 

自分がなぜ、こんなにも動揺しているのか、わからなかった。

何もされていない。話をしただけ。

ただ、それだけなのに。

 

私はそっと、胸元のタオルを握りしめた。

湯の中で、まだ身体が熱くて、冷める気配はなかった。

 

 

脱衣所に戻ったとき、そこにも誰の姿もなかった。

扉を閉めると、外の冷たい空気がぴたりと遮断されて、湯気の余韻と、木の香りがほんのり漂う静かな空間が広がっていた。

 

私は籠の前に腰を下ろし、タオルをそっとはずす。

湿った布地が肌から離れると、ひんやりとした空気が一気にまとわりついてきた。

火照った肌に冷たさが触れて、ようやく自分の輪郭を思い出すような感覚があった。

 

鏡の前に立って、髪を下ろす。

しっとりと湿った髪を指でとかしながら、鏡越しに映る自分をぼんやりと見つめた。

 

──いつもと同じ顔のはずなのに、どこか、違って見えた。

 

頬がほんのり紅いのは、湯に長く浸かっていたせいだろうか。

それとも──

 

私は、自分の唇に視線を落とした。

うっすらと濡れて、わずかに開いているその形が、なぜか自分のものではないように感じた。

 

(見てしまったんだ、私)

 

目を逸らしたはずなのに、焼きついた輪郭が、まだ頭の奥に残っている。

そのくっきりとした背中、太腿の筋、そして…

私は思わず、タオルを握りしめた手に力が入っていたことに気づいた。

 

──私は、何に動揺しているの?

 

恥ずかしい? 怖かった?

それとも、何かを比べてしまったから──?

 

「……違う」

 

小さく、つぶやいた声が、自分の耳にもはっきりと届いた。

違う、そんな気持ちじゃない。

でも、それが何かも、今の私にはまだはっきり言えなかった。

 

髪を乾かしながら、私は一度、鏡に背を向けた。

そしてもう一度振り返って、自分の顔を見つめた。

 

──私は、母親だ。

夫がいて、息子がいて、家族を守ってきた。

それは揺るぎない、私自身の誇りのはずだった。

 

なのに、たったひとつの出会いが、ひとつの視線が、

どうして、こんなにも胸の奥を騒がせるのだろう。

 

脱衣所の静けさのなか、私はしばらく動けずにいた。

 

廊下に出た瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

湯で火照った体に、その冷たさが少し気持ちよかった。

浴衣の襟元をきゅっと合わせ直しながら、私は渡り廊下をゆっくりと歩いた。

 

静かな夜だった。

虫の声と、遠くの川のせせらぎだけが耳に届く。

さっきの出来事を、なぜかもう一度思い返してしまっていた。

 

(もう、忘れよう)

 

そう心の中で小さく呟いて、深呼吸をする。

──何もなかった。話しただけ。

それだけのこと。

自分に言い聞かせるようにして、私は部屋の襖をそっと開けた。

 

「おかえり」

 

一番に声をかけてきたのは、息子だった。

窓際の椅子にまだ座ったまま、スマホを片手に顔だけをこちらへ向けていた。

 

「……ただいま。まだ起きてたの?」

 

「うん。眠くないし」

 

その何気ない言葉が、なぜか妙に胸に染みた。

あの湯舟で、私はほんの少しだけ“母”じゃなくなっていたような気がして──

でも今、この部屋に戻ったとたんに、私はちゃんと“お母さん”の顔に戻らなければならなかった。

 

夫はすでに布団に入っていて、目を閉じていた。

規則正しく寝息を立てている。

その姿を見て、少しだけ安堵した。

 

私は洗面台で手を洗い、軽くうがいをしてから、自分の布団へと向かった。

布団に入って横になると、ようやく体が沈むような感覚がした。

 

──何もなかったのに。

どうして、こんなに鼓動が静まらないの。

 

布団の中で目を閉じながら、私は自分の胸にそっと手を置いた。

熱は少しずつ引いていくのに、その奥に残っている“ざわつき”だけが、なぜかずっと消えないでいた。

 

どうしても──眠れなかった。

 

布団に入り、目を閉じて、何度も深呼吸を繰り返してみたけれど、

瞼の裏には、あの男の背中と、湯の揺れしか浮かんでこなかった。

 

耳をすませば、隣で夫の寝息が静かに繰り返されている。

その向こう、息子の布団からも、かすかな寝返りの音が聞こえたきり、動きはない。

 

二人とも、すっかり眠っている。

それを確認して、私はそっと身体を起こした。

襖が軋まないように、慎重に立ち上がり、足音を立てないように浴衣の裾をたぐる。

 

旅館の廊下は、さっきよりもさらに静かだった。

まるで、世界の音がすべて止まってしまったような、深い夜の気配。

 

私は脱衣所に置きっぱなしにしていた髪留めを取りに行く──そんな言い訳を頭の中に浮かべながら、

再び、渡り廊下へと足を踏み出した。

 

月はまだ空に浮かんでいて、雲ひとつない空が、白く光っていた。

昼間の賑やかさとはまるで別の顔を見せるこの旅館の夜の静寂に、

私はなぜか、ほんの少し胸が高鳴るのを感じていた。

 

──誰もいない。きっと、今度こそ。

そう思った。

たぶん、本当に湯に入りたかっただけ。

もう一度あたたまれば、きっと眠れるはず──と、そう思っていた。

 

けれど、私は知っていた。

その足取りが、さっきよりもずっと静かで、慎重で、

どこか期待のようなものを帯びていることに。

 

私はもう一度、あの湯けむりのなかへと向かっていた。

 

それが、なぜなのか、自分でもはっきりとはわからないまま──。

 

暖簾をくぐると、静かな空気が身体を包んだ。

脱衣所の灯りは控えめで、照明の明かりが籐の棚に淡く滲んでいた。

 

誰もいない。

その気配に、私は小さく安堵の息をついた。

 

浴衣を脱ぎ、タオルを巻いて、そっと湯殿へと向かう。

さっきと同じように冷たい夜気が足元をくすぐる。

けれど今度は、その感触すら心地よかった。

 

──今度こそ、ひとり。

ただ静かに湯に浸かって、身体を温めて眠るだけ。

 

湯気が立ちこめる岩風呂の縁に、そっと足をかける。

片足を滑り込ませ、次いでもう片方。

ゆっくりと腰を沈めていくと、湯のぬくもりが全身を包んだ。

 

「……ああ……」

 

思わず漏れた声は、さっきよりも深く、甘やかだった。

私は目を閉じ、頭を少し仰け反らせて月明かりを仰ぐ。

湯けむりの向こうに、空がある──その感覚だけで、心がほどけていく。

 

本当に誰もいない。

虫の声も、風の音も、さっきよりさらに遠くに感じる。

 

私は胸の前で腕を組み、身体を少し丸めた。

水面の揺れが静かで、まるで自分の心のなかまで洗われていくような、そんな気がした。

 

──それなのに。

 

気配は、突然だった。

確かに、誰もいないと思っていたはずなのに。

 

湯けむりの向こうで、岩がわずかに軋んだ音がした。

 

ごくわずかな、水音。

空気が、さっきとは違う重さを持ち始める。

 

私は、肩をすくめるようにして、そっと目を開けた。

湯の中で波が立っている──誰かが、また。

 

(……嘘)

 

振り返ることもできず、私はただ、静かに、胸元のタオルを握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

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