私の名前はアキ。辺境の星でしがないエンジニアをしていた私は、ひょんなことから星穹列車に乗ることになった、ただの一般人だ。星核ハンターだとか、星神だとか、そんな壮大な話とは無縁の、平凡な人間。だからこそ、彼女の存在はあまりにも眩しく、そして不思議だった。
「星」と名乗った彼女は、美しい灰色の髪を揺らし、琥珀色の瞳で静かに世界を見つめる、ミステリアスな少女だった。星核をその身に宿す「開拓者」。列車のみんなから信頼され、その小さな背中で大きな運命を背負っている。
最初の頃、私たちはほとんど話さなかった。彼女は口数が少なく、私は専門外のことには口を挟まないようにしていたから。私たちの間に変化が生まれたのは、ある惑星での探索任務がきっかけだった。古代文明の遺跡を調査中、私はうっかり古いトラップを作動させてしまい、瓦礫の下敷きになりかけたのだ。
「危ない!」
短い叫び声。次の瞬間、私を突き飛ばしたのは星だった。轟音と共に崩れ落ちる天井。舞い上がる砂埃の中で、私は彼女の名前を呼んだ。
「星さん!」
煙が晴れると、そこには屈強なバットを片手に、巨大な岩を軽々と支えている星の姿があった。その瞳は、いつもは穏やかな琥珀色ではなく、鋭い光を宿していた。
「……大丈夫?」
「は、はい!ありがとうございます!でも、その岩は…」
「平気。慣れてる」
淡々とした口調とは裏腹に、彼女の額には汗が滲んでいた。その日から、私は彼女のことをもっと知りたいと思うようになった。星核の力だけじゃない。彼女自身のことを。
私は積極的にお茶に誘ったり、機関室の整備を手伝ってもらったりした。星は最初こそ戸惑っているようだったが、私が彼女の持つ不思議な力ではなく、彼女自身に興味を持っていると分かると、少しずつ心を開いてくれるようになった。
「これ、見てください。私の故郷の星で撮った写真です」
「……きれい」
「でしょう?いつか星さんも一緒に行けたらいいな」
「……うん」
アーカイブ室の片隅で、二人で他愛もない話をする時間。彼女が時折見せる、年相応の少女のような笑顔。その笑顔を見るたびに、私の胸は温かいもので満たされていった。
彼女は私のことを「アキ」と呼んでくれるようになった。さん付けではない、その響きがくすぐったくて、嬉しかった。
「アキは、どうして列車に?」
「うーん、成り行き、ですかね。でも、今はここにいられて本当に良かったと思ってます。星さんや、みんなと出会えたから」
「……そっか」
彼女はそう言うと、ふっと視線を逸らした。その横顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、きっと気のせいだろう。
この頃の私は、まだ気づいていなかったのだ。
彼女のその静かな瞳の奥底で、どんな感情が渦巻き始めていたのか。
彼女の愛情が、どれほど深く、そして恐ろしいものに育っていくのかを。
穏やかな日差しの中で、私は無邪気に笑っていた。すぐそこに、出口のない檻の入り口が開いているとも知らずに。
────────────────
私たちの関係が親密になるにつれて、星の行動に些細な、しかし見過ごせない変化が現れ始めた。それは、温かい毛布が少しずつ肌に絡みついてくるような、心地よさと息苦しさが同居した違和感だった。
始まりは、三月なのかとの会話だった。
「アキっちー!この間の写真、見て見て!すっごく可愛く撮れたんだよ!」
なのかが元気いっぱいに私に駆け寄り、スマホの画面を見せてくれる。二人でキャッキャと笑い合っていると、いつの間にか星がすぐ隣に立っていた。
「……何、見てるの?」
「あ、星ちゃん!この前のアキっちの写真!可愛いでしょー?」
「……うん。でも、アキは私と話してた」
冷たい、とまではいかない。でも、どこか棘のある響き。なのかは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「そっかー!じゃあまた後でね!」と明るく去っていった。
「ごめんなさい、なのかさん。気を遣わせちゃって」
私は見えなくなったその姿に謝る。
「……なのかがうるさいだけ」
そう言って、星は私の腕を軽く掴んだ。その手は少しだけ力がこもっていて、まるで「どこにも行くな」とでも言っているかのようだった。
そんなことが、少しずつ増えていった。
私が丹恒と書物について議論していると、必ず彼女はやってきて、二人の間に割って入るようにして座る。私が姫子さんやヴェルトさんと任務の打ち合わせをしていると、部屋の隅でじっとこちらを見つめている。視線に気づいて振り返ると、ふいっと顔を背ける。
「星さん、最近ずっと一緒にいてくれますね」
「……アキが心配だから」
「私、そんなにドジですかね?」
「ううん。アキが、じゃない。アキの周りが、危ない」
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。心配してくれているんだ、と。ただ、その過保護ぶりは日に日にエスカレートしていった。
ある日、私は自分の客室のデータ端末に、見慣れない監視プログラムがインストールされているのを見つけた。それは、私の通信履歴や行動ログを外部に送信する機能を持っていた。すぐに削除したが、背筋がぞっとした。誰が、何のために?
