※この作品はR-18です。

母の家族旅行 その夜、湯けむりの向こうに   作:松田義和

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湯けむりの向こう2

湯けむりの向こう──

その影が、私の視界にじわじわと浮かび上がってきた。

 

足音も、水音もほとんどなかった。

ただ、誰かが湯の中に入ってきた──その気配だけが、はっきりと伝わってきた。

 

私は、息を呑んだ。

まさか。こんな時間に、また誰かが来るなんて。

 

でも、その影が男の背格好をしていると気づいた瞬間、

私の身体は、反射的に強張った。

 

男は湯に入る直前で、ふと、こちらに気づいたのだろう。

動きが止まった。

 

──たぶん、私の姿を見たのだ。

見て、わかったのだ。

さっきと同じ、あの人だと。

 

私も、気づいていた。

あの背中の厚み、動き方、空気の重さ。

間違えようがなかった。

 

けれど彼は、何も言わなかった。

 

そのまま、一拍置いてから──

ざぶん、と足を踏み入れ、湯に身体を沈めた。

 

言葉も、挨拶も、なかった。

それがかえって、空気を張り詰めさせる。

 

私は息をひそめるようにして、湯の中で肩を丸めた。

心臓が、ひときわ大きく鳴っていた。

 

ほんの数時間前に出会ったばかりの男と、

この真夜中に、また同じ湯船に浸かっている──

それだけで、体の奥に鈍い火照りが残っていた。

 

彼は、私を見ていた。

確かに驚いていた。

でも、その視線はすぐに逸れて、何事もなかったように月を仰ぐ。

 

それが余計に、私の中のざわめきを強くした。

 

──どうして、私はここに来てしまったの?

──どうして、この人も、ここに?

 

何も話していない。

けれど、湯気の中で、確かに何かが交わされた気がした。

 

私は声を出せずに、ただ、水音に耳を澄ませていた。

 

「……また、会いましたね」

 

その声がした瞬間、私は身体の芯がふっと緩むのを感じた。

張り詰めた空気の中に、たった一言、ぽつりと落とされた言葉。

けれど、それは静かに胸の奥へと染み込んでくるようだった。

 

私は、返事をしなかった。

声が出なかったわけじゃない。

ただ、自分の口から何がこぼれてしまうのか──わからなかったから。

 

「まさかこの時間にもう一度来るなんて思わなかった。…あなたも」

 

男はそう続けながら、湯の中で軽く体勢を整える。

私との距離は、まだ岩ひとつ分あいていた。

けれど、たったそれだけの距離が、妙に近く感じる。

 

私は胸の前でそっと腕を組み直し、なるべく水音を立てないように背を岩に預けた。

 

「……髪留めを、忘れてて」

 

ようやく口に出せた言葉は、それだけだった。

自分でも苦しい言い訳だとわかっていた。

けれど、彼はそれ以上つっこまなかった。

 

「そっか」

 

静かな声が、夜気のなかに沈む。

私の鼓動だけが、湯の中で反響していた。

 

「さっきより、月が高くなりましたね」

 

男は湯船の向こうを見ながら言った。

私は目を向けなかったけれど、その言葉に導かれるように、

自然と空を見上げていた。

 

──確かに、月が昇っていた。

 

「……ええ」

 

それだけ返すと、しばらくまた沈黙が流れた。

けれど、その沈黙は不思議と重くなかった。

 

あの人も、何かを探るような気配はなかった。

ただ、隣にいる私を、“ただそこにいる人”として受け止めているような、

そんな不思議な静けさがあった。

 

──それが、怖かった。

それが、なぜか、心地よくさえ思えてしまった。

 

私は、タオルの端をそっと握り直し、目を伏せた。

 

「……少しだけ。もう少しだけ、浸かって帰ります」

 

そう呟いた自分の声が、どこか遠くの誰かのもののように聞こえていた。

 

 

「……もしよければ」

 

男の声が、また湯気の向こうから落ちてきた。

けれど今度のそれは、先ほどまでとは少し違っていた。

どこか慎重で、けれど決して躊躇しているわけではない、

相手の呼吸をきちんと見極めたうえで踏み込んでくるような──そんな声音。

 

私は、その一言の続きを待った。

けれど、彼はすぐには続けなかった。

あえて言葉を止めて、私の反応を待っている。

まるで、扉の前に立ち、ノックをしたあと、ノブに手をかけずにいるような……そんな間。

 

私の中で、鼓動がまた早くなっていた。

理由もわからず、ただ、静かに、確かに。

 

「……もしよければ、このままもう少し、お話しませんか」

 

その言葉は、意外なほど穏やかだった。

何かを誘うでもなく、試すでもなく。

ただ、静かに“その時間を共有したい”という意思だけが、そこにはあった。

 

私は視線を伏せたまま、湯面の揺れを見つめる。

男の言葉の余韻が、湯気とともに漂っているようで──すぐには答えられなかった。

 

「……こんな時間に、よくまた来ましたね」

 

答えにならないような言葉を返していた。

でも、それが今の私の精一杯だった。

 

「ええ。眠れなくて。…落ち着くんですよ、ここ。

──さっきも、そう思ってました」

 

