このエピソードで五章は終わりです。
「やっぱりおれ、やめとく」
多輝は克人に握られた手を見下ろして小声で呟いた。砂山を崩した二人の手は細かい砂に塗れたままだ。克人の視線を感じて顔を上げた多輝は幼いなりに難しい顔をして言葉を継いだ。
「辛いこととか、苦しいこととかなくて、楽しいことばっかりなんだろ?」
「そうだよ。こんな風にずっと楽しく遊べるんだよ」
優しい声音で告げて克人がにっこりと笑う。多輝はそんな克人をしばし見つめてから繋ぎっぱなしになっていた手をそっと解いた。小さな手についた砂を叩いて払ってから立ち上がる。
「でもやっぱりいやだ」
「何で?」
そう訊ねた克人の声に怒りはない。多輝は懸命に考えを巡らせてたどたどしく言葉を繋いでみた。
確かにこうやって克人と遊んでいるのはとても楽しい。抱っこされたのも初めてだし、優しく頭を撫でられたのも初めてだ。逆に意味もなく殴られたり、理由もなく喧嘩をふっかけられたりするたびに胸が痛いくらいに悲しい気分にもなる。
だがどうしても多輝は克人の申し出に乗る気にはなれなかった。とても魅力的な話だと感じるのに何故かそうするのはとても危険な気がしたのだ。
不意に克人が笑い声を上げる。多輝はその声に仰天して克人をじっと見つめた。手についた砂を払い落とした克人がよいしょ、と腰を上げる。
「こんな風に遊んだり、綺麗な洋服を着たり、好きなものを食べたりするだけだよ? それが嫌なの?」
「うん」
「でも毎日毎日、辛い思いや悲しい思いをしてるんでしょ? なのに嫌なの?」
「うん」
「ボクとこうやって遊ぶの、楽しくなかった?」
「ううん。たのしかった」
多輝は次々に口にされる克人の質問に正直に答えていった。克人の虹色の羽根はやっぱり綺麗だと思うし、優しくされると心が落ち着く。けれどそれでも多輝は克人の言う楽しいばかりの時間を過ごす気にはならなかった。
「あはは。やっぱりね」
楽しそうに笑って克人が言う。多輝は目を丸くして首を傾げた。どういう意味だろう。そう多輝が問う前に克人が優しく多輝の頭を撫でる。
「多輝さんはそう言うだろうけどって、やっぱりあの人の言った通りだったね」
「あのひと?」
多輝は眉を寄せて声を返した。すると克人が笑うのを止めて軽く頷く。
「今の多輝さんには判らないだろうけど、水輝さんっていう人だよ」
「みずき……」
多輝は聞き覚えのない名前を口の中で何度か繰り返した。だがやっぱり覚えがない。
「そう。多輝さんを楽しい夢に誘うように言ったのもあの人だけど、多輝さんはきっと拒絶するだろうって言ったのもあの人だよ」
言われている意味は多輝には判らなかった。だが何故か胸がぎゅっと締め付けられるような変な気分になる。多輝はほっそりとした胸に手を当てて胸の痛みを堪えた。どうしてだろう。理由もなく大人に暴力を揮われた時より、誰かに喧嘩をふっかけられた時より、みんなに笑いものにされた時よりずっと辛く悲しい気持ちになる。
唇を噛んで泣きそうな顔で堪えている多輝を見つめ、克人が静かに告げる。
「例えあの人が何を言っても、どんなことをしても」
それまでとはまるで違う、真剣な表情になった克人を多輝はじっと見つめた。虹色の羽根が震えて鈴が鳴るような音を立てる。
「どうか信じて」
「信じる?」
「そう。これはボクのわがままなお願い」
そう告げて克人が優しい微笑みを浮かべる。しばし考えた後、多輝はこくんと頷いた。意味は判らないが克人の言う通りにしてみよう。素直にそう思えた。
虹色の羽根が大きく羽ばたく。克人はふわりとその場から浮き上がり、宙を泳いで多輝の額にかかる髪を指で退けた。
「ほんとは唇にしたいところだけど、ばれたら怒られそうだから」
ちゅ、と多輝の額に克人が軽く口づけする。多輝は何が何だか判らず、触れられた額を押さえて目を白黒させた。
「なっ、何でそんなとこなめるんだ?」
「あはははは! やっぱり多輝さん、可愛いや」
明るい笑い声を残して克人がその場から飛び立つ。暗い夜空に小さくなっていく虹色の美しい光を多輝はずっと見送っていた。
絶対、優一郎にキレられる件w
だがしかし、今は優一郎はそれどころじゃないw