その夜、星が私の部屋を訪ねてきた。ノックもなしに、まるで自分の部屋のように入ってくる。
「アキ、何してたの?」
「え、えっと、少し調べ物を……」
「ふーん。……この間、アキが丹恒と読んでた本、私も読んだよ。難しかった。でも、アキが好きなものだから」
彼女はそう言って、私が読んでいた専門書を手に取った。その内容を理解しているとは思えない。ただ、私の痕跡を辿ろうとしている。その事実に気づいた時、私は初めて彼女に恐怖に近い感情を覚えた。
「星さん、もしかして、私の端末に何か……」
言いかけた言葉を、彼女は遮った。
「アキは、私がいないとダメだから。私が守ってあげないと、すぐに誰かに取られちゃう」
琥珀色の瞳が、昏い光を宿して私を射抜く。それは心配や好意などという生易しいものではない。執着。所有欲。私の全てを把握し、管理しようとする、歪んだ独占欲だった。
「そんなこと……」
「そんなことある。アキは、私のものだから」
彼女は私の手を握った。ひんやりとした、しかし逃れられない力強さ。
「ねえ、アキ。約束して。私のそばから離れないって。他の誰にも、目を向けないって」
私は何も言えなかった。頷くことも、拒絶することもできず、ただ彼女の瞳を見つめ返すことしかできなかった。列車内の温かい空気は、いつの間にか二人だけの冷たい真空に変わっていた。私の世界が、ゆっくりと、しかし確実に彼女の色に塗り替えられていくのを感じていた。
─────────────────
その日、私たちはある未開の惑星に降り立った。目的は、未知のエネルギー反応の調査。いつも通り、星と私、そして護衛役として丹恒が同行していた。
惑星は、鬱蒼とした森に覆われていた。調査は難航し、私たちは分担して反応を探すことになった。
「アキは俺と来い。星は単独で北方面を頼む」
丹恒の的確な指示。しかし、星はそれに静かに首を振った。
「……嫌。私はアキと行く」
「任務の効率が落ちる。わがままを言うな」
「わがままじゃない。アキは一人にできない」
二人の間に、張り詰めた空気が流れる。最近、こういうことが本当に増えた。結局、ヴェルトさんとの通信で説得され、星は渋々一人で北へ向かった。
「すまない、アキ。最近の星は少し……おかしい」
「……分かってます」
丹恒は心配そうに私を見た。だが、私たちは任務を遂行しなければならない。彼と二人で森の奥深くへと進んでいった。
悲劇は、その時に起きた。
私たちが調査していた遺跡は、この星の原生生物の巣だったのだ。突如として現れた、カマキリのような巨大な生物たち。丹恒は撃雲を振るって応戦するが、数が多い。
「アキ!下がっていろ!」
彼の背中に庇われながら、私は必死で逃げ道を探す。だが、一体の怪物が丹恒の死角から私に襲いかかった。鋭い爪が、私の肩を深く切り裂く。
「きゃあああっ!」
激痛と衝撃で、地面に倒れ込む。血の匂いを嗅ぎつけた怪物たちが、一斉に私に牙を剥いた。もう、だめだ。目を閉じた、その時だった。
閃光。
世界が、一瞬白く染まった。次に目を開けた時、信じられない光景が広がっていた。
私の周りにいたはずの怪物たちが、全て「消滅」していた。文字通り、塵一つ残さず。その中心に立っていたのは、星だった。
彼女はいつものバットではなく、黒と赤が混じり合った、禍々しい輝きを放つ槍を手にしていた。その瞳は、燃えるような金色に輝き、感情というものが一切抜け落ちていた。まるで、星神そのもののような、人知を超えた存在。
「……星、さん……?」
倒れ込んだままの丹恒が、呻くように彼女の名前を呼んだ。
星はゆっくりとこちらを振り向いた。金色の瞳が、私の傷ついた肩を捉える。
「アキに……傷……」
その瞬間、彼女の周りの空間がぐにゃりと歪んだ。彼女から放たれる凄まじいプレッシャーに、息ができない。
「よくも、私の、アキに」
声が、重なって聞こえる。少女の声と、もっと低く、威厳のある何者かの声が。
「よくも、私の、たった一つの光に」
「よくも、私の、世界に」
「よくも、私のものに、傷をつけたなぁっ!!」
