「あの、とりあえず外に出ています。すすり泣くような声が聞こえたからびっくりして乗り込んで来てしまって、すいませんでした」
そう言って頭を下げてから奈月は慌ただしくトイレのドアを閉めた。恥ずかしさで顔は真っ赤になっている。熱い頬を押さえて奈月は息を吐いた。胸がどきどき言っている。
「ま、待ってください姫様! 置いていかないでぇぇぇええ!」
悲鳴がドア越しに聞こえてくる。それからばたばたと何かの音が続いて、桜がドアを開けてトイレから出てきた。どうやら引き出しまくったトイレットペーパーを流し、一応はトイレの中を片付けたらしい。
「あの! 佑さんに預けたもの、受け取られたんですよね?」
赤い顔をしたまま、奈月はそう訊ねた。すると桜が胸をこぶしで軽く叩いて頷いてみせる。
「頂きましたとも! 姫様からのらぶれたー!」
自信満々の顔で桜が言う。それから桜は急に不安そうな顔になって奈月を見つめた。
「あの、もしかして返せと……?」
まるで捨てられた犬か何かのように寂しそうな顔で桜が問う。
「いえ、違います! わたしはもう、主龍神ではありません。いえ、それどころか、龍神でもありません。そんなわたしの傍に居て欲しいってご迷惑じゃないかって」
喋っているうちに無意識に小声になってしまう。考えるような顔をして告げた奈月を見つめて桜は首を傾げた。
「あの。座位などはなからどうでもいいのですが」
困ったような顔をして桜が言う。奈月は驚きに目を見張って桜を見つめた。桜の顔にはまだ鼻血の跡が残っている。
「あの、わたしで、いいんですか?」
上目遣いに奈月は問いかけた。すると桜がうっ、と息を飲んで横を向く。口許を押さえてぷるぷるしている桜を奈月は不思議に思って見つめた。よく耳を澄ますと姫様可愛い、と桜が呟いているのが判る。
「わたくしは姫様が姫様なら何でもいいのです。そもそも、主龍神や龍神の座位に拘るなら、姫様でなければならない理由はどこにもないではありませんか」
深く息を吸ってから桜が淡々と告げる。
「桜さんっ」
奈月は目の前に立つ桜に抱きついた。はう、と声を漏らした桜がひくひくと手を震わせる。このまま抱き返していいものかどうか迷っていたのだが、奈月はそんな桜の気持ちは少しも察せず、抱きついて桜の胸に頬ずりをした。
「ひっ、姫様!」
意を決したように叫んで桜ががば、と奈月を抱きしめる。初めて桜の腕にかたく抱きしめられた奈月は何度か瞬きをした。
「紫宝珠が……」
そう呟いて奈月は顔を上げた。ひし、とかたく奈月を抱いていた桜がああ、と呟いて腕を解く。
「わたくし、地上の王でなくなってしまいました」
にっこりと笑って桜が言う。奈月は何度か瞬きをして、桜を凝視した。
「確かにそうですけど、でも……きゃっ!」
目を凝らした奈月の目の前に銀色の鏡が現れる。桜が鋭い息を吐き、奈月をさらって鏡から庇う。桜はためらうことなく、鏡に肘を叩き込んだ。桜の強打を受けた鏡が悲鳴のような音を立てて砕けていく。
「桜さん、ありがとうございます。吸い込まれるかと……きゃっ!」
割れた鏡の破片が七つに分かれ、宝珠に転じて奈月の胸に吸い込まれる。桜は慌てた声を上げて奈月を抱きしめた。
「だっ、大丈夫ですか、姫様!」
桜にも何が起こったのか理解出来ていないらしい。
「大丈夫……です。また、預かることになったみたいです」
そう言いながら奈月は胸を押さえた。大きな何かが身体の中にあるのが判る。桜は困惑した面持ちで奈月をじっと見つめている。奈月は深く息を吐いてしっかりと自分の足で立った。心配そうな面持ちをしつつも桜がそっと奈月を解放する。
「申し訳ありません。わたくしのせいですか」
消沈した顔で桜が詫びる。
「いえ、誰かが預からなければならなかったんだと思います」
わたしは以前に一度経験ありますし。そう付け足してから奈月は微笑んでみせた。心配そうな顔をしつつも、桜がそうですか、と頷く。それから桜は眉を寄せて難しい顔をしてみせた。
「ですが、そもそも『地上の王』の座位に、女のわたくしがつけるはずがないとお思いになりませんか?」
奈月の耳元に口を寄せて桜がぼそぼそと言う。確かに王という名は女性が名乗るには少し変かも知れない。
「桜さんはあくまで、女性ですからね」
考えるような顔をして言ってから奈月は首を傾げた。
「地上の女王だったら、問題ありませんよね」
そうにっこりと笑いかけると桜が慌てたようにぶんぶんと首を横に振る。
「冗談ではありませんっ。わたくしは今の月龍神を守護する気はさらさらありませんからっ」
きっぱりと言い切って桜がつん、と横を向く。その意味に考えを巡らせながら奈月はぽっと頬を染めた。どうやら桜は奈月を護れるなら、と宝珠を受け入れ、先の座位についていたらしい。だが今となってはその座位は邪魔だと桜は言っているのだ。
「地上の王としての資格は失ってますけど、桜さんと今の月龍神をつなぐ流れを感じます」
少し眉を寄せて唇を尖らせて奈月は呟くように言った。思案顔をする奈月を見た桜が蒼白になって嫌がるように頭を横に振る。
「じょっおだんではありませんっ! わたくし、断固として拒絶します! はっ、もしかしてこれらが原因!?」
そう叫んで桜がその場に次々に宝珠を現す。宝珠は全部で六色、紫色のものと銀色のものだけがない。桜は奈月が止める前にその宝珠をつかんで次々に壁に向かって投げつけた。勢いよく投げられた宝珠が壁を通り抜けて消えてしまう。
「だめですっ! 宝珠は生きているんですから! 翠さんっ、桜さんの宝珠を、あるべき場所へ」
お願いします。そう続けて奈月は胸の前に手を組み合わせた。すると消えていた宝珠が壁から現れ、勢いよく次々に桜の頭めがけて飛ぶ。宝珠に頭を打たれた桜ががっ、という奇妙な声を残して床に昏倒する。
「桜さん! どうすれば……」
そう言いながら桜の傍にかがみ込んで奈月ははっと目を見張った。地上の王の座位がいつの間にか立城に正式に移っている。それに桜の周りに転がっている宝珠は消えた数より多い。床に転がる八つ揃った宝珠を見つめて奈月は言葉を失った。
桜が残念なことに!!!
蘇って(?)からずっとですけども!