「でしたら浜辺の唄はどうでしょう?」
「ん。判った」
素直に頷いて茜はリクエストされた曲を弾き始めた。今度は胸は特に何ともない。変だなあ、と呟きながらも茜はピアノを弾き続けた。すると葵が歌は、と目を輝かせて言う。茜は無邪気にねだる葵に苦笑してから歌い始めた。
気分良く歌い終わった後、茜は何気なく葵を見やって驚愕に息を飲んだ。いつの間にか葵は椅子に深く寄りかかり、ぼんやりと中空を見つめている。茜は口を少し開いて惚けた顔をしている葵と、何事もなくピアノに寄りかかっている立城を見比べてみた。
「だ、大丈夫? 葵ちゃん?」
だが声を掛けても葵は反応しない。ちょっと、と声を潜めて茜は立城のシャツの袖を引いた。
「大丈夫ですよ。葵」
ピアノから離れて立城が葵の頭を軽く撫でる。すると葵がはっとしたような顔をして慌てて周囲を見回した。
「ね、寝てた? おれ」
どうやら葵は自分が寝ていたと思ったらしい。不安そうに周囲を見回す葵に立城が笑みかける。茜は疑問に首を傾げながらピアノの鍵盤を見つめた。これまでも同じように弾いていたのだ。ピアノに特に仕掛けがある筈もない。
「葵。もっといろいろな音楽を聴いて、歌えるようになりなさい」
「おんがく? おれは歌、しなきゃならないのか?」
怖々と立城を見つめ、次いでピアノを見てから葵が弱々しい声で訊ねる。その様はまるで叱られるのを怯える子供のようだ。
「無理にさせることないんじゃないの? 葵ちゃん、イヤそーだし」
きっと葵は立城がやれと言えば辛くてもやろうとはするだろう。だがそれは葵の負担になるのではないだろうか。そんなことを考えながら茜は鍵盤を軽く叩いてみた。音に耳を澄ましてから、とある曲を弾き始める。すると立城が苦笑して肩越しに振り返った。
「立城に似合うっしょ? この曲」
ベートーベンの月光を奏でながら茜は片目を閉じてみせた。
「いいですよね。特にまったりとした第二楽章が」
「ああ、これね」
曲をすぐに切り替えて茜は笑った。確かにゆったりと流れるこの曲は夜の月に相応しいような気がする。
「無理にやろうとすると、どーしても音に出るし、そゆのってさぁ。やっぱり聴く方もつまんないと思うよ?」
さりげなく葵を庇いながら茜はちらりと立城を見た。葵はさっきまでの怖々とした様子が嘘のように、嬉しそうな顔をして曲に聴き入っている。
「そうですね。気長にいきましょう」
「なに。立城は葵ちゃんの歌がどうしても聴きたいんだ?」
笑い混じりに訊ねてから茜はわざと拗ねた顔をした。
「あたしの歌じゃ不満ってコト?」
唇を尖らせて上目遣いに立城を見る。すると立城は降参の印か、両手を軽く上げてみせた。
「茜さんの歌も演奏も素敵ですよ」
「真顔で殺し文句吐くオトコってどうなんだろうねー」
呆れた顔をしてみせてから茜は堪えられずに吹き出した。茜が急に笑い出した理由が判らないのか、葵が慌てたように茜と立城とを見比べる。
「葵。葵は茜さんのことどう思う?」
「え。あかね? って言うのか? おまえ」
不思議そうな顔をして問われて茜はこれだから、と苦笑した。どうやら葵は立城以外にはてんで興味がないらしい。そのことは判っていたつもりだったが、自分の名前すら覚えて貰えていなかったことに茜は少し落胆した。だがすぐに気を取り直して葵に笑みかける。
「そ。茜。ええと苗字は」
そこまで言って茜はぴたりと手を止めた。それまで流れていた曲が止まったのが意外だったのか、葵が不服の声をあげる。ごめん、と慌てて詫びて続きを弾きながら茜は空笑いした。