絶叫と共に、彼女が槍を振るった。目標は、もはや存在しない敵ではない。その怒りの矛先は、ただ一つ。私を守りきれなかった、この世界の全てに向けられているようだった。森が薙ぎ払われ、大地が裂ける。天変地異。これが、星核を宿す者の、本当の力。
「やめろ、星!落ち着け!」
丹恒が叫ぶが、彼女の耳には届いていない。暴走。これが、彼女の力の本当の姿。
「星さん!やめて!」
私も必死に叫んだ。傷の痛みも忘れて、彼女の名前を呼んだ。
私の声に、彼女の動きがぴたりと止まった。金色の瞳が、ゆっくりと私を映す。狂気と破壊の化身だった彼女の顔に、亀裂が入る。
「……アキ?」
槍が手から滑り落ち、光の粒子となって消える。金色の光が収まり、いつもの琥珀色の瞳に戻る。彼女はふらつきながら私に駆け寄り、血を流す私の肩を見て、顔を真っ青にした。
「あ……あき、ごめん、ごめんね……私が、すぐに来なかったから……」
「だ、大丈夫だから……落ち着いて……」
「痛い?痛いよね?どうしよう……そうだ、もう誰もアキに触れさせなければいいんだ。誰も、アキを傷つけられない場所に、二人で行けばいいんだ」
震える手で、彼女は私の頬に触れた。その瞳の奥に宿る光は、先ほどの狂気とはまた違う、静かで、底なしの昏い色をしていた。
「アキは、私が守る。誰にも渡さない」
「アキの世界には、私だけいればいい」
囁くような、しかし有無を言わさぬ決定事項の宣告。
私は理解した。
今日のこの出来事が、引き金になったのだと。
彼女の中に眠っていた怪物が、完全に目を覚ましてしまったのだと。
そして、その怪物は、私だけを見つめていた。
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列車に戻ってからの日々は、一変した。
それは、まるで息のできない水中にいるような、静かな地獄だった。
星は、文字通り一瞬たりとも私のそばを離れなくなった。私が自室にいれば、彼女もいる。私が食堂に行けば、隣に座る。私が機関室で作業をすれば、すぐ後ろで見つめている。それはもはや「心配」や「過保護」の域を遥かに超えていた。完全な「監視」だった。
列車内の誰もが、その異常な状況に気づいていた。
「アキ、ちょっといいかしら」
ある日、姫子さんが私をラウンジに呼び出した。星が任務で一時的に別行動をしている、ほんの僅かな隙を突いて。
「星のことよ。最近の彼女は常軌を逸している。あなたに何かされたわけではないのでしょう?」
「いえ、そんなことは……ただ、あの惑星での一件以来、彼女は……」
「分かっているわ。あなたを想う気持ちが、暴走しているんでしょう。だけど、これは健全じゃない。アキのためにも、彼女のためにもならない」
姫子さんの真剣な眼差し。その時だった。ラウンジのドアが、静かに開いた。
「……何の話?」
そこに立っていたのは、任務を終えたばかりのはずの星だった。彼女の瞳は、私と姫子さんを交互に見つめ、冷ややかに細められた。
「アキは疲れてるの。だから私が部屋に連れて行く」
有無を言わせぬ口調。彼女は私の腕を掴むと、姫子さんに一瞥もくれずにラウンジを後にした。
「どうして、姫子と二人でいたの?」
私の部屋に戻るなり、彼女は低い声で問い詰めた。
「私の悪口でも言ってた?それとも、私からアキを奪おうとしてた?」
「違う!そんなこと話してない!」
「じゃあ、何の話?」
「……ただ、心配してくれてただけよ」
「心配?アキを心配するのは、私の役目なのに。他の誰かが、アキに触れるのも、アキのことを考えるのも、許さない」
彼女は私のデータ端末を手に取った。私が先日削除したはずの監視プログラムが、再びインストールされている。しかも、以前より巧妙に隠されて。
「アキは、私がいないとすぐ道に迷うから。だから、私が全部見ててあげる。どこにいて、誰と話して、何を見ているのか。全部」
「やめて……そんなの、おかしいよ……」
「おかしくない。これが、普通だよ。好きな人のこと、全部知りたいと思うのは、当たり前でしょ?」
彼女は、心の底からそう信じているようだった。その純粋さが、何よりも恐ろしかった。
私の世界は、急速に狭まっていった。
