※この作品はR-18です。

境界の蝶   作:heatmajin

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黒蝶の刻印

宵闇が高校からの帰り道をインクのように染めていく。四谷みこは、今日一日だけでもう何度目になるか分からない溜息を、誰にも聞こえないようにそっと吐き出した。日常に溶け込む異形の存在は、日を追うごとにそのおぞましさを増しているように思える。見えないふりをする。それが、みこが手に入れた唯一にして最大の防御策だった。

 

しかし、その夜、路地裏から現れた“それ”は、これまでの化け物とは明らかに格が違った。

 

複数の人間の苦悶の顔が捻じくれながら融合し、泥のような体から無数の腕を伸ばす巨大な異形。それは明確な悪意と殺意を、濁った瞳でみこに向けていた。「み…え…て…る…」と、地獄の釜が開いたような声が空気を震わせる。金縛りにあったように足が動かない。無視しようにも、強烈な圧が物理的な力となって、みこの華奢な体を押し潰そうとしていた。死、を直感したその時だった。

 

「あらあら、お可哀想に。そんな醜いものに好かれてしまって」

 

鈴を転がすような、しかしどこか艶めかしい声が響いた。振り返ることもできないみこの視界の端に、ふわりと黒い蝶が舞うのが見えた。次の瞬間、みこを圧迫していた存在感が霧散する。目の前にいたはずの異形は、断末魔の叫びを上げる間もなく、まるで陽炎のように掻き消えていた。

 

呆然とするみこの前に、一人の女性が立っていた。年齢の全く分からない、黒い絹の着物を現代風に着こなした美女だった。夜の闇よりも深い黒髪は滑らかに流れ、血のように赤い唇が妖しい微笑みを形作っている。その瞳は、世界のすべてを見透かすような深淵を湛えていた。

 

「…あ、あの…」

 

「助けて、あげたわ」

 

女性はくすくすと笑う。その仕草一つ一つが、計算され尽くした絵画のように完璧だった。

 

「貴女、視えるのでしょう?わたくしのような“力”を持つ者でなければ祓えぬほどの上物でしたわ、今のは」

 

みこは言葉を失った。この人は、本物だ。ゴッドマザーとは比較にならない、圧倒的な存在。安堵と同時に、新たな恐怖が背筋を駆け上った。

 

「あ、ありがとうございます…!あ、あの、お礼は…」

 

みこが財布に手をかけようとすると、女性は面白そうに首を振った。

 

「お代、ね。そうねぇ、わたくしの助けは安くはないわよ。貴女のような可愛らしい学生さんに払えるような金額ではないかしら」

 

その言葉に、みこの顔が青ざめる。しかし、女性はみこの顎にそっと指を添え、顔を覗き込んだ。その瞳に見つめられると、まるで魂の芯まで見透かされるようだ。

 

「でも、代わりになるものは持っているようね」

「え…?」

「貴女の“からだ”で払っていただこうかしら」

 

女性の言葉は、蠱惑的な響きを伴って、みこの鼓膜を震わせた。冗談なのか、本気なのか。しかし、その真剣な眼差しは、決して戯れ言ではないと告げていた。

 

「わたくしの名は綺蝶(きちょう)。また“見”えて困ったときは、名を呼びなさい。…そして、対価を支払って頂戴」

 

そう言い残し、綺蝶はふっと姿をかき消した。後には、甘く危険な香りと、舞い散る数匹の黒い蝶だけが残された。

 

その日から、みこの日常は一変した。化け物たちは相変わらずそこにいたが、みこには綺蝶という切り札があった。どうしようもなく危険な場面で、震える声で彼女の名を呼ぶと、綺蝶は必ず現れ、戯れるように化け物を消し去った。

 

そして、その度に“対価”が支払われた。

 

最初は、ただ綺蝶の膝枕で彼女が満足するまで髪を撫でられるだけだった。次は、彼女の屋敷に招かれ、指の先からゆっくりと霊力を流し込まれること。それは奇妙な昂揚感をみこにもたらした。力を貸す度、綺蝶の要求はエスカレートしていく。彼女の唇がみこの肌に触れ、甘い言葉が耳元で囁かれる。それは拒絶するにはあまりにも甘美な時間だった。

 

「みこ、貴女は本当に綺麗。怖がる顔も、わたくしに助けを求める顔も…そして、こうして身を委ねる顔も」

 

綺蝶の部屋で、薄い衣一枚にされたみこは、なされるがままにその身体を綺蝶に預けていた。綺蝶はみこの身体に触れることで、みこの霊的な資質を味わい、同時に自らの力を刻み込んでいるようだった。

 

「わたくしの力を受ける度に、貴女はわたくしに染まっていくの。貴女の魂が、わたくしの色に…」

 

その言葉通り、みこは自分が変化していくのを感じていた。あれほど恐ろしかった化け物たちへの恐怖が薄れ、代わりに綺蝶がそばにいないことに不安を感じるようになっていた。彼女の妖艶な微笑み、肌の香り、魂に響く声。そのすべてが、みこを囚えて離さない。

 

もはや、みこにとって綺蝶は単なる霊能者ではなかった。恐怖から救い出してくれる救済者であり、同時に心を蝕む甘い毒。高額な報酬の代わりに差し出した身体は、いつしか心ごと綺蝶のものになろうとしていた。

 

今日もまた、みこは異形と目が合う。だが、その口元には以前の怯えはない。ただ静かに、そして無意識に、彼女の名を唇に乗せる。

 

「綺蝶さん…」

 

すぐに現れるであろう妖艶な救い主を想い、身も心も、彼女の色に染められていくのを待っている自分がいた。

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