「なっ、なんでこんなことするんだ!?」
動揺した多輝は自分でも驚くほど大きな声で訊ねた。不思議そうな顔をした克人が少しの間をおいて微かに笑う。
「もしかしてこんな風にだっこされたことない?」
「な、ない」
恥ずかしさに真っ赤になって多輝は俯いた。後ろ向きに抱えられた多輝は背中が克人に触れてはいけないのではないかと考え、緊張した身体を出来るだけ動かさないようにした。だがそんな多輝を克人の方が片手で優しく抱き寄せる。腕に抱えられた多輝は息を飲んで硬直した。
「女の子なのにこんなところに登って危ないでしょ」
楽しそうに笑う克人の胸の動きが背中に感じられる。多輝は真っ赤に顔を染めたまま唸るように言った。
「おれのこと、女だって判るのか?」
「判るよ、それは。だって手触りが違うし」
即答してから克人はああ、と苦笑した。もしかしたら怒られるのか、と身構えた多輝の頭を克人が優しく撫でる。こんな風に抱えられるのも、頭を撫でられるのも初めての経験で、多輝は驚くやら恥ずかしいやらで克人を振り返ることが出来なかった。
それからしばらくの間、克人は多輝を抱えたままで色んな話をした。幼い多輝にはその話の内容の殆どを理解することが出来なかった。だが克人が親しげに話をしてくれることそのものが多輝にはとても嬉しかった。これまで誰も一度もこんな風に話をしてくれたことはなかった。そう思うと、克人の話を聞いているだけで多輝の胸はいっぱいになった。
空の話、海の話、山の話。語る克人の口調はよどみなく、意味を理解出来ない多輝も聞いていて心地よかった。
「りゅうじん?」
初めて聞く言葉にわくわくしながら、多輝は話の合間に質問を幾度も挟んだ。克人は多輝が問うたびに話を中断しては説明をしてくれる。
「そう。龍神というのはね。人ではない大きな力を持つ者だよ。この世にはそういう、不思議なモノがたくさん居るんだ」
でも、特別じゃないんだよ。そう続けてから克人は笑みを浮かべた。なぜだろう。その笑みがやけに優しく見える。多輝は首を傾げて小さな頭を懸命に働かせた。大きな力を持っているということは、人より凄いことなのではないか。考えた末に多輝はおずおずとそう質問した。
「凄いとか凄くないとかじゃなくてね。単に違うだけなんだよ」
そう説明してから克人は楽しそうに笑ってみせた。前は自分も勘違いをしていたのだと克人が言うのを聞いて多輝は首を傾げた。
それから克人はゆっくりと自分の過去について説明を始めた。克人は龍神ではないが、人とは違う生き物らしい。そのことを聞いた多輝はお化けかと叫んで慌てて逃げようとした。幼い多輝にとって人とは違うモノというと、連想できるのはお化けくらいだったからだ。違うってば、と苦笑して克人が足を示して笑う。足がちゃんとあるでしょ、と言われて多輝は恐る恐る克人の膝の上に戻った。
克人は一度、記憶を全てなくしたのだという。それから克人は養父母に育てられた。彼らは血の繋がりのない克人のことを大切に育ててくれたのだという。その暮らしの中で克人は自分が人ではないことを二人に教えられた。最初、克人はその話を聞いた時、人でない自分のことを恐れたのだそうだ。
「こわかった?」
多輝は不安に駆られながらそう訊ねた。すると克人がうん、と頷いて暗くなり始めた西の空を見る。目を細めて空を見つめる克人を多輝は怖々と振り返った。
「自分のことを人間だと思ってたからね。ボクもやっぱり同じようにそんなのお化けだと思ったし」
くすくすと笑って克人は軽々と多輝を抱え上げた。急に身体が浮いたことに驚いた多輝を克人が横向きに抱え直す。片腕に背中を支えられた多輝の目の前には美しい西の空がいっぱいに広がった。
「怖かったよ。それに……人と違うのはやっぱり嫌だった」
静かな声で告げてから克人は多輝と同じように空を再び見つめた。西の空には明るい星が一つ輝いている。
「でも、段々と自分のことが判ってくるとね。今度は人より自分は優れていて偉いんだって思うようになって」
そこで一度、言葉を切ってから克人は何故か急に吹き出した。何事かと驚いて声をかけた多輝に目を落として克人がごめんと詫びる。
「ちょっとね。養父母に何度も叱られたことを思い出して」
「おこられたのに笑うのか?」
疑問を覚えて多輝はしかめ面をして聞き返した。すると克人がうん、と頷いてまた笑う。何故だろう。自分なら怒られたらとても悲しいし寂しいのに。そんなことを重いながら顔をしかめたままで多輝は首を傾げた。克人が楽しそうに笑って言う。
「だってボク、すごーく」
凄く、のところでしっかりと溜めてから克人は言葉を継いだ。
「バカだったんだよ」
「ばか……って、え、なんで笑うんだ?」
おかしそうに笑っている克人のことが理解出来ず、多輝は真顔で問いかけた。するとそこで漸く克人は笑うのを止めて話を続けた。
「自分のバカさ加減が酷いとね。思い出した時に笑うしかないと思わない?」
「よく判らない」
静かな問い掛けに多輝は難しい顔をして答えた。そうだね、と頷いて克人は優しく多輝の頭を撫でた。
「ボクには人には出来ないことが出来た。例えば空を飛んだり、たくさんの虫を思いのままに動かしたり、怪我をしてもすぐに治ったりね」
克人の言葉に多輝はびくりと身体を震わせた。怪我がすぐに治る。それは自分も同じなのではないだろうか。緊張に身を強ばらせた多輝の頭を克人は優しく撫で続けている。
「だから人よりずっと価値があるんだって思ってた。でも、違うって養父母が……特に義父にはとても叱られた」
そこまで言ってから克人は困ったように笑って多輝の顔を覗き込んだ。間近に見つめられた多輝は慌てて視線を背けて俯いた。
「ああ。養父母っていうのはね。本当じゃないおとうさんとおかあさんのことだよ」
「う、うん。でもおれみたいなのとはちがうんだろ?」
急に話がそれたことで多輝はほっとして顔を上げた。するとまた克人と間近で目が合ってしまう。
「ボクは人には出来ないことが出来る。でも本当は違うんだよ。力の配分と向きが違うだけで、存在の価値に差はない。例えばボクは空を自由に飛べるけど、人は飛ばないことが出来る。……判るかな?」
ゆっくりとした口調で言われて多輝は必死で考えた。でもどうしても克人の言った、怪我をしてもすぐに治るという言葉が心に引っかかって離れない。もしかして自分は克人と同じ、人とは違う生き物なのだろうか。
一つ、また一つと空に星が光り始める。西の空はやがて暗く沈み、茜色から濃い紫に、そして深い青へと移り変わる。施設に帰ることも忘れ、多輝は克人の話に聞き入っていた。
多輝の昔というか、立城に引き取られる前の話、ということになるのでしょうか。時系列的には。
克人が多輝の記憶に潜り込んでいる、とも言えます。