その言葉に、私はほんの少しだけ口元を緩めた。

自分でも気づかないほど、ごくわずかに。

 

「……お話って、何を」

 

「なんでも。黙っててもいい。

ただ、誰かが近くにいるってだけで──眠れない夜も少し楽になる気がするんです」

 

男は、そう言って、湯の中で少しだけ肩を揺らした。

その様子が、妙に優しく思えた。

 

私は、胸の前で組んでいた腕をほどいた。

そして、少しだけ、岩にもたれる角度を変えた。

 

──この人と、話すことは罪なんだろうか。

けれど、今夜だけなら。

ほんの少しだけ、母でも妻でもない顔を、この湯けむりの中に浮かべても……いいのかもしれない。

 

「……少しだけ、なら」

 

それが、私の返事だった。

 

男は少し湯の中で体勢を変えてから、ふと視線を落とすように言った。

 

「僕、写真をやってるんです」

 

意外な言葉だった。

私は、軽く目を見開いて、それから彼の横顔をそっと見た。

無骨に見えて、どこか丁寧な口調。

黙っていれば怖くも見えるその体躯の下に、そんな一面が隠れていたなんて。

 

「……写真、ですか」

 

「ええ。旅先の風景を撮るのが好きで。ここも、何度か来てるんですよ。

ちょうど今、個展の準備もしていて──その素材を撮りに来たんです。昼は山の上、夜は宿の周りを、ぶらぶら歩いたりして」

 

個展。

その響きが、どこか現実から少し離れた言葉のように思えた。

けれど、男の語り口はとても落ち着いていて、それが嘘ではないことが、自然に伝わってきた。

 

「なんだか、意外ですね」

 

私の言葉に、男は苦笑を漏らす。

 

「……よく言われます。もっと現場仕事の人間かとって。まあ、前は建設会社にもいたんですけど」

 

「やっぱり、そんな感じがします。背中とか……声とか」

 

思わず漏れた自分の言葉に、私ははっとして口を閉じた。

けれど、彼は特に反応を返さず、穏やかに笑ったままだった。

 

「写真の仕事をしてると、ひとりでいる時間が長くて。

でも、こうやって偶然、誰かと話せる夜って、すごく貴重に思えてくるんです」

 

そう言った彼の目が、ふと湯気越しに私を見た。

まっすぐではない、けれど確かに触れようとするような視線だった。

 

私は湯の中で、そっと足を組み替えた。

胸元のタオルがふわりと動いて、少し水面に揺れる。

それに気づいた自分が、どこか落ち着かなかった。

 

「……その個展、どこで開かれるんですか?」

 

「東京です。駅の近くのギャラリー。来月頭くらいに」

 

「……そう」

 

遠くの話。自分には関係のない、都会の出来事。

──なのに、なぜだろう。

私はその日を、なぜか覚えておこうと思っていた。

 

「よかったら、案内のハガキ……」

 

男がそう言いかけて、ふと口を止めた。

私の視線が、かすかに揺れていたのを感じたのかもしれない。

 

彼は静かに言葉を飲み込み、

「……いや、やめておきましょう」とだけ、小さく笑った。

 

私は、何も言わなかった。

けれど、湯の温度とは違う熱が、胸の奥でじんわりと広がっていた。

 

 

「……私は、ただの平凡な主婦ですから」

 

湯の中で静かにそう言った自分の声が、思ったよりもしっとりと響いた。

夜の空気と湯けむりに包まれて、その言葉はどこか遠くへ吸い込まれていくようだった。

 

「芸術のことなんて、まったくわかりません。

写真展なんて、一度も行ったこともないですし……」

 

私はそう続けながら、膝の上に置いた手を見つめた。

日焼けで少し乾いた肌。毎日洗いものをする指先。

何かを創る手ではなく、何かを整え、支えるための手。

 

「でも──きっと、あなたは美しい写真を撮るんだろうなと思います」

 

その言葉を口にしたとき、胸の奥がじわっと温かくなった。

不思議だった。

ほんの数時間前までは名前も知らなかった人に、なぜこんなふうに心をほどいて話しているのか。

けれど、言葉は自然に出てきた。

 

男は一度、湯の中で小さくうなずくと、

 

「……ありがとうございます」

 

それだけを、丁寧に返してきた。

ほんの一言なのに、その声の奥に込められた何かが、私の胸にゆっくりと沈んでいった。

 

「写真って、不思議ですよね。

目に見えるものを残すのに、その中に“見えない何か”が映ってる気がする」

 

そう言った彼の横顔を、私はそっと見た。

言葉を選ぶように話すその姿に、仕事でも家庭でも使わない、どこか違う時間が流れている気がした。

 

私の知らない世界。

でも、どこかで触れていたいと、そう思ってしまった。

 

──その瞬間だけでも。

 

私は、少しだけ視線を伏せ、湯面を見つめた。

そこに映る自分の輪郭が、やけにぼんやりと揺れて見えた。

 

 

「……なるほど」

 

男が小さくそう呟いたかと思うと、

湯の中から腕を持ち上げて、両手の指をふわりと組み替えた。

 

親指と人差し指を直角にして、左右の手で──

四角をつくる。まるで、それがファインダーかのように。

 

