※この作品はR-18です。

母の家族旅行 その夜、湯けむりの向こうに   作:松田義和

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記憶の中の私

写真展の当日。

私は落ち着いた色のワンピースに袖を通し、午前中の家事を丁寧に終えてから、静かに家を出た。

地図で何度も確認した小さなギャラリーは、駅から歩いて十数分、街の一角にひっそりと佇んでいた。

白い壁に控えめな黒い文字で書かれた、彼の名前と展覧会のタイトル。

 

「呼吸」──

その言葉を見た瞬間、胸の奥がわずかに脈打った。

あの夜、湯けむりの中で彼がふいに口にした言葉。

何気ないようでいて、今も私の中に残っている、柔らかくて切ない響き。

 

扉を押すと、静かな空間が広がっていた。

白を基調とした壁、柔らかな照明。

数人の来場者が、それぞれの写真の前で足を止め、ゆっくりと見つめている。

空気が張りつめているわけではなく、どこか穏やかな沈黙が流れていた。

 

壁に並んだ風景写真は、どれも日常的な自然だった。

山の稜線、川辺の木立、風に揺れる草原。

だけど、そのどれもが“静かに息をしている”ように見えた。

 

──呼吸する風景たち。

それはきっと、あの人の目がとらえた“生”の瞬間なのだろう。

 

私は、ゆっくりと奥へと進んでいった。

そして、最後の一角に差しかかったとき。

その一枚の前で、私は思わず足を止めた。

 

──あれだ。

 

一見すると、ただの露天風呂の風景。

岩肌と、ゆらめく湯けむり。

その奥にうっすらと光る月と、空に溶け込む湯面の影。

 

誰の顔も写っていない。

けれど、私は一瞬でわかった。

 

あの夜、私がいた場所だった。

湯の端に腰をかけ、風の音と月を見つめていたあの瞬間。

誰にも知られず、誰にも見せることのなかった“私”の姿が、

そこに“気配”として、確かに刻まれていた。

 

身体の輪郭も、表情も、名前もない。

でも、私にはそれが誰よりもはっきりと見えた。

 

──彼は、あの夜の私をちゃんと見ていたのだ。

そしてそれを、このようなかたちで残していた。

 

写真の下には、控えめなキャプションがあった。

 

― 彼方 ―

もう会えないとしても、確かに存在したもの。

 

胸の奥で、何かがふわりとほどけた。

涙は出なかった。

ただ、長い間張りつめていた糸のようなものが、音もなく緩んでいくような感覚だった。

 

私は深く一礼をして、その場を離れた。

再会も言葉もなかった。

けれど、もうそれで十分だった。

 

ギャラリーを出ると、空は明るく晴れわたり、

通りを抜ける風がやけに澄んでいた。

 

私は歩き出した。

軽やかな足取りで、日常へ戻っていく。

夫と息子が待つ場所へ。

けれど今の私は、もう以前の“だけの母”ではない。

 

──あの夜の記憶とともに。

あの人のまなざしに映った“私”を、確かにこの胸に抱いて。

 

そして私は、もう一度、母としての日々を生きていく。

でも、その奥深くに──

誰にも気づかれない“私自身”をしっかりと抱きしめながら。

 

 

 

 

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