なのかが話しかけてくれば、星が間に割り込んで会話を終わらせる。
丹恒が私に本を勧めようとすれば、星がその本を「私が先に読むから」と取り上げてしまう。
ヴェルトさんが私に助言をしようとしても、星が「アキに余計なことを吹き込まないで」と睨みつける。
いつしか、みんな私に話しかけることを躊躇するようになった。私と話すことは、星を敵に回すことだと、誰もが理解してしまったから。私は列車という閉鎖された空間の中で、完全に孤立した。
唯一、私のそばにいるのは星だけ。
「ほら、アキ。これでいいでしょ?アキの世界には、私だけ。私の世界には、アキだけ。二人だけの、静かで、きれいな世界」
彼女は満足そうに微笑みながら、私の髪を優しく梳く。その手つきは愛情に満ちているのに、私は鳥肌が止まらなかった。
私の部屋は、いつしか彼女の物で満たされていった。彼女の服、彼女の読んでいた本、彼女が集めたガラクタ。私の痕跡は少しずつ消え、そこは「星とアキの部屋」というより、「星の部屋にアキが住まわせてもらっている」という状態に変わっていった。
ここは、檻だ。
星屑のように煌めく彼女の瞳が作り出した、美しくて残酷な、星屑の檻。
私はこの檻の中で、ゆっくりと窒息していく。逃げなければ。彼女が、完全に私を飲み込んでしまう前に。
その決意が固まったのは、彼女が私の故郷の写真を、黙ってシュレッダーにかけているのを見てしまった時だった。
「どうして……!」
「だって、アキはもうここには帰らないでしょ?アキの故郷は、これからは私がいる場所だよ。過去なんて、いらないよね」
そう言って微笑む彼女の顔は、天使のように無垢で、悪魔のように冷酷だった。
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計画は、慎重かつ極秘裏に進めなければならなかった。星の監視の目は、列車内の隅々にまで及んでいる。頼れるのは、星の異常さに気づき、今も私を案じてくれている数少ない仲間だけだった。
「――次の停車駅、ベロブルグで降りるんだ」
通信を傍受されないよう、機関室のノイズに紛れて、ヴェルトさんが小さな声で私に計画を告げた。
「姫子が星の注意を引きつける。丹恒が君を秘密の貨物ルートで脱出口まで案内する。パムも協力してくれるはずだ。だが、時間はほとんどない。星が気づけば、全てが終わる」
「……はい」
頷きながらも、心臓は張り裂けそうだった。もし失敗すれば?もし星に捕まったら?想像するだけで、全身の血が凍る。
決行の日は、三日後。
その三日間は、永遠のように長く感じられた。私はいつも通り、星の隣で微笑み、彼女の話に頷き、彼女がくれる食事を食べた。檻の中で飼いならされた小鳥のように。その演技が、彼女を油断させていると信じて。
そして、運命の日。
星穹列車が、雪と氷に覆われた星、ヤリーロ-VIの軌道上に到達した。
「アキ、ベロブルグに行くの、楽しみだね。二人で、雪だるま作ろう」
無邪気に話しかけてくる星。私は笑顔で頷きながら、ポケットの中の小さな通信機を握りしめた。
姫子さんの「ちょっと、星。次の任務のことで話があるわ」という声が、計画開始の合図だった。星が一瞬、不満そうな顔で私から離れる。その隙に、私は物陰に隠れていた丹恒と合流した。
「行くぞ、アキ」
彼の後に続き、私たちは息を殺して列車の裏ルートを進む。迷路のような通路、薄暗い貨物室。パムがこっそり開けてくれたハッチを潜り抜ける。聞こえるのは、自分の心臓の音と、ゴトン、ゴトンという列車の振動だけ。
「――待って」
出口の扉が見えた、その時だった。
背後から聞こえたのは、あまりにも聞き慣れた、静かな声。
振り向くと、そこに星が立っていた。
姫子さんをどうやって撒いたのか。どうしてここが分かったのか。そんな疑問は、彼女の瞳を見た瞬間に消し飛んだ。
琥珀色の瞳は、感情を失い、ただただ冷たい光を湛えている。
「アキ。どこに行くの?」
「……ッ」
「私から、逃げるの?」
「星さん、私は……!」
「嘘つき」
彼女はゆっくりと、一歩、こちらに踏み出した。
「『ずっとそばにいる』って、言ったよね? あれは、嘘だったんだ」