私は一瞬、何をされるのか分からずに目を見開いた。

けれど次の瞬間、彼の両手越しに、自分が静かに“覗かれている”ことを知った。

 

「……っ」

 

声は出なかった。

それでも、呼吸がふっと止まった。

 

男の目が、指でつくったその小さな“窓”の向こうから、真っすぐに私を見ていた。

湯けむり越しの静かな視線。

鋭さはなかった。

けれど、すべてをそのレンズに収めるような、奇妙な圧を持っていた。

 

「こうして見ると、やっぱり綺麗だなって思います」

 

その言葉が落ちたとき、私は思わず湯の中で身じろぎした。

タオルがふわりと浮いて、肩口のあたりを揺らす。

 

「──やめてください」

 

ようやく口にした言葉は、けれど怒りではなかった。

たぶん、困惑だった。

戸惑いと、わずかな……照れ。

 

男は指をほどき、すぐに手を湯の中へ戻した。

 

「すみません。ただの癖なんです。

目の前に何か惹かれるものがあると、つい、こうやって見てしまう」

 

「……写真、撮る人って、みんなそうなんですか?」

 

「いや。きっと、僕だけですね」

 

男はそう言って、ほんの少し笑った。

湯の中で生まれた波が、私の太腿にふわりと触れていった。

 

「でも……今のは、本当に綺麗だったから」

 

──その言葉に、私はもう、何も返せなかった。

ただ、視線を湯面に落とし、指先でそっと水をすくった。

自分でも気づかぬうちに、口元がわずかに、緩んでいた。

 

 

「……もし」

 

その言葉が口をついて出た瞬間、私はなぜか、

次に何を言われるかを──うっすらと、予感していた。

 

「本当に、もしの話です。…でも」

 

男は湯の中でそっと腕を組みながら、私の方をまっすぐ見ていた。

視線には圧があった。けれど、それは押しつけるようなものじゃなく、

なにかを、深く、静かに願うような眼差しだった。

 

「もしよければ──あなたのその、美しさを。

ほんの一瞬でいい。…僕に、くださいませんか」

 

私の胸が、ドクンと跳ねた。

身体じゃない。

声でもない。

その言葉に、心のどこかが、大きく揺れた。

 

「……何を言ってるんですか」

 

私はそう返しながら、顔を伏せた。

けれど声は震えていて、それが自分でも分かった。

 

「すみません、こんな時間に。こんな場所で」

 

男の声は穏やかだった。

ただ、ほんの少しだけ、切実さが滲んでいた。

 

「あなたは、ご家族と来ている。僕も、何かを求めてきたわけじゃない。

でも──それでも、今こうして向き合って、目の前にこんな人がいるのなら」

 

湯気の向こうで、彼はわずかに体を寄せた。

近づいたわけじゃない。

けれど、距離が縮まったように感じた。

 

「あなたの、その今の表情を。肌の温度を。

この夜の記憶を、たった一枚でも、僕の中に焼きつけたいんです」

 

私は息を呑み、視線を湯の中に落とした。

そこに映る自分の顔が、ゆらゆらと揺れていた。

さっきまでの私と、今の私が、重ならないまま。

 

「……写真に、撮るんですか?」

 

「いいえ」

 

男は静かに首を振った。

 

「僕の目に、焼きつけたいだけです。

記録じゃなくて、記憶として──

この夜、ここにいた“あなた”を」

 

──その言葉は、どこまでも誠実だった。

 

だからこそ。

私の中にあったはずの“境界線”が、ほんの少しだけ、

ゆっくりと、揺れ始めていた。

 

私は、胸の前でそっと手を組み直した。

湯の熱と、心の奥から立ちのぼる熱とが絡まりあって、

呼吸がいつもより少し浅くなっているのを、自分でも感じていた。

 

──記録じゃなく、記憶。

この夜、この湯のなかにいる“私”を、目に焼きつけたい。

 

その言葉が、どこか胸の奥に優しく沈んでいく。

まるで、ずっと誰にも気づかれなかった自分の一部を、

今、初めて拾い上げられたような──そんな感覚だった。

 

私はそっと顔を上げ、湯けむりの向こうにいる彼を見た。

視線が重なる。

けれど、怖さはなかった。

ただ、じんわりと、どこかあたたかい熱が体の中心にとどまっていた。

 

「……こんなこと、言われたのは初めてです」

 

私がぽつりとつぶやくと、彼は軽く眉を上げて、微笑を浮かべた。

 

「もちろんです。こんなこと、誰にでも言うわけがない」

 

その言葉に、私の喉がかすかに震えた。

湯の中で、そっと脚を組み替える。

水音がわずかに立ち、胸元のタオルがふわりと揺れる。

 

──それでも私は、まだその場を離れようとはしなかった。

 

「……じゃあ、今の私は、どう見えてるんですか?」

 

自分でも不思議だった。

そんなこと、訊くつもりはなかったはずなのに。

でも、どうしても知りたくなっていた。

湯けむりの向こう、母でも妻でもない“私”を、

この人が、どう見ているのか。

 

彼は答えを急がなかった。

しばらく静かに私を見つめたあと、静かに言った。

 

「湯気に溶けかけてて……だけど、芯が透けて見える感じです」

 

「芯……?」

 

