水の跳ねる大きな音に驚いて紀早は足を止めた。いつもなら静かな湖面が揺れている。何事かと驚いて湖畔に駆け寄ったところで紀早は悲鳴を上げた。
「大変!」
湖の岸から離れたところに誰かが浮いている。紀早は慌ただしく着ている物を脱いだ。この辺りは幼い頃から遊び慣れていて、湖の水の流れも知り尽くしている。急いで下着姿になった紀早は小走りに駆けて湖に飛びこんだ。
水の冷たさを堪え、紀早は浮かんでいる誰かに泳いで近づいた。立ち泳ぎをしながら伏せて浮かんでいた身体をゆっくりと両腕に支える。身体をひっくり返して顔を水面に出させたところで紀早は驚きに目を丸くした。
湖に浮かんでいたのはやけに顔立ちの整った青年だった。紀早はしばし青年の顔に見入ってから、慌てて岸に向かって泳ぎだした。とにかくまずは青年を水からあげなければ。幸い、青年は脱力していて抱えて泳ぐのにも問題はなかった。これが、溺れている者を助ける時には気絶させた方が早い。何故なら溺れた者は藁をもつかむ、という言葉通り、溺れている者は救助しようとするとその辺りにあるものを手当たり次第につかむ傾向があるのだ。下手をすると救助しようとする者まで溺れてしまいかねない。
岸にあがって紀早は青年の身体を何とか水からひきあげた。どうやら青年は水を飲んだりもしていないようだ。青年が正常に呼吸をしていることを確かめて紀早はほっと胸をなで下ろした。
濡れたままでいると風邪をひいてしまう。紀早は慌ただしく下着を取り、服を身に纏うと家に走っていった。夕食の支度をしていた祖父を慌てて呼ぶ。祖父と共に湖の岸に戻った紀早は、二人がかりで青年を家に運び込んだ。
濡れた服を着替えさせ、布団に横たえた青年が目を覚ましたのは次の日の昼間だった。青年はまず、傍で看病をしていた紀早を見つめ、今度は紀早が慌てて呼んだ祖父をじっと見つめた。
「だ、大丈夫?」
不安を覚えて紀早は青年に問い掛けた。だがどうやら青年は口がきけないらしい。紀早の手を取り、手のひらに指で字を書いてみせる。ありがとう、という字を読み取って紀早は慌てて頷いた。
青年は沙耶と名乗った。年は二十歳過ぎくらいだろうか。紀早よりも少し年上に見える。
紀早と祖父は美しい湖の傍で静かに暮らしていた。この辺りは過疎が進み、今は若い者は殆どいない。辛うじて学校はあるが、通うには片道一時間以上の道を歩かなければならない。そんな環境で稼ぐ口もそうある筈もなく、紀早の両親は紀早が幼い頃から都会に出稼ぎに出ているのだ。
普段は滅多に祖父以外の人と会わないために、紀早は最初は沙耶との接し方が判らなかった。以前、学校に通っていた頃には同級生たちときちんと話も出来た筈なのに、沙耶にどう話しかけていいかすら判らないのだ。
沙耶が何故、湖に浮いていたのかは判らない。祖父がそのことを訊ねても沙耶は理由を明かさなかった。祖父は何か深い事情があるのだろう、と紀早に言い、紀早もその考えに同意した。実際、沙耶は病的に痩せ細っていて、体力が殆どないためか布団から出ることすら出来ない状態なのだ。きっと何か言いたくない事情があるに違いない。
それからしばらくの間、沙耶は大人しく布団の中に納まっていた。どうやら沙耶には帰る家がないようだ。そのことを知った祖父は好きなだけ居ればいい、とぶっきらぼうに言った。こんな山の奥に暮らしていると、どうしても人と触れる機会が減る。元々、口数の少ない祖父も沙耶という客人がいることを少なからず喜んでいるようだ。見知らぬ誰かだということを、二人ともが少しも疑わなかったのは沙耶がいつも暗く沈んだ顔をしていたからかも知れない。
紀早は少しずつ沙耶に話しかけることを覚えた。食事を運んだ時に傍で茶を淹れ、熱いから気をつけてと声を掛けるようになった。沙耶は湯飲みを受け取りながら頷くだけだが、紀早は沙耶が自分の呼びかけに反応してくれることを喜んだ。最初は祖父が沙耶の介抱をしていたのだが、話しかけられるようになってから紀早は自分から沙耶の面倒をみると言った。そのことを祖父はどう思ったのか、少し困ったような顔をしたが沙耶の世話を任せると言ってくれた。
だが何故だろう。沙耶は食べたり飲んだりしているのに用を足すことがない。そのことを紀早も祖父も不思議に思っていた。直接本人にも訊ねてみたが、沙耶は少し困ったような顔をするだけで答えようとしなかった。だが用を足さなくても身体の具合が悪い訳ではなさそうだ。少しずつ沙耶の顔色は良くなっている。
数日が過ぎ、寝たきりの生活から沙耶は少しずつ起きられるほどに回復した。最初は布団の上で座れるように、やがて祖父と共に家事を手伝うようになった。喋らない沙耶と一緒に家事をするのが楽しいらしく、祖父は常に機嫌が良かった。
だが沙耶は更に回復した頃にふらりと出かけるようになった。紀早が心配すると祖父は子供じゃないんだから大丈夫だと笑う。祖父の言葉通り、沙耶はしばらくすると戻っては来ていたが紀早は気が気ではなかった。
沙耶という名前はあちこちで見かけますねー。
他作品とはまったく関係ないです、と断っておきます。