「違う、あれは……!」
「そっか。嘘じゃないなら、どうして逃げるの? 私、何か悪いことした? アキが嫌がることは、全部やめたつもりだったんだけどな。他の人と話せないようにしたのも、アキが他の人に気を取られて寂しくならないように。アキの過去を捨てたのも、これからの未来だけを二人で見つめていけるように。全部、全部、アキのためだったのに」
彼女の言葉は、淡々としていた。しかし、その内側には、煮えたぎるような激情と、裏切られたことへの深い絶望が渦巻いていた。
「星!彼女を追い詰めるな!」
丹恒が撃雲を構え、私の前に立つ。
星は、そんな丹恒を、まるで道端の石ころでも見るかのような目で見つめた。
「……邪魔」
その一言と同時に、星の姿が掻き消えた。
次の瞬間、丹恒の身体が凄まじい衝撃と共に壁に叩きつけられる。バットの一撃。あまりの速さに、目で追うことすらできなかった。
「丹恒さん!」
「逃げろ……アキ……!」
呻く彼を後目に、私は恐怖に駆られて出口の扉に手をかけた。外は、極寒の宇宙空間に繋がるエアロックだ。でも、もう構わない。
だが、扉が開くことはなかった。私の手を、冷たい手が掴んでいたから。
「逃がさないよ、アキ」
耳元で、星が囁く。
「もう、どこにも行かせない。アキは、私のものなんだから」
彼女の瞳を、間近で見る。
そこにあったのは、愛でも、怒りでも、悲しみでもない。
ただ、私という「所有物」を絶対に手放さないという、絶対零度の意志だけだった。
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ベロブルグの白い雪景色を見ることは、ついぞ叶わなかった。
私が次に目を覚ましたのは、見慣れた、しかし全く違う空気が漂う私の客室だった。
手足に、冷たい感触。見ると、枷がはめられていた。それはベットフレームに頑丈な鎖で繋がれており、私の自由を数メートルの範囲に制限していた。
「……目が覚めた?」
声のした方を見ると、ベッドサイドの椅子に、星が座っていた。彼女は私の手を優しく握り、まるで大切な宝物のように、その甲にキスをした。
「アキ、ごめんね。こんなこと、したくなかった。でも、アキが逃げるから」
「……離して」
「それは、できない。もう二度と、アキを失う恐怖を味わいたくないから」
彼女の瞳は、穏やかだった。狂気も、怒りも、そこにはない。ただ、ひたすらに深い愛情だけが、湖のように静かに湛えられている。だが、その静けさこそが、何よりも恐ろしかった。正常と異常の境界線が、彼女の中で完全に溶けてなくなってしまったのだ。
「これから、ずっと一緒だよ。この部屋から出る必要はない。食事も、着替えも、全部私がやってあげる。アキは、ただそこにいて、私だけを見ててくれればいい」
それは、完全な監禁の宣告だった。
地獄のような、しかし奇妙に穏やかな日々が始まった。
星は、本当に甲斐甲斐しく私の世話をした。彼女が列車食堂から運んでくる食事はいつも温かく、私の好きなものばかりだった。彼女は私の髪を丁寧に洗い、服を着替えさせ、私が退屈しないようにと、宇宙の絶景が見える窓の配置を変えてくれたりもした。
時折、誰かが部屋の前に来る気配がした。姫子さんか、ヴェルトさんか。彼らはドアをノックし、私の名前を呼んだ。しかし、ドアは内側から固くロックされており、星が冷たい声で「アキは寝てる。邪魔しないで」と告げると、彼らは諦めて去っていくしかなかった。
「どうして、分かってくれないんだろうね」
星は、窓の外を眺めながら、悲しそうに呟いた。
「私が、どれだけアキを愛しているか。この愛を守るために、どれだけの覚悟を決めたか。誰も、理解してくれない」
「これは、愛じゃない。これは、ただの独占欲だよ」
私の言葉に、彼女はゆっくりと振り向いた。そして、悲しそうに微笑んだ。
「違うよ、アキ。独占欲っていうのは、相手が誰のものでもなくなってしまうことを恐れる気持ちでしょ?」
「……」
