あれ、と呟いて多輝は頭をかいた。さっきまで何をしていたのかよく思い出せない。むぅ、と小声で唸って多輝は腕組みをして首を捻った。確か今日は怒られながら幼稚園に向かって、そこでやたらと体格の大きなやつに喧嘩をふっかけられたのだ。そのことを思い出して多輝はうんうんと一人で頷いた。
気がついた時には親はいなかった。周囲に居たのは冷ややかな目で自分を見る大人の女と、同じように親のいない子供たちだけだった。親代わりに自分を育てる大人たちの視線の意味に多輝が気付いたのは幼稚園に入る前頃だった。彼らは多輝の人間離れした治癒力を脅威に感じていたのだ。
どうせいつも近くに誰もいないしいいんだ。恐れる大人たちは出来るだけ多輝に触らないようにしていたし、多輝もそのことを不満に思うことはなかった。幼い頃から無愛想だった多輝には友達は一人もいなかった。近づいてくるのは多輝を苛めようとする、歳の近い子供だけだった。だがそのことを多輝は特に不思議には感じなかった。
何故なら、慣れていたから。どうしてそんな感覚があったのかを多輝自身は知らなかった。だが物心ついた頃から人に忌避される状況に慣れている自分がいた。
大きな樫の木の枝に腰掛け、多輝はぼんやりと遠くの茜空を見た。頭の後ろに手を組んでたくましい幹にしっかりと寄りかかる。海の近いこの町の奥にはこうした木が生えている林が点在し、多輝はこの樫の木のある場所を好いていた。ここからだと遠くに日の沈む海が見えるのだ。
最近では夕方になっても戻らない多輝を大人たちが捜すことはなくなった。彼らは内心ではこのまま多輝がいなくなればいいと考え、そのことを多輝は薄々は気付いていた。
「なんで仲良くできないのかな」
大きな枝に跨って多輝はぽつりと呟いた。この疑問も物心ついた時からずっと心にある。人に忌避されてしまうことに慣れてはいても、寂しさを感じることは稀にある。多輝はため息をついて半ズボンのポケットを探った。幼稚園でみんなに出されるおやつをこっそり残しておいたのだ。ティッシュペーパーに大事にくるんだビスケットを多輝は少しずつ口に入れた。
施設で育てられている多輝の着ているものは全て年上の子供たちのお下がりだ。中でも特に傷んでいるものを大人たちは多輝に着せたがる。多輝も特にそんな彼らに反論することもなく、大人しく差し出されるものに袖を通すことにしている。だが、それでもやっぱり幼稚園で綺麗な格好をしている子供たちを見ると少し羨ましくなる。多輝は今日見かけた愛らしいスカートをはいた女の子のことを思い出して遠い目をした。羨望の眼差しを向けた多輝のことをどう思ったのか、その女の子はすぐに物陰に隠れてしまった。
おれに見られるの、嫌だったのかな。そう呟いて多輝は少し顔を歪めた。改めて自分の格好を見下ろし、多輝は唇を尖らせた。くたびれたシャツに緩みかけたサスペンダー、裾のすり切れた半ズボン。今日のあの女の子とは随分と差のある格好だ。靴下の先に空いた穴は縫い合わせてはあるが、同じ幼稚園に通う子供たちのようにアニメーションのキャラクターの刺繍や花の模様などはついていない。多輝は片足を枝の上に上げて自分の靴下をつまんでみた。その拍子に腿に乗せていた菓子を落としそうになる。慌てて手を伸ばして落下しかけた菓子を受け止めた多輝は、身体を傾けて足で軽々と枝にぶら下がった。
太陽と海が逆さまに見える。多輝は膝を曲げて足を揃え、枝にぶら下がったままで海を見つめた。西日に赤く染まる海と空の境目が光っている。自然の作り出した美しい光景をぼんやりと眺めつつ、多輝はビスケットを大切に少しずつかじった。味の薄い三枚のビスケットを食べ終わると急に残念な気持ちになる。菓子を包んでいたティッシュペーパーを丸めてポケットに突っ込み、多輝は軽く反動をつけてブランコのようにゆらゆらと身体を揺らした。
短い洗いざらしの髪は手入れに気遣わずに済むが、可愛い髪飾りはつけるのが難しい。シャツと半ズボンという格好は鉄棒で遊ぶ時にもめくれることを気にしなくていいが、風にひらひらと裾が揺れたりしない。例えばもしも綺麗な格好をしていれば、乱暴の好きな男の子に汚いと罵られて殴られたりしないのだろうか。意味もなく殴られて反撃したら、何故か先生にこっぴどく怒られたりもしないのだろうか。
考えているうちに悲しくなり、多輝は辛いことを思い出すのを止めた。考えても無駄だということは身に染みてよく判っている。ままごとの仲間に入れて欲しくて近寄っただけで幼稚園の女の子が逃げ出す有様なのだ。きっと自分は誰にも嫌われているに違いない。
「夢の中でまで辛い思い、しなくていいと思うんだよね、ボクは」
唐突に聞き覚えのない声が降ってきて多輝は仰天して目を見張った。大きな反動をつけて膝を支点にくるんと一回転し、元通りに枝に腰掛けたところで間近に知らない誰かがいるのを発見する。見覚えのないその少年を凝視して多輝は恐る恐る話しかけた。
「だれ?」
「ボク? 蘇芳克人って言うんだ。宜しくね」
年頃は中学生くらいだろうか。ほっそりとした体つきをした克人と名乗った少年は人好きのする笑みを浮かべている。幼い多輝の目から見ると克人はやけに大きく見えた。怖々と克人を観察しつつ、多輝はいつもの癖で克人を避けて枝の先端に後じさりした。すると克人が困ったように笑って素早く多輝の腕を捕まえる。
「別になにもしないってば。そっちは危ないよ」
克人に忠告されて振り返った多輝は慌てて枝の付け根に寄った。幾ら登り慣れているといっても、枝は先端に行くに従って頼りなく細くなっている。あのまま後ろに下がっていたら、きっと落ちていたに違いない。
「あ、ありがと」
素直に克人に礼を言って多輝は枝にしっかりと座り直した。すると克人がひょいと多輝を抱えて自分の膝に乗せる。初めて人の膝の上に座らされた多輝は目を白黒させた。
久しぶりに克人が出てきました。