滝に打たれていた沙耶が唐突に顔を上げる。いつものようにのんびりと沙耶を見守っていた紀早は驚いて目を丸くした。これまで沙耶は修行の間、岩の上で俯いているだけでこんな風に動いたことがない。紀早が昼食の時間に呼びかけることすらためらわれるほど、頑なに滝の下に座っているのが常なのだ。
「どうしたの? やっぱり止める? だって風邪ひきそうだもんね」
焦りからいつもよりずっと早口で言いながら、紀早は用意しておいたタオルを鞄から引っ張り出した。だが沙耶はじっと何処かを見つめて動こうとしない。
もしかしたらおなかが空いたのかな。そう考えて紀早は今度は昼食用の弁当を取り出した。両手に弁当の箱を抱えて顔を上げたところで紀早はぎょっとして息を飲んだ。
いつの間にか目の前に沙耶が立っている。沙耶は手早くその場に畳んであった服を身に着けると、紀早の手を取った。何事かと焦る紀早の手に、忙しく字を記す。
ここを動くな
それだけ記して沙耶はその場を駆けだした。慌てて腰を上げかけた紀早を振り返り、沙耶が厳しい顔で首を横に振る。何がどうなっているのかまるで判らず、紀早は沙耶に何度か頷いて元通りに岸辺に腰を下ろした。
「な、何だったのかな、いったい」
そう呟いて紀早は周囲を見回した。もう沙耶は走り去った後で見えなくなっている。見慣れたはずの森の気配がどことなくいつもと違う気がして紀早は不安を覚えた。抱えていた弁当をいそいそと鞄に戻し、紀早は落ち着きなく何度も周囲を伺った。
結局、好きって言えないな。周辺の違和感を気にすると余計に不安になる。そう考えた紀早は頭を切り換えて沙耶のことを思い浮かべた。沙耶が家に来てからひと月が過ぎた。沙耶は相変わらず毎日毎日、この滝に打たれに来る。一度は風邪をひいて倒れた紀早だったが、回復した後、沙耶の後に毎日ついていった。沙耶はそんな紀早をうっとうしがることもなく、だがそれでいて必要以上に傍に寄ることもなく、いつも紀早とは距離を保っている。
そんな沙耶を好きだと自覚したのはいいが、紀早はまだ沙耶本人に好きだと伝えられずにいた。どうやら祖父は先に紀早の想いに気付いたらしく、沙耶のいないところで苦い顔をして言った。
惚れちゃいかんぞ、紀早。沙耶は本当はここにおる筈のない者なんじゃから。
祖父の言葉を思い出して紀早は悲しみに顔を歪めた。祖父に言われるまでもなく、沙耶の心がここにないことに紀早は気付いていた。沙耶はふとした合間にぼんやりと遠くを見つめていることが多いからだ。
呼びかければ反応はするし、質問をすれば答えてもくれる。ごはんの食べ方がいつも綺麗で感心していると、少し困ったような顔もする。これまで過ごした中で見てきた沙耶のことを思いながら紀早は深々とため息を吐いた。
「でも笑わないんだもん」
抱えた膝に顎をのせ、紀早は拗ねた顔で呟いた。沙耶は最初と変わらず暗く重い表情をしたままで、紀早や祖父が冗談を言っても少しも笑うことはない。たまに紀早が悪ふざけをしても眉を寄せて難しい顔をするだけだ。きっと沙耶から見れば紀早はまだ子供で、女の部類にすら入っていないのだろう。紀早は唇を尖らせてがっくりと肩を落とし、膝に顔を伏せた。
そうだよね。そうじゃないと目の前で脱いだりとかしないはずだもん。膝に顔を伏せたままで紀早は口の中でぼそぼそと文句を言った。沙耶はまるでそこに誰もいないかのように、ここに着くと少しも周囲を気にすることなく服を脱ぎ始めて裸になってしまう。紀早が真っ赤になって視線のやりどころに困っているにもかかわらず、だ。もしも少しでも紀早のことを意識しているなら、沙耶もきっとあんな真似はしないだろう。
考えれば考えるほど、沙耶に相手にされていないことを思い知らされる。紀早は泣きそうに顔を歪め、鼻を啜った。不安になりたくないから、と沙耶のことを考えていたのに、今度は逆に切なくなってしまった。
これまで紀早はひとの少ない山の奥ではあるが、平々凡々に暮らしてきた。学校に通い、友達と会って遊んだり、一緒に勉強したりした。学校を卒業する時は一人きりの卒業式だったけれど、年の違う同じ学校の生徒たちや教師たちが暖かく送り出してくれた。両親からは時々、手紙が届く。元気でいますかという手紙に、紀早は出来るだけたくさんのことを書き連ねて送り返す。
楽しかったこと悲しかったこと嬉しかったこと、そして辛かったこと。それらのことを積み重ねて今日に至る。それは別に特に珍しいことでもなくて、他の誰しもが経験するようなことだろう。
だが沙耶が現れて紀早の心は一変した。今日こそ沙耶は笑ってくれるだろうか。朝は何を食べたいかな。お昼にはどんなお弁当を作ればいいだろう。今度、買い出しに行く時には沙耶の服も買ってみようか。それまで考えたことのないことを考えるようになったことに紀早は新鮮さを感じていた。
いつか沙耶はいなくなってしまう気がする。そっと顔を上げて滝を見つめ、紀早はぽつりと呟いた。口に出してみると心にずっと重くのし掛かっていた不安が強くなる。毎日毎日、飽きもせずに滝に打たれている沙耶の行為に一体どんな意味があるのだろう。寒いから止めた方がいいよ、とどんなに紀早が止めても沙耶は滝に打たれるのをやめようとしない。だが紀早は止める一方で、沙耶が滝に打たれるのを止めなければいいとも思っていた。
沙耶があの滝から離れたら、ここから去ってしまう気がする。紀早はじっと滝を見つめてため息を吐いた。
エピタイそのまんまですな!w
すべて作者の都合です!