「ええ。強さと、やわらかさが同じところにあるような、そんな感じ。

それが、すごく綺麗だと思う」

 

私の中に、何かがふっとほどけた。

言葉では言い表せない何かが、音もなく崩れて、湯の中に落ちていった。

 

──それは、私自身の境界だったのかもしれない。

 

「……そんなふうに、見られたことは……なかった気がします」

 

声に出した瞬間、胸が詰まりそうになった。

でも、その言葉は確かに、いまの私の本音だった。

 

彼は何も言わず、ただそっと湯に沈んで、目を細めていた。

まるで、その言葉ごと、湯の熱とともに受け止めてくれるように。

 

湯けむりの夜。

何も起きていないのに、私は確かに何かを渡してしまった。

そう感じていた。

 

 

ふと、頬に触れた熱とは違う感触に、私は気づいた。

 

……涙だった。

 

気づいた瞬間、私は動けなくなっていた。

泣くつもりなんてなかった。

むしろ、そんな感情が湧いていたことに、自分でも驚いていた。

 

でも──止めようとしても、静かに流れ落ちてくるその涙は、

湯の熱と混じりながら、胸元まですべっていった。

 

「……えっ」

 

低く抑えられていた男の声が、わずかに動揺を帯びた。

彼が湯の中で身を乗り出すような気配があった。

 

「ちょ、ちょっと……大丈夫ですか?」

 

さっきまでの落ち着いた声音が、明らかに焦りを含んでいた。

 

私は返事をしようとしたが、喉が詰まって、うまく声にならなかった。

ただ、首を横に振る──それが精一杯だった。

 

男はその反応に、さらに困ったように口を開いた。

 

「……ごめんなさい。僕、何か……言いすぎた?」

 

「ちがう……そうじゃなくて……」

 

かすれた声がようやく出た。

でも、それは自分の声じゃないように聞こえた。

震えて、にじんで、湯気の中に溶けていくようだった。

 

「……なんででしょうね」

 

自嘲気味にそう続けながら、私はそっと顔を手で隠した。

タオル越しに手のひらが濡れていくのを感じる。

 

「私、ただのお母さんなのに……

家族のことも好きで、幸せで、何も不満なんてなかったのに……」

 

男は黙っていた。

何も言わず、ただ湯の中でその言葉を受け止めていた。

 

「でも、あなたに“綺麗だ”なんて言われたら……

こんなに、涙が出るなんて……」

 

私の声は震えていた。

けれど、それでも隠せなかった。

どこかにあったはずの“女”としての私が、今、

この湯けむりの夜に浮かび上がってしまった──

それを、ただただ受け止めるしかなかった。

 

湯の音だけが、静かに響いていた。

男もまた、何も言わずに湯の中で身を固めている気配があった。

 

でも、その沈黙が、どこまでも優しかった。

言葉ではなく、ただ隣にいるということだけが、

私の心をそっと温めていた。

 

 

「……泣かないでください」

 

その声は、すぐ近くからだった。

目を伏せたままでもわかる。

男が、私のそばに寄ってきている。

湯の中を静かに移動してくる気配が、波紋となって肌に伝わってきた。

 

私は反射的に身を引こうとした。

けれど、それよりも先に──男の指先が、そっと私の肩に触れた。

 

熱くも、冷たくもなかった。

ただ、柔らかく、ためらいがちに触れてくるその感触に、私は身動きが取れなくなった。

 

「……僕は、あなたを泣かせるために言ったんじゃない」

 

声が震えていたのは、私だけじゃなかった。

男の吐く息も、わずかに揺れていた。

 

「あなたが……自分のことを“平凡な主婦”だなんて言ったとき、

どうしてか、胸が苦しくなったんです。

こんなふうに生きてきた人が、誰にも“きれいだ”って言われずにいたのかと思うと、

どうしても、それを伝えたくて──」

 

彼の手が、そっと肩から腕へ滑りかけて、すぐに止まった。

たぶん、それ以上は踏み込んじゃいけないと、

彼自身が感じてくれたのだろう。

 

「……ごめんなさい。僕、また勝手なことを」

 

私はゆっくりと顔を上げた。

湯気越しに見える彼の目も、どこか迷っていた。

けれど、その目は真剣だった。

何かを奪うためのものではなく、

何かを“戻してくれようとする”人の目だった。

 

私は、ふるふると首を横に振った。

 

「……ありがとう」

 

その言葉が出たとき、自分でも気づかないうちに、また一筋、頬をつたっていた。

でも、その涙はさっきのものとは違っていた。

冷たさではなく、温かさからこぼれ落ちたものだった。

 

男の手が、そっと湯の中に戻る。

けれど、その距離は、さっきよりもずっと近かった。

そして私は、その距離を──もう拒まなかった。

 

 

「……いいです」

 

自分の口からその言葉がこぼれた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

でも、それはもう恐れや戸惑いの熱ではなかった。

 

私は、そっと彼の方を見た。

湯気の向こうで、彼がわずかに目を見開いて、そして、何かを確かめるようにまばたきをした。

 

「私を……あなたの記憶にしてください」

 

その声はかすれていたけれど、はっきりしていた。

迷いはなかった。

 

「写真じゃなくて、目に焼きつけたいって……言ってくれたでしょう?

