写真展の当日。
私は落ち着いた色のワンピースに袖を通し、午前中の家事を丁寧に終えてから、静かに家を出た。
地図で何度も確認した小さなギャラリーは、駅から歩いて十数分、街の一角にひっそりと佇んでいた。
白い壁に控えめな黒い文字で書かれた、彼の名前と展覧会のタイトル。
「呼吸」──
その言葉を見た瞬間、胸の奥がわずかに脈打った。
あの夜、湯けむりの中で彼がふいに口にした言葉。
何気ないようでいて、今も私の中に残っている、柔らかくて切ない響き。
扉を押すと、静かな空間が広がっていた。
白を基調とした壁、柔らかな照明。
数人の来場者が、それぞれの写真の前で足を止め、ゆっくりと見つめている。
空気が張りつめているわけではなく、どこか穏やかな沈黙が流れていた。
壁に並んだ風景写真は、どれも日常的な自然だった。
山の稜線、川辺の木立、風に揺れる草原。
だけど、そのどれもが“静かに息をしている”ように見えた。
──呼吸する風景たち。
それはきっと、あの人の目がとらえた“生”の瞬間なのだろう。
私は、ゆっくりと奥へと進んでいった。
そして、最後の一角に差しかかったとき。
その一枚の前で、私は思わず足を止めた。
──あれだ。
一見すると、ただの露天風呂の風景。
岩肌と、ゆらめく湯けむり。
その奥にうっすらと光る月と、空に溶け込む湯面の影。
誰の顔も写っていない。
けれど、私は一瞬でわかった。
あの夜、私がいた場所だった。
湯の端に腰をかけ、風の音と月を見つめていたあの瞬間。
誰にも知られず、誰にも見せることのなかった“私”の姿が、
そこに“気配”として、確かに刻まれていた。
身体の輪郭も、表情も、名前もない。
でも、私にはそれが誰よりもはっきりと見えた。
──彼は、あの夜の私をちゃんと見ていたのだ。
そしてそれを、このようなかたちで残していた。
写真の下には、控えめなキャプションがあった。
― 彼方 ―
もう会えないとしても、確かに存在したもの。
胸の奥で、何かがふわりとほどけた。
涙は出なかった。
ただ、長い間張りつめていた糸のようなものが、音もなく緩んでいくような感覚だった。
私は深く一礼をして、その場を離れた。
再会も言葉もなかった。
けれど、もうそれで十分だった。
ギャラリーを出ると、空は明るく晴れわたり、
通りを抜ける風がやけに澄んでいた。
私は歩き出した。
軽やかな足取りで、日常へ戻っていく。
夫と息子が待つ場所へ。
けれど今の私は、もう以前の“だけの母”ではない。
──あの夜の記憶とともに。
あの人のまなざしに映った“私”を、確かにこの胸に抱いて。
そして私は、もう一度、母としての日々を生きていく。
でも、その奥深くに──
誰にも気づかれない“私自身”をしっかりと抱きしめながら。