その日の晩には焼き魚が食卓に上った。残った魚は保存が利くように煮ることにしたらしい。祖父はいい魚だと焼き魚をつつきながら何度も誉めた。紀早はこれまで何度も口にしたことのある筈の川魚を大切に口に運んだ。何となくすぐに食べてしまうのはもったいない気がしたのだ。いつもより話を弾ませる二人とは対照的に、沙耶だけはいつもと変わらず、ただ静かに食事を続けていた。
沙耶は毎日のようにあの滝に向かう。紀早はそんな沙耶にいつもついて行った。別に何をするでもない。ただ、滝に打たれてぼんやりとしている沙耶を岸から見つめるだけだ。そのうちに沙耶は朝から夕暮れまでひたすら滝に打たれるようになった。
何かの修行? そう訊ねた紀早に沙耶は少し困ったような顔をした。難しそうに眉を寄せる沙耶を見ていられなくて、紀早はやっぱり答えなくていいと自分から質問をキャンセルしたりもした。
出会ってから半月ほどが過ぎた。紀早はその日、朝から妙なだるさを感じて布団から出るのが辛かった。どうしたのだろう、と思いつつも紀早はいつもと同じように台所に向かい、朝食の準備の手伝いを始めた。祖父が刻んだ葱を汁椀に入れたり、漬け物を切ったりしているうちに、今度は沙耶が台所に顔を覗かせる。いつものようにおはよう、と明るく声をかけた紀早をじっと見つめ、沙耶は無造作に手を伸ばした。
「ひゃっ」
意外に冷たい沙耶の手の感触に紀早は素っ頓狂な声を上げた。するりと紀早の額に手をあてがった沙耶がしかめ面をして首を横に振る。
「ん? どうしたんかな?」
沙耶の仕草に祖父が首を傾げて近づいてくる。沙耶は紀早の額に手をあてがったままで祖父に首を振ってみせた。今度は祖父が紀早の額に手を当てる。
「熱があるじゃないか」
「え。あれ? そう?」
まさか自分で熱があることに気付かなかったとも言えず、上ずった声で答えて紀早は空笑いしてみせた。困ったもんだ、と祖父が気遣うような顔で紀早の顔を覗き込む。
不意に身体が浮く。紀早は仰天して思わず手にしていたおたまを取り落とした。石で出来た床に景気のいい音を立てておたまが転がる。沙耶が唐突に紀早の身体を抱え上げたのだ。
「あっ、えっと、あの、沙耶、あたしは大丈夫だから」
だが沙耶は慌てて声をかけた紀早に難しい顔で首を横に振り、そのまま歩き出した。沙耶の腕の中に抱きかかえられた紀早は真っ赤になって暴れるのをやめた。くっついていたら自分の心臓の音が沙耶に聞こえてしまうのではないかと紀早は内心びくびくしていた。
布団に入り、しっかり休むようにと祖父に念を押された後、紀早のところに沙耶が粥を運んできた。木で出来た盆に土鍋と蓮華、それに漬け物の入った小皿を乗せて沙耶が静かに紀早の傍に座る。
「あの、今日は修行はいいの?」
紀早は沙耶が否定しないのをいいことに、滝に打たれる行為を勝手に修行と呼ぶことにしていた。沙耶もそんな紀早を怒ったりはしない。黙って頷く。支えられて布団の上に身を起こした紀早は不安に思いながら沙耶を伺った。沙耶は当たり前の顔をして土鍋の蓋を開け、蓮華にすくった粥に細い息を吹きかけている。
差し出された蓮華を口に入れ、粥を食べさせてもらいながら紀早は何故か泣きたい気分になった。こみ上げてきたものを堪えるためにさりげなく鼻をすすり、咳払いをしてみる。すると沙耶は紀早の口許に運ぼうとしていた蓮華を止めた。
「あ、ごめんね。ちょっと喉に詰まっちゃって」
紀早は俯きながら早口でそう言った。しばしじっとしていた沙耶が蓮華を土鍋に戻し、急須をつかんで湯飲みに茶を注ぐ。沙耶は湯飲みの八分目まで茶を注いでから、それを紀早の口許にあてがおうとした。
反射的に避けた紀早の手が沙耶の握っていた湯飲みをはじき飛ばしてしまう。あっ、と焦った声を上げた紀早とは正反対に、沙耶は落ち着いた挙動で腰を上げ、部屋の隅にあったティッシュペーパーの箱を取って零れた茶を拭き始めた。布団にかかってしまった茶を丁寧に拭き取ってから、おもむろに畳に転がった湯飲みを取り上げる。
「ごめんなさい……」
消沈した顔で紀早は詫びた。すると沙耶が改めて茶を注ぎながら首を横に振る。まさか沙耶がわざわざ茶まで飲ませてくれるとは思わなかったのだ。恥ずかしさについつい避けてしまったことを後悔しつつ、紀早は何度も謝った。
二回目に茶を淹れた湯飲みを、沙耶は今度は紀早の手元に差し出した。どうやら自分で飲めという意味らしい。紀早は頷いて湯飲みを受け取ると茶に口をつけた。
あたし、沙耶のことが好きなんだ。紀早は茶を飲みながらぼんやりと考えた。だからさっきのように近づかれると妙に胸がどきどきしたり、緊張したりするのだ。傍にいるだけで切なく泣きたい気分になったりするのもそのせいだろう。
粥も茶も味がよくわからなかった。沙耶はいつもと変わらず沈んだ面持ちをしていて、紀早が話しかけても少しも笑おうとしない。だが話はちゃんと聞いているようで、返事が必要な時には首を振るだけではなく時々紀早の手に指で字を書いてみせた。
もう休んだ方がいい
話をしていた紀早の手のひらにそう書いて、沙耶はめくれていた布団を直した。勧めに従って横たわりながら、紀早は勇気を出して沙耶の手をつかんだ。紀早にそっと布団を掛けようとしていた沙耶が少し眉を寄せて動きを止める。
「あの……ええと」
言葉を濁して紀早は唇を噛んだ。握った沙耶の手は男性のものにしては指が細い。沙耶は手を握られたままでじっと動きを止めたままだ。
「ええとね。あの、修行、行っても大丈夫だよ? あたし、ちゃんと寝てるし」
きっと沙耶は紀早のことを心配して出かけていないのだ。そのことを紀早自身は判っていた。だが言いたいことは違うのだ。本当に言いたいことを言えない自分に泣きたくなった紀早の頭がふと暖かくなる。はっとして目を上げた紀早は沙耶に頭を撫でられて思わず顔を歪めた。
じゃあ行ってくる
紀早の手に指でそう書いて沙耶は立ち上がった。静かに襖が閉じると紀早は部屋に一人きりになった。
「違うのに」
ほんとは好きだって言いたかったのに。紀早は唇を尖らせてため息をついた。まだ会って間もないのだ。そんなことを言われても沙耶は嘘かと思うかも知れない。だが紀早は自分の気持ちは絶対に本物だと信じ切っていた。考えれば考えるほど、沙耶のことが気になって仕方ない。修行について行く紀早のことを沙耶はうっとうしがったりもしないし、作った弁当もいつも綺麗に食べてくれる。次々に沙耶のことを思い浮かべて紀早は顔を緩めた。
とにかく言われた通りに寝よう。起きた時にはきっと元気になっている。そうしたら沙耶のところに行けばいいのだ。そう自分に言い聞かせて紀早は布団に潜り込んで瞼を閉じた。
水属性なので平気なのです(棒