──それで、いいです」

 

私はそう言って、胸元のタオルをそっと押さえた。

湯の中で揺れるその輪郭に、自分でも赤くなるのがわかった。

でも、不思議と、それが恥ずかしいというよりも、

“見せることを許した”という、静かな覚悟のようなものだった。

 

「明日には、何もなかったように、

また“お母さん”に戻ります」

 

男は、黙って私の目を見ていた。

その瞳が、ゆっくりと細められて、やがてほんの少しだけ、震えた。

 

「……忘れません」

 

その言葉が落ちた瞬間、

湯の音も、虫の声も、遠くの月も──すべてが、ひとつの静寂のなかに沈んでいった。

 

私はただその目に、自分を映してほしかった。

ほんのひとときでも。

誰の妻でも、誰の母でもない、ただ“私”として。

 

そしてその願いは、

この湯けむりの夜のなかで、静かに叶えられようとしていた。

 

 

私は、ゆっくりと湯の中で身体を起こした。

 

肩をすべらせるようにして、湯面から静かに立ち上がる。

ふわりと、水が揺れる音だけが響いた。

 

月明かりに照らされた湯けむりのなかで、

濡れたタオルが肌に貼りついたまま、

私は何も隠さず、ただ静かにそこに立っていた。

 

身体を覆っていたのは、

その小さな布と、湯気と──

そして、彼の視線だけ。

 

熱がゆっくりと肌を伝い、

太腿のあたりから一筋のしずくが、すっと流れ落ちていく。

その感触すら、今の私には愛おしく思えた。

 

私は視線を彼に向けた。

彼は何も言わなかった。

ただ、湯の中から私を見上げていた。

その瞳は、動揺と、静かな敬意と──

たしかに、欲望と、

そして何よりも、優しさで満ちていた。

 

「……これが、今の私です」

 

声にしてから、私はほんのわずかに息を呑んだ。

けれどもう、逃げなかった。

何も隠さず、ただ湯けむりのなかに立っている自分を、

彼の記憶に刻んでほしい──

その想いが、胸の奥からあふれていた。

 

彼は、そっと片膝を立てて湯の中で身体を少し起こし、

まるでシャッターを切るような仕草を指でつくった。

 

何も言わず。

ただ、その“フレーム”の中に私を収めるようにして──

静かに、まばたきひとつ、息ひとつ漏らさずに、

その姿を目に焼きつけていた。

 

「……綺麗だ」

 

その言葉が、まるで空気を震わせるように届いた瞬間、

私は呼吸の仕方を忘れてしまった。

 

湯けむりのなか、彼の声は静かで、どこまでも真っ直ぐで。

まるで、私のなかの“女”という部分だけに向けて、

まっすぐに矢を放ってきたようだった。

 

心が、ざわりと揺れた。

ほんの一瞬、脚に力が入らなくなる。

 

「……っ」

 

思わずよろめいた。

湯の縁の岩に足をとられ、滑るようにして──

私は、後ろへと倒れかけた。

 

その瞬間。

 

水音が跳ね、熱い湯が飛び散った。

男が、素早く湯の中から身体を起こして、私の方へ飛び込んでくる。

 

「あぶない──っ!」

 

気づけば、彼の腕の中にいた。

しっかりと、胸の奥まで支えられていた。

 

けれど──

そのとき、二人とも気づいていた。

 

絡まるように湯の中で抱き合ったその瞬間、

互いの身体を覆っていたものが、すでにほどけていたことに。

 

私の胸元を守っていたタオルは湯の中で浮かび、

彼の腰に巻かれていた布も、波にさらわれるように漂っていた。

 

「あ……っ」

 

熱い湯に触れているはずなのに、

彼の腕に感じるぬくもりが、それ以上に熱く思えた。

肌と肌が、何も隔てるものなく重なっていた。

 

「ごめんなさい……っ」

 

私はとっさに顔を伏せようとした。

けれど彼は、それよりも早く私の背に腕をまわし、

強くはない、でも確かに支えるような力で、そっと私を引き寄せた。

 

「……謝らないで」

 

耳元に落ちたその声が、私の奥に火を灯した。

恥ずかしさと、困惑と、

そして──それを超えてしまいそうな、熱。

 

湯けむりの中、私たちは何も纏わずに、

ただ静かに、呼吸を重ねていた。

 

 

男の腕の中──

湯の中で抱き止められたまま、私は動けずにいた。

 

ほんの一瞬、体を支えてもらっただけ。

そう思い込もうとするのに、

肌に触れる彼の腕の重みと、熱と、

なにより、目の前にある──その顔が、近すぎた。

 

ほんの数十センチ。

手を伸ばさなくても、吐息が触れそうな距離。

 

彼の瞳が、真っすぐに私を見ていた。

湯けむりにうっすらと滲むその視線は、

まるで何もかもを透かして見てくるような、

やさしくて、でも逃げ場のない色をしていた。

 

私の胸が、ドクン、と大きく鳴った。

 

「……っ」

 

声にならない息が、喉元でつかえる。

身体は火照っていた。

でもそれはもう、湯のせいだけじゃなかった。

 