「私は、違う。アキが、私以外の誰かのものになるなんて、考えたこともない。だって、アキは、最初から私のものなんだから。カフカが私を目覚めさせたあの瞬間から、いつかアキに出会って、私がアキだけのものになって、アキが私だけのものになるっていう運命は、決まってたんだよ」
彼女の口から出た「カフカ」という名前に、私は息を呑んだ。星核ハンター。彼女の創造主。
彼女のこの歪んだ愛情は、彼女が背負わされた「運命」そのものから来ているのかもしれない。自分が何者でもないという虚無。それを埋めるための、唯一の存在。それが、私だったのだ。
「ねえ、アキ。もう、逃げようなんて考えないで」
彼女は私の上にそっと跨り、枷の繋がれていない方の手で、私の頬を優しく撫でた。
「もし、また逃げようとしたら……今度は、この足じゃ済まないかもしれない」
彼女の視線が、私の足に向けられる。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、事実を告げているだけ。
「アキが歩けなくなれば、もうどこにも行けないよね? そしたら、ずっとずーっと、私のそばにいてくれるよね?」
ひ、と喉が鳴った。
本気だ。この子は、本気でそれをやる。
私の心を完全に支配するためなら、私の身体を壊すことさえ、厭わない。
涙が、頬を伝った。恐怖からか、絶望からか、それとも――。
その涙を、彼女は優しい舌使いで舐め取った。
「泣かないで、アキ。大丈夫。私がいるから。私が、アキの全部を受け止めてあげる。アキの痛みも、悲しみも、恐怖も、全部私のものだよ。だから、アキは、ただ私の愛だけを感じていて?」
彼女の唇が、ゆっくりと重なってきた。
それは、甘くて、優しいキスだった。
しかし、その奥にあるのは、私の全てを溶かし、飲み込もうとする、底なしの愛情という名の奈落。
私は、もう抵抗するのをやめた。
この檻の中で、彼女の愛情に融かされていく。それが、私に与えられた運命なのだと、諦めるしかなかった。
意識が、ゆっくりと白く染まっていく。
遠くで、星が嬉しそうに微笑む気配がした。
─────────────────
どれくらいの時が経ったのだろう。
時間という感覚は、とうの昔に曖昧になっていた。一日が、星が目覚め、私の世話を焼き、そして私の隣で眠りにつく、そのサイクルでしか認識できなくなっていた。
私の手足の枷は、いつの間にか外されていた。
もう、必要がなかったからだ。私は、逃げようという意思を完全に失っていた。この部屋が、この列車が、私の世界の全て。そして、星が、私の世界の中心。
ある日、任務から戻ってきた星が、興奮した様子で私に駆け寄ってきた。
「アキ!すごいものを見つけたんだ!アキに、最高のプレゼント!」
彼女が見せてくれたのは、ある無人惑星のデータだった。そこは、大気が安定しており、穏やかな気候で、そして何より、星穹列車や他のどの文明からも完全に孤立した、未知の星域にあるという。
「ここに、二人で住もう」
彼女は、子供のように瞳を輝かせて言った。
「ここなら、誰も私たちの邪魔をしない。姫子も、ヴェルトも、なのかも、丹恒も、誰もいない。私と、アキだけ。二人だけの、世界」
「……列車を、降りるの?」
「うん。だって、もう必要ないでしょ? 宇宙を旅する必要なんてない。私たちの旅の終着点は、ここだよ」
私は、何も言わなかった。
反論も、賛成も。
私の意見など、もう何の意味も持たないことを知っていたから。
数日後、星穹列車から、小さな脱出ポッドがひっそりと射出された。それに乗っているのは、星と、私だけ。誰も、私たちの脱出に気づかなかった。いや、あるいは気づいていて、もう止めることを諦めたのかもしれない。
ポッドの小さな窓から、遠ざかっていく星穹列車が見えた。
たくさんの思い出が詰まった、私の第二の故郷。
涙は、出なかった。
やがて、私たちの目の前に、目的の惑星が見えてきた。緑と青が美しく調和した、宝石のような星。
「着いたよ、アキ。私たちの、楽園に」
ポッドが着陸し、ハッチが開く。
流れ込んできたのは、甘い花の香りと、温かい風。空には、見たこともない色の太陽が二つ輝いていた。
星は私の手を引き、ポッドから降ろす。そして、私を深く、深く抱きしめた。
