「あっ! また勝手に出て!」
丁度、庭先で雑草を抜いていた紀早は玄関からふらりと外に出た沙耶に鋭い声をかけた。だが沙耶はちらりと紀早を見ただけで木で出来た門の方へと向かってしまう。紀早は手についた土を慌てて払い落とし、急いで沙耶の後を追った。
「駄目だよ! ちゃんと休んでないと、治らないんだからっ」
不機嫌に言いながら近づいた紀早を沙耶が振り返る。何か言いたそうに口を少し開いてから沙耶は足を止めて紀早の手をつかんだ。いつものように紀早の手のひらに指で字を書く。
大丈夫だ
沙耶は判りやすいようにと気遣ってか、いつも手のひらに逆さまに字を書いてみせる。その字は紀早から見るときちんと真っ正面から読めるのだ。
「だ、大丈夫じゃないよ! だって、まだふらふらしてるのに」
ふらりと歩き出した沙耶がまた振り返って渋い顔をする。だが今度は沙耶は足を止めずに先に進んだ。紀早は慌ててそんな沙耶を追いかけた。
時々、沙耶はさっきのように何か言いたそうに口を開きかけることがある。もしかしたら沙耶は話せなくなったのは最近なのかも知れない。ひょっとしたら口をきけないことに慣れていないのではないか。もしかして湖に浮いていたのはそのことが関係しているのだろうか。
つらつらと考えていた紀早ははっと我に返って慌てて周囲を見回した。いつの間にか足を止めてしまって沙耶を見失ってしまった。だがここは一本道だ。紀早は迷わず道を先に進んだ。
この先には滝しかないのに。難しい顔をして紀早は先を急いだ。もし沙耶がふらついて足を滑らせでもしたら大変だ。あの滝壺は小さくはあるがとても深く、底の辺りは水の流れも速い。慣れた紀早でも油断すると下流に簡単に流されてしまうのだ。
意外と沙耶の足は速かったらしく、紀早はなかなか追いつくことが出来なかった。やがて道は細くなり、古びた立て札を過ぎると獣道になる。紀早ははらはらしながら細い獣道を駆けた。
不規則に生えた木々の間を抜け、視界が開けたところで紀早はあっ、と息を飲んで足を止めた。滝壺の縁に立った沙耶が黙々と服を脱いでいるのだ。まさか、こんな季節なのに泳ぐつもりなのか。冬も間近に迫って空気は冷たいのだ。この辺りで遊び慣れている紀早ですら、この時期には滅多なことでは水に入ったりしない。
だがどうしてだか紀早はすぐに沙耶に声を掛けることが出来なかった。少し離れたところに立つ紀早に気付いているのかいないのか、沙耶は祖父の用意した服を脱いでその場に落とすとじっと滝壺を見下ろした。
なんて綺麗なんだろう。男性の裸を見て恥ずかしいと感じるより先に紀早は沙耶に見とれた。筋肉質というのでもなく、かと言って肉がまったくない訳でもない。すらりとした沙耶の肢体に紀早は思わず見入ってしまった。
ゆらりと動いた沙耶が軽々と踏み切って滝壺に飛び込む。そこで漸く紀早は我に返って悲鳴を上げた。慌てて滝壺の縁に駆け寄る。必死の面持ちで沙耶を呼んでいた紀早は、水面に浮かんできた姿を見つめてほっと息を吐いた。
まるで魚のように滑らかに沙耶が泳ぐ。紀早はぺたんと枯れ草の上にへたり込んだ。傍には沙耶の脱いだ服が無造作に積まれている。紀早はもう、とぼやいて沙耶の服をたたみ始めた。
やがて沙耶は滝の根元にたどり着いた。一体、何をするつもりなのだろう。紀早は無意識に息を殺してじっと沙耶を見つめた。沙耶は滝の落ちる岩の上に足を投げ出して座り、頭から水を被っている。この季節にそんな真似をしたら風邪をひくかも知れない。だがそう思いつつも紀早は何故か沙耶を制止することが出来なかった。
南に傾いている太陽が西に向かい、空が暗くなってくる。随分と長い間、沙耶はじっと滝に打たれていた。紀早は不安を覚えつつもどうしても沙耶に声を掛けられなかった。いっそのこと、自分も水に入って止めようか。そう思いはするのだがどうしてだか身体が動いてくれない。滝に打たれながら俯く沙耶が、今にも居なくなってしまいそうなほど存在が希薄に感じられるのに、それでも紀早は沙耶に呼びかけることすら出来なかった。
白い月が東の空にかかる頃、沙耶はおもむろに岩から降り、再び水の中を泳いで岸に向かった。紀早はいつの間にか滝壺の傍で膝を抱えてうずくまっていた。ぼんやりと目で追いかけていた沙耶が紀早の目の前で水からあがる。その段階でやっと紀早は裸の沙耶をまじまじと見つめていたことに気がついた。
「ごっ、ごめんなさい!」
反射的に詫びて紀早は慌てて目を逸らした。だが沙耶は特に何を気にした風でもなく、枯れ草の上に畳んで置いていた服を取り上げて着始めた。紀早は真っ赤な顔をして恐る恐る沙耶の様子をうかがった。
ふと妙なことに気付く。沙耶の身体は水に入っていたにもかかわらず何故か少しも濡れていない。訝りに眉を寄せた紀早は何気なく沙耶を見上げて首を傾げた。するとそこで沙耶と目が合ってしまう。沙耶はしばし紀早を見つめてからふい、と目を逸らしてシャツのボタンをかけはじめた。
気がつくと枯れ草の上には川魚が何匹も跳ねていた。紀早は目を丸くして魚と沙耶とを見比べた。
「これ、沙耶がとったの?」
跳ねているのは岩魚や虹鱒、それに山女魚が数匹だ。どの魚も食べるには丁度良いサイズで、しかもそれぞれの口はしっかりと紐で繋がれている。沙耶は着替えを終えて腰を屈めるとその紐をつかんで紀早に差し出した。
「あ、ありがと」
礼を言う紀早に頷いて沙耶が歩き出す。紀早は受け取った魚を手にぶら下げて沙耶に続いた。何となく傍を歩くことが出来ず、紀早は沙耶の少し後ろをついて歩いた。沙耶は紀早の歩調に合わせているのか、随分とゆっくり歩いている。
なんか魚くいたいw
と、思って書いたんだと思います、多分。
食べものが出てくる時は大抵はそんな感じですw