「えーと、茜だけでおっけー」
まさか自分の苗字を忘れてしまったとも言えず、茜はそう口早に言った。すると葵が首を傾げてから改めて言う。
「あかねは変」
「ちょっと待てこら」
あまりの言い草に笑いながら返して茜は横目に葵を睨んでみた。すると葵が眉を強く寄せて難しそうな顔をする。
「葵、どうしたの?」
「んー……あかね、よく判らない。美味しそうだけど、でも色々混ざってるみたいな」
美味しそうというのは、もしかして抱きたいという意味だろうか。それとも直接的に食いたいということなのだろうか。つらつらと考えつつも茜は立城の反応を待った。立城が子供を問いただすように、葵の前に膝をついて顔を覗き込む。
「なるほど。葵にはそう見えるんだね」
「うん」
こくん、と頷いてから葵が目を上げる。急に視線が合ったことにどきりとしつつも茜は平然を装って笑みかけた。
「つまりナニ? あたしとセックスしたいってこと? それとも文字通り食らいたいって意味?」
「せっくす? って何だ?」
真顔で葵が問い返す。おいおい、と苦笑してから茜は立城を横目に見た。やることやってるクセに、そぉいうことは教えないの? 視線にそんな意味をこめて睨むと立城はひょいと肩を竦めてみせた。
「葵、今日から日常的なことは茜さんに教わるように。茜さん、お願いしますね」
笑顔で言い切られて茜は慌てて首を横に振った。だが葵はあっさりと判ったと頷く。
「ちょ、ちょっと! あたしは子供は苦手……」
「おれ、子供じゃない」
ちゃっかりと茜の文句を聞き取って葵が拗ねる。茜は困惑に顔を歪めながらもしっかりと曲を弾き続けた。
「水輝。まだあれを使うつもりなのか」
ぼそりと立城が呟く。茜はピアノの音の合間に聞こえた声に目を細めた。だが立城は誰に聞かせるつもりもなかったらしい。すぐにいつもの微笑みを浮かべて葵の頭を撫でる。
「まあ? セックスなら手取り足取り教えるけど? ちょうど食い頃だろうし?」
立城のせりふを聞かなかったことにして茜はそう告げた。だからせっくすってなんだ、という葵の質問に知らん顔をして立城を見つめる。立城は苦笑しながら葵と茜とを見比べた。
「それじゃあ、三人でお勉強しましょうか?」
にっこりと笑った立城に負けないくらいのにこやかな笑みを浮かべ、茜は片足をさりげなく伸ばした。ピアノの影でめいっぱい立城の足を蹴る。
「いやあん、3P!? ウハウハだねー!」
「さんぴーって何だ!」
先の質問を完全に無視されたことで怒りを覚えたのか、葵が荒い声で言葉を挟む。茜に蹴られたにもかかわらず、立城は呻きひとつ漏らさず微笑みを浮かべた。
「それについては茜さんが説明してくれるそうです」
「なんであたしが!?」
笑顔で言われた茜はついつい乱暴に言ってしまってから、慌てて口を噤んだ。葵はしきりに首を傾げている。どうやらこちらの本心に気付いた様子はない。そのことにほっとしつつ、茜はぴたりとピアノを弾く手を止めた。
「セックス講義はお二人でごゆるりとー。あたしは遠慮するわ」
茜は素っ気なく言ってからさっさとピアノを片付け始めた。もう終わりなのか、と不満そうに言う葵に口先だけで詫びる。
「好きなくせに」
ぼそりと漏らされた立城の言葉に茜は低い声で返した。
「両刀と一緒にしないで欲しいね」
不機嫌に答えた茜を見つめ、立城が考え込むように首を捻ってからぽんと手を叩く。わざとらしく納得しないでよ、とため息を吐いてから茜はそっとピアノの蓋を閉めた。
順はピアノとか得意……ていうか、龍神系は音楽は大体得意です。