私たちの新しい世界は、静かで、満ち足りているはずだった。
だが、この楽園が無人ではないと気づいたのは、それから数ヶ月が経った頃だった。
その日、星が狩りに出ている間、私は一人で森の奥へと散策に出た。そこで出会ったのだ。すらりとした長身に、樹皮のような肌、そして枝のようにしなやかな四肢を持つ、森の民――『シルフ』と呼ばれる知的生命体に。
彼らは最初、私をひどく警戒していた。だが、私が武器を持たず、敵意がないことを示すと、恐る恐る姿を現した。言葉は上手く通じない。しかし、身振り手振りで、どうにか意思の疎通を試みた。彼らの村に招かれた時、私はこの星の真の姿を知った。彼らは自然と調和し、精霊を崇め、古くからの因習を重んじる、素朴で平和な民だった。
問題が起きたのは、星が私の帰りが遅いのを心配して、村まで探しに来てしまった時だった。
突如として現れた、自分たちとは全く異なる姿の星。シルフたちがパニックに陥り、原始的な槍を彼女に向けた瞬間――星の足元の地面が、理由もなく隆起し、巨大な岩の壁となって彼女を守った。
人知を超えた、まさしく神の御業。
シルフたちはその場にひれ伏した。槍を捨て、額を地面に擦り付け、震える声で何かを唱え始めた。
あの日を境に、シルフたちは、星を「星の神(ステラ・デウス)」と呼び、崇め奉るようになった。
星は、神として崇められることに何の興味も示さなかった。彼女の世界には、私しかいないのだから。だが、シルフたちの目には、その光景が全く違うものに映っていた。神である星が、私――異質で、非力な存在――にだけ、親密な態度を見せる。彼らの目に、私は「神を惑わす魔女」と映った。
私が彼らの言葉を学び、文化を理解しようとすればするほど、その溝は深まっていった。星がそばにいる時、シルフたちは私にも敬意を払うふりをした。だが、彼女が少しでも離れると、その態度は一変した。向けられる視線は冷たく、囁かれる言葉には棘があった。
私は、星にそのことを言えなかった。言えば、彼女が何をするか分からなかったから。私は大丈夫、と自分に言い聞かせ、一人で耐えることを選んだ。それが、取り返しのつかない過ちだったとは、気づかずに。
─────────────
その日、星は少し遠くまで狩りに出かけていた。
「すぐに戻るから。いい子で待っててね、アキ」
そう言って私の額にキスをして去っていく彼女の背中を、私は言いようのない不安と共に見送った。
一人になった私のもとに、シルフの長老が数人の若者を連れてやってきた。
「アキ様。村で、ささやかな祭りを開いております。ぜひ、貴方様にもお越しいただきたく」
罠だと、すぐに分かった。
ああ、やはり、こうなるのか。
心のどこかで、ずっと分かっていた。この楽園は、しょせん彼女が作り出した檻。行き着く先は、破滅だけだ。
私は、覚悟を決めた。
「ええ、喜んで」
村の中心部に連れていかれると、そこは異様な熱気に包まれていた。祭壇には、一本の儀式用の、錆びついた斧が鈍い光を放っている。
「魔女よ」
長老の声が、静かに響いた。
「お前が、星の神を独占し、その御心を曇らせた。我らは、神を解放する」
シルフの若者たちに両腕を押さえつけられ、祭壇の前に引きずり出される。抵抗はしなかった。ただ、脳裏に、走馬灯のように記憶が駆け巡った。
星穹列車で初めて出会った日。灰色の髪を揺らし、琥珀色の瞳で静かに私を見つめていた、あの不思議な少女。
アーカイブ室の片隅で、私の故郷の写真を「きれい」と呟いた、少しだけ恥ずかしそうな横顔。
任務で失敗した私を、屈強なバット一本で守ってくれた、小さくて、誰より頼もしかった背中。
二人でこっそり食べた夜食の味。他愛ない話で笑い合った、穏やかな時間。
まだ彼女の愛が、あの恐ろしい執着に変わる前の、純粋で、温かくて、太陽のように眩しかった、たくさんの思い出。
ごめんね、星さん。
私があの時、もっと早く気づいていれば。
あなたの孤独に、もっと寄り添うことができていれば。
私たちは、こんな風にならなかったかもしれないのに。
「星の神に、感謝を」
長老の言葉を合図に、若者が斧を振りかぶるのが見えた。