私は、ほんの少しだけ顔を背けようとした。

けれど彼の指が、そっと私の頬に触れた。

ゆっくりと、確かめるように──迷いながら、でもやわらかく。

 

「……大丈夫、ですか」

 

その言葉に、私はわずかにうなずいた。

でも目は、彼から離せなかった。

逃げるように逸らしたいのに、

引き寄せられるようにまた戻ってしまう。

 

彼の顔が、すぐそこにあった。

湿った髪の先から滴るしずくが、

私の肩に落ちる。

 

私は、胸の奥に手を置くようにして、そっと言った。

 

「……近い、です」

 

それは、拒絶ではなかった。

むしろ──許すための、言葉だった。

 

彼の指先が、頬から、私の顎の下に移る。

そっと支えるように持ち上げられた顔が、

ゆっくりと、彼の唇のほうへ……

 

私は、もう目を閉じていた。

 

 

目を閉じた瞬間、私は世界から切り離されたような感覚に包まれた。

湯気、夜風、静けさ──

すべてが遠ざかっていくなかで、ただひとつ、彼の“気配”だけがすぐそばにあった。

 

唇は触れていない。

でも、それよりももっと深く、もっと確かなものが、

私の肌の奥へと、静かに染み込んでいく。

 

彼の吐息が頬に触れた。

その熱が、ゆっくりと私の首筋を滑り、胸元にまで降りてくるような錯覚。

 

指先は動かないのに、

彼の視線が、肌にふれている気がした。

湯の温もりのなかで、私の輪郭だけがはっきりと浮かび上がるような──

そんな感覚。

 

私は、身体の内側で何かがほどけていくのを感じていた。

それは言葉ではなく、形でもなく、

ただ“許した”という気持ちだけで伝わるものだった。

 

心が開く音はしない。

けれど、今の私の鼓動が、そのすべてを代わりに語っていた。

 

(この人に、見られている……)

 

服も言葉もないその視線に、

私は、母でも妻でもない“私”が、確かに浮かび上がっていくのを感じていた。

 

彼の気配が、肌を通して、

そのもっと奥へ──私のなかに、静かに、触れていた。

 

 

その気配は、肌の表面をなぞるようにやわらかく、

けれど確かに、奥へ、奥へと入り込んでくる。

 

言葉は交わしていないのに、

彼の呼吸、体温、そして沈黙が、

私の内側をゆっくりと満たしていく。

 

こんなふうに、誰かと向き合ったのは、いったい何年ぶりだろう。

家庭ではいつも“母”であり“妻”であることが、当たり前だった。

優しさも、気遣いも、愛情も──すべて“与える側”だった。

 

でもいま、この瞬間だけは。

私は“受け取る側”になっていた。

 

彼の気配が、私の肌をふるわせ、

息づかいが胸の奥で、知らず波のように揺れている。

 

指先は触れていないのに、

なぜこんなにも深く、温かく感じるのだろう。

 

彼の目が、まるで問いかけるように私を見ていた。

何も言わず、ただ──このままでいいか、と。

何も奪わず、でも、何も隠させようともしないまなざし。

 

私は、ゆっくりと頷いた。

唇を結び、わずかに震えるまま、頷いた。

 

そのとき、

彼の気配がふっと、さらに深く私に重なった。

 

湯の水面が、わずかに揺れる。

けれど、私たちはもう動かない。

何も言わず、何も誤魔化さず、

ただお互いの体温と存在だけを、そっと重ね合っていた。

 

月明かりと湯けむりに包まれながら──

私は、ずっと閉じ込めていた“何か”を、静かに、解き放っていった。

 

 

心の奥にずっと沈めていたものが、

波紋のように広がっていくのを感じていた。

 

彼に触れられているわけではないのに、

私の中では、何かが確かに“触れられていた”。

それは、体のどこかではなく、

もっと深い──忘れていたはずの場所。

 

私は目を閉じたまま、

彼の気配と、呼吸と、湯の温もりを、

一つひとつ確かめるように、感じていた。

 

そして気がついた。

私は今、

「誰かに求められている」という感覚に、

涙が出そうになるほど、心が震えている。

 

「……あなたの目に映る私は、どんなふうに見えてるんですか」

 

自分でも、どうしてその言葉が出たのか分からなかった。

でも、問わずにはいられなかった。

今の私が、どんな姿をしているのかを──

この人の記憶に、どう残るのかを。

 

彼は、わずかに間を置いた。

それは、軽はずみな言葉を返さない人の沈黙だった。

 

「……とても綺麗です」

 

そう言った彼の声は、湯けむりよりも静かで、

けれど私の心にいちばん深く触れてくる音だった。

 

「でも、ただ“綺麗”というよりも……

今のあなたは、“自由”に見える」

 

「……自由?」

 

私は目を開け、彼の顔を見た。

彼の目はまっすぐだった。

まるで、私のなかにある“何か”を見抜いてしまっているような。

 

「肩の力が抜けてて、でも、芯はぶれていない。

すごく……静かな強さがある。

だから、目を逸らせない」

 

その言葉に、私はまた少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。

不思議だった。

褒められているはずなのに、

何かを優しくほどかれるような──

長い時間、誰にも気づかれなかった何かを、

ようやく名前をつけてもらえたような。

 

