綺蝶との夜を経て、みこの日常は新たな局面を迎えていた。彼女はもはや、ただ異形に怯えるだけの女子高生ではない。昼は「四谷みこ」という仮面をつけ、友人たちと笑い合い、平凡な日常を演じる役者。そして夜は、最強の霊能者の寵愛を受ける唯一の存在。その二重生活は、みこに奇妙な緊張感と、背徳的な優越感を与えていた。
「みこ、最近なんか雰囲気変わったよね。前はもっとこう、ビクビクしてたのに、今はすっごい堂々としてるっていうか…」
教室で、親友のハナが不思議そうにみこの顔を覗き込む。
「そうかな?気のせいじゃない?」
みこは穏やかに微笑んでみせた。ハナの背後、窓の外にうごめく低級霊を視界の端で捉えながら、内心で冷ややかに思う。
(あなたには見えないでしょうね。この世界の本当の姿も、私が誰のものなのかも)
この余裕は、綺蝶という絶対的な後ろ盾があるからこそ。そして、自分もまた、その力の一端を担っているという自負から生まれていた。
その日の午後、事件は起こった。みことハナが学校からの帰り道、古びた商店街を歩いていると、一人の少年が何かに取り憑かれたように、突然道路へ飛び出したのだ。大型トラックが、すぐそこまで迫っていた。
「危ない!」
ハナが叫ぶ。周囲の人々が悲鳴を上げる。しかし、誰もが間に合わないと悟った、その瞬間。
みこは、動いた。
彼女は誰にも気づかれぬ速さでポケットからコンパクトミラーを取り出し、蓋をわずかに開く。そして、先日捕らえた「気位の高い女の霊」に、意識だけで命令を下した。
『あの子を止めなさい』
刹那、ミラーから不可視の霊力が放たれ、少年の身体をふわりと包み込む。まるで柔らかな壁にぶつかったかのように、少年の身体は道路の手前でぴたりと止まった。トラックはクラクションを鳴らしながら、少年の鼻先を掠めて走り去っていく。
「…え?あれ?」
我に返った少年は、自分がなぜ道路の寸前で立っているのかわからず、きょとんとしている。周囲の人々も、何が起きたのか理解できず、ただあっけにとられていた。
「よかったぁ…!助かった…!」
ハナは胸をなでおろす。みこは、何食わぬ顔でコンパクトミラーをポケットにしまいながら、静かに息をついた。綺蝶の力を、人助けのために使う。その行為は、みこに新たな感覚をもたらした。
(わたしの力で、運命を変えられるんだ)
それは、悪霊を狩るのとはまた違う、万能感にも似た高揚だった。
その夜、綺蝶の屋敷で、みこはその出来事を話して聞かせた。てっきり綺蝶は、下等な人間に力を使うことを咎めるか、あるいは無関心な態度を示すだろうと、みこは思っていた。
しかし、綺蝶の反応は意外なものだった。
「ふうん。わたくしの力を、人助けに使った、と」
綺蝶は面白そうに目を細め、みこの顎に指を添えた。
「悪くないわ。その力はもはや、貴女のものでもあるのだから。どう使おうと、貴女の自由」
そして、彼女は妖しく微笑んだ。
「けれど、覚えておきなさい、みこ。力を振るうことには、必ず代償が伴う。善行であれ、悪行であれ、世界の理(ことわり)を歪めれば、その歪みは必ずどこかに現れるものよ」
綺蝶はそう言うと、みこの唇をゆっくりと舐めた。
「そして、貴女が起こした奇跡の“代償”は…今夜、わたくしがたっぷりと、貴女の身体で支払わせてあげる」
人助けという善行。その対価が、綺蝶との倒錯した夜。その矛盾こそが、二人の関係を象徴しているようだった。
「貴女が昼の世界で聖女を演じれば演じるほど、夜の世界では、より淫らな獣にならなければならない。それが、わたくしと貴女の契約よ」
綺蝶の言葉に、みこは逆らうことなく頷いた。昼の善行が、夜の背徳的な快楽の口実になる。その倒錯したサイクルに、みこはすでに抗いがたい魅力を感じていた。
昼の聖女、夜の娼婦。二つの顔を使い分ける日常。その境界線が曖昧に溶け合っていく中で、みこの魂は、さらに深く、綺蝶の望む色へと染め上げられていくのだった。