最期に思い浮かべたのは、今朝、私にキスをしてくれた彼女の、愛おしそうな笑顔だった。
ごめんね。
首筋に走る、灼けるような衝撃。
しにたくない
そこで、私の意識は途切れた。
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──────────
星が村に戻ってきた時、そこはお祭り騒ぎのようだった。
シルフたちは彼女の姿を認めると、歓声を上げて駆け寄り、その周りで喜びの舞を踊った。
「おお、星の神よ! ステラ・デウスよ!」
「ご覧ください! 我らの祈りは、届きました!」
星は、何が起きているのか分からず、ただ困惑して立ち尽くす。彼女の琥珀色の瞳が、必死にアキの姿を探していた。
すると、長老が最も美しいとされる白い布に包まれた「何か」を、祭壇の上から恭しく捧げ持ってきた。それは歪な球体のようで、布にはどす黒い染みがべったりと付着している。
「さあ、神よ。これこそが、我らの信仰の証。貴方様への最高の手向け物です」
「……アキは?」
星の問いには答えず、長老は満面の笑みで言った。
「さあ、お納めください。そして、我らを永遠にお導きください!」
星は、いぶかしげにその白い布に手をかけた。
そして、ゆっくりと、それを開いた。
中から転がり出てきたのは、アキの**頭部**だった。
それは、もはや生命の宿っていたものとは思えない、ただの肉塊だった。見開かれた瞳は、最期の瞬間の恐怖と激痛をそのまま写し取って、硝子玉のように虚空を彷徨っている。苦悶に歪んだ口は半開きになり、声にならない叫びが凍りついたままこびりついていた。乱暴に断ち切られた首の断面からは、血と組織液が流れ出し、彼女の艶やかだった髪に絡みついて黒く固まっている。白い布を汚した生々しい血痕は、その行為の残忍さを雄弁に物語っていた。
世界から、音が消えた。
星の時間が、完全に止まった。
彼女の思考が、停止した。
アキ。私の、アキ。
数時間前まで、私に「いってらっしゃい」と微笑んでくれた。
私の髪を撫で、私のキスを受け入れてくれた。
あの温かくて柔らかかった頬が、今は蒼白く、冷たい肉になっている。
あの優しい声で私の名前を呼んだ唇が、今は苦痛の形に歪んだまま、二度と動くことはない。
「……ああ」
か細い、息のような声が、星の唇から漏れた。
シルフたちは、神が喜んでいるのだと、そう思った。
次の瞬間。
星の琥珀色の瞳から、すっと光が消え失せた。
代わりに、その奥の奥から、燃え盛る恒星のような、金色の光が溢れ出す。
惑星そのものが、呻くように揺れた。大地が裂け、空が裂け、大気が悲鳴を上げる。凄まじいエネルギーの奔流が、彼女の小さな身体から、無限に溢れ出す。
シルフたちは、ようやく気づいた。
神が、喜んでなどいないことに。
自分たちが、決して触れてはならない、神の唯一の禁忌に触れてしまったことに。
星は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔に、表情はなかった。感情は、なかった。
悲しみも、怒りも、絶望さえも、全てを通り越して、「無」だけがそこにあった。
金色の瞳が、目の前のシルフたちを、塵芥のように見下ろす。
**「――お前たちだったのか」**
声が、世界に響いた。それは少女の声ではなく、星神そのものの声だった。
**「私の、世界を、壊したのは」**
絶望の淵から響くような、静かな問い。
シルフたちが恐怖に叫び声を上げるよりも早く、金色の光が、全てを飲み込んだ。
それは、まるで新しい星が生まれたかのような、圧倒的な輝き。
悲鳴も、後悔も、存在した全てのものを、その光は無慈悲に融かし、消滅させていく。
楽園は、一瞬にして灼熱の地獄へと変わった。
ただ、その破壊の中心で。
星は、アキの頭部だけを、壊さないように、壊さないようにと、まるで赤子をあやすかのように、そっと胸に抱きしめていた。
「アキ……アキ……アキ……」
誰にも届かない名前を呼び続けながら。
彼女自身もまた、自らが放つ光の中で、世界と共に崩壊していく。
二人だけの楽園は、二人だけの墓標となった。