私はそっと目を伏せ、頬にかかる濡れた髪を指で払った。

 

「そんなふうに見られたの、初めてです」

 

ぽつりとこぼれたその言葉が、

まるで湯の中で静かに溶けていくようだった。

 

そして私は、

彼の視線に包まれながら、

そっと両腕を湯の中で組み、

まるで許すように──何かを迎え入れるように、

ゆっくりと身をゆだねていった。

 

 

私の身体は、もう逃げようとはしなかった。

あの瞬間まで張りつめていた緊張が、

湯の中でほどけていくのがわかる。

 

肩が落ち、呼吸が深くなる。

そして、その静かな変化を、彼は何も言わずに受け止めていた。

 

お互い何もまとわず、

ただ湯のなかで向き合いながら、

触れているのはほんの少しの肌と、

それ以上に、もっと深い“何か”だった。

 

「……僕のほうこそ、ありがとう」

 

彼がぽつりとつぶやく。

 

「こんな時間、こんなふうに人と向き合えるなんて、

想像もしていなかった。

──でも、きっと忘れられない夜になる」

 

私はその言葉を、

胸の奥でそっと抱きしめるように受け止めた。

 

そして、少しだけ、身体を寄せた。

 

湯がわずかに揺れて、肌と肌が重なる。

不思議と怖くはなかった。

むしろ、ようやく“人として触れる”ということが、

何を意味するのかを思い出せた気がした。

 

どこにも急がず、

何も急かされず、

ただ──この夜、このひとときのなかで、

私は“私”として、彼の記憶に刻まれていく。

 

月明かりが湯面にさざめき、

露天の空が、静かに私たちを見下ろしていた。

 

言葉も、衣も、すべてを脱ぎ捨てたあとに残ったもの。

それは、ただの欲でも、気まぐれでもなく──

 

あたたかく、深く、

ふたりだけが知る、

ひとつの記憶になろうとしていた。

 

 

私の額が、彼の肩にそっと触れた。

その瞬間、彼の腕がためらいなくまわされて──

私は静かに、その胸の中に抱き寄せられていた。

 

何も語らず、何も問わず。

ただ、包まれていた。

湯の温もりと彼の体温がひとつになって、

私の輪郭さえ溶けていくような感覚。

 

まるで深い水の底に沈んでいくような、

でも、息苦しさのない、穏やかな沈黙だった。

 

「……あなたに、会えてよかった」

 

彼の低く落ち着いた声が、私の耳元で響く。

その言葉はまっすぐで、飾りがなく、

だからこそ胸の奥に深く沈んでいった。

 

私は彼の胸に顔を埋めたまま、小さく息を吸い込んだ。

濡れた肌の匂いと湯の香りがまじり合って、

どこか懐かしいような安らぎを感じさせた。

 

「……ずるいですね」

 

「どうして」

 

「だって……そんなふうに言われたら、

もう、忘れられなくなってしまう」

 

湯けむりのなかで彼がわずかに笑った。

そして、私の髪を一度だけ撫でるように触れて、

こう言った。

 

「……忘れられなくていい。

忘れられないほうが、幸せな記憶になる」

 

その言葉が、どこまでも優しかった。

 

私は、ゆっくりと目を閉じた。

この時間が終わってしまっても──

明日からまた、日常に戻っても。

きっと私は、

この夜の湯けむりと、肌に感じたぬくもりと、

それを照らした月の光を、ずっと覚えている。

 

彼の記憶に私が残るように、

私の中にも、彼の気配は深く、静かに沈んでいった。

 

 

ふたりの身体を包む湯けむりが、

まるで境界を曖昧にしてくれるようだった。

 

どこからが彼で、どこまでが私なのか。

腕に感じるぬくもりも、

頬に触れる肌のやわらかさも──

今はもう、確かめる必要さえなかった。

 

ただ静かに、彼の胸に顔を預け、

私もまた、彼を受け入れていた。

ゆっくりと、深く。

拒まない、けれど急がない。

まるで互いの呼吸だけが、

夜の進み方を決めているようだった。

 

「……いまの私は、綺麗ですか?」

 

囁くように問うと、彼は何も言わずに、

私の肩を強く、だけどそっと抱き寄せた。

 

言葉よりも、触れ方で伝わる感情がある。

その静かな答えに、私は目を閉じた。

 

湯の中、すべてを許したまま、

すべてを委ねたまま、私は彼の胸に溶けていた。

 

月は高く、空に浮かび続けていた。

やがて風がひと筋、湯の表面をなぞっていく。

その風さえも、今は私たちに何も語らなかった。

 

もう、何もいらなかった。

この夜と、この記憶があれば──

それでよかった。

 

私は、ただ静かに、彼の中に残されていった。

そして彼もまた、

私の深い場所に刻まれていた。

 

 

湯の中にふたりの呼吸だけが響いていた。

それは不思議な時間だった。

何も急かされることもなく、誰にも見られない空間で、

私はただひとつの心音に、身をゆだねていた。

 

彼の腕は変わらず、私を強く、けれど丁寧に抱いていた。

その力加減は、欲でも衝動でもない。

まるで、ひとつの記憶を確かに刻もうとするような、

確信と、敬意に満ちていた。

 

