「ずるいんだ、あたし」
風邪をひくからとか水が冷たいからと口では言いながらも、毎朝起きた時、もしも今日沙耶が滝に行かなかったらどうしようと考えているのだ。だから沙耶が紀早が止めるのを聞いて首を横に振ると、紀早は内心ではほっとしているのだ。
ぼんやりと考えを巡らせていた紀早の耳に唐突に草がこすれる音が聞こえてくる。ぎくりと肩を竦めて紀早は慌てて音のした方を振り返った。
「おっ、おじいちゃん!?」
紀早は素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。何があったのか、ぐったりとした祖父が沙耶に担がれているのを見て紀早は真っ青になった。沙耶は足早に紀早に寄ると、担いでいた祖父を傍に下ろした。
祖父の胸には深い傷があり、服は血にまみれていた。蒼白になった紀早は悲鳴を上げて祖父に何度も呼びかけた。だが祖父は胸元を押さえて呻いているだけだ。
不意に沙耶が来た方に向かって駆け出す。その手には真っ青な刀が一振り、握られていた。沙耶が駆けていく方へと目を向けた紀早は口許を覆って目を見張った。草むらを分けて這い出てきたのはあり得ないほど巨大な蜘蛛だった。それも一匹ではない。次々に現れる蜘蛛を沙耶が手にした刀で切り払う。
化け物。あまりのことに殆ど何も考えることが出来なくなった紀早の脳裏にそんな単語だけが浮かぶ。群れをなして沙耶に襲いかかる蜘蛛は一匹一匹がひとの大人より大きな体を持っている。口から吐き出される白い糸はまるでロープのような太さで、蜘蛛の口から凄まじい勢いで吐かれた糸は周辺の木々を貫いてしまう。
紀早は恐怖にひきつりながらその場にへたり込んだ。対峙している沙耶の方が動きが速く、蜘蛛はきちんと補足できないのかあさっての方向に攻撃を加えては、その隙に沙耶の刀で切られてしまう。沙耶の握る刀はどうやら相当の切れ味を持っているらしく、切り払われた蜘蛛は例外なく頭からまっぷたつにされた。沙耶の刀で切り裂かれた蜘蛛の身体は虹色の砂のようなものと化してその場から消えてしまう。
紀早はがくがくと震えながら傍に横たわった祖父に呼びかけた。どうやら傷は負ってはいるらしいが、もう出血は止まっているらしい。血の染みが広がっていないことを見て取って紀早はほっと息を吐いた。
鋭く風を切る音がして最後の一匹が沙耶の刀に切り払われる。沙耶は静かに刀を鞘にしまい、ゆっくりと紀早たちの方へと歩いてきた。
何故だろう。自分でも判らないままに、紀早はそんな沙耶を見て悲鳴を上げた。すると沙耶がぴたりと足を止める。
「来ないで!」
怪我を負った祖父を背後に庇いながら紀早は声を張り上げた。片手に刀をぶら下げた沙耶は言われたままに足を止め、じっとしている。紀早は震えながらさっきまで蜘蛛がたくさんいた場所を見た。辺りに生えてきた木々は無惨にあちこちに穴が空き、ものによっては倒れてしまっている。蜘蛛はもう影も形もないが、そのことがさっきまでのことが現実だと如実に物語っていた。
紀早は唇を噛んで背後を見た。祖父はまだ胸を押さえて苦しそうに呻いている。
「寄らないで、化け物!」
悲鳴混じりに紀早が叫んだ瞬間、沙耶が少しだけ目を細めた。あれだけ大好きだと思っていたのに、今は沙耶に恐怖しか感じない。紀早は恐怖と不安に泣きじゃくりながら沙耶を口汚く罵倒した。
静かに佇んでいた沙耶がぺこりと頭を下げ、踵を返す。やがて沙耶の姿が見えなくなり、それと入れ替わるように山の麓から人が向かってくる。紀早は祖父と共に保護されることになった。祖父の怪我は見た目よりずっと軽く、数日ほど休めば動けるようになるだろうと診断された。
沙耶はそれっきり、紀早たちの前から姿を消した。だが紀早はもう、沙耶のことを考えないようにした。そう、あれは悪い夢だったのだ。初めて目にしたあの化け物の蜘蛛が、魔と呼ばれるものだと説明されて紀早は納得したのだ。沙耶もきっとあの魔の仲間だったに違いない。そうでなければあんなに易々と退治できる筈がないではないか。
数日後、漸くベッドから起きられるようになった祖父が訥々と語る。
「いや、違うよ、紀早。沙耶は儂を護ってくれたんじゃ」
「なに言ってるの、おじいちゃん。きっと気が動転して見間違えたんだよ」
見舞いの品の林檎の皮を剥きながら紀早はすげなく祖父の言葉を否定した。祖父はなにか言いたそうにしていたが、頑なに沙耶は化け物だったのだと言い張る紀早に閉口した。
魔が荒らした山は事後処理や調査のため、閉鎖されることになった。そのことを聞いた紀早は胸をなで下ろした。これでもう、あの恐ろしいものたちと関わらなくて済むだろう。住み心地の良い家ではあったが、あんなものに襲われるなら他に移り住んだ方が安全だ。そう納得して紀早は祖父が渋るのを余所に早速、転居の手続きをし始めた。
そんな紀早の耳に妙な噂が届いた。あの山を流れていた川が何故か枯れたのだという。水源に何か異変が起こったに違いない、と大人たちが囁いているのを紀早は耳にはしたが、その時の紀早はもう、あの美しい山と綺麗な水の流れのことをすっかり忘れ、新しく住む家のことだけを考えていた。
人間からの化け物呼ばわりはフツーだと思います。
一連の話の焦点が人間にあたっていないのでアレですけど……w
人間(だと思ってた)連中が誰も化け物と言わなかったのがある意味おかしいw