肌と肌がふれているというのに、

そのぬくもりには、不思議とやすらぎしか感じなかった。

 

「……寒くないですか」

 

彼の声が、私の耳元でふわりと落ちた。

 

「……大丈夫です。

この湯の熱も、あなたの手も……とても、あたたかいです」

 

私はそう答えながら、胸の奥にじんと残るこの熱が、

ただの温泉の湯によるものではないことを、はっきりと自覚していた。

 

湯の表面を、月の光がたゆたう。

その淡い反射のなか、私はゆっくりと顔を上げた。

至近距離にある彼の瞳を、正面から見つめる。

 

そこには驚きも欲望もなかった。

ただ、目を逸らすことを許されなかった。

 

「……綺麗です。今のあなたは、本当に」

 

彼の声は静かだったけれど、

胸の奥を震わせるほど、まっすぐだった。

 

私はその言葉に、小さく息を呑んだ。

たぶん私は、今まで生きてきたどの瞬間よりも──

“女”として、今、ここに在ると感じていた。

 

「ねえ」

 

声が、自然に漏れた。

 

「こんなふうに抱きしめられるの、

……いつぶりだろう」

 

彼は少しだけ顔を寄せて、私の額にそっと唇をあてた。

ほんの一瞬、けれど確かにそこに残る、優しい熱。

 

「誰かに触れられるって、

……こんなに、心までほどけるものなんですね」

 

「僕も、同じことを思ってました」

 

彼は私の頬に手を添え、

指先でそっと濡れた髪を払った。

 

「たった一度でも、

たった一夜でも。

こうして誰かを美しいと思って、

その人と記憶を分け合えるなら……

それで十分だって、いまは思えます」

 

「……それでも、きっと明日になったら、

私はまた“お母さん”に戻って、

何もなかった顔をして、

朝ごはんを作るんでしょうね」

 

私のつぶやきに、彼はゆっくりと首を振った。

 

「何もなかった、なんて、思わないでください」

 

「……え?」

 

「この夜は、確かにあなたの中にあったし、

あなたは、たしかに僕に“今”をくれた。

だからもう、それだけで十分なんです」

 

私はその言葉に、目を伏せた。

胸の奥にじんと、静かな熱が広がっていく。

言葉じゃなく、体温でもなく──

ただ心に刻まれるような、確かなぬくもりだった。

 

「……ありがとう」

 

ようやく出たその言葉に、彼は微笑んだ。

そしてもう一度、

私を強く、深く、湯の中で抱きしめた。

 

言葉も記録もいらない。

この夜のこの瞬間が、

ふたりにとっての“永遠”になっていく。

 

湯けむりの向こう、月が静かに空を渡っていた。

私は、その光に照らされながら、

すべてを許し、すべてを預けるように──

彼の中へ、静かに、深く溶けていった。

 

 

その抱擁の中で、私はすべての音を忘れていた。

湯の音も、虫の声も、夜の気配も──

ただ彼の胸にある鼓動だけが、一定のリズムで私の中に響いていた。

 

何もかもを見透かされているようで、

でも、何ひとつ傷つけられていない。

彼の腕の中は、不思議なほどに穏やかで、

それでいて、私の奥に眠っていた感情を呼び覚ますような──

そんな静かな熱を帯びていた。

 

私は彼の肩にそっと顔を預け、

目を閉じたまま、自分の中にある“何か”と向き合っていた。

 

(これが、求められるという感覚……)

 

欲望ではない。

奪われるのでもなく、従うのでもない。

ただ「そのままの私」を、美しいと言ってくれる人がいて、

何の見返りもなく、そっと包み込んでくれる。

 

私はずっと、忘れていたのかもしれない。

それがどれほど心を満たすものだったのかということを。

 

「……少し、肌寒くなってきましたね」

 

彼の囁きに、私はそっと顔を上げた。

まだ湯の中なのに、肌をかすめる夜風がやけに鮮明で、

それがこの時間の終わりを告げているようにも思えた。

 

私は頷き、小さく笑った。

 

「……そうですね。戻らなくちゃ」

 

その言葉を口にした瞬間、

胸の奥に、名残惜しさがゆっくりと広がっていった。

でもそれは、悲しみではなかった。

 

彼は、私の濡れた頬にそっと手を添えた。

そして、もう一度だけ、

私の額に優しく口づけた。

 

「今夜のあなたは、僕にとって──永遠です」

 

その言葉を聞いた瞬間、私は心の中で何かが静かにほどけていくのを感じた。

“ありがとう”と返そうとして、でも声にはならなかった。

ただ目を閉じて、その言葉を深く、深く受け止めた。

 

湯を出て、脱衣所に戻ったとき、

私は鏡の前でしばらく自分の姿を見つめていた。

 

髪はまだ湿っていて、頬にはほんのり紅が残っている。

でもその目だけは──少しだけ、強くなっていた。

 

浴衣を身にまとい、部屋へ戻る廊下をひとり歩きながら、

私は夜の空を見上げた。

 

あの人の視線に包まれていた私が、

確かに、そこにいた。

 

そしてその記憶は、

私の中で、

誰にも触れられない宝物になって、

静かに灯り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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