昼の世界で「奇跡」を起こした代償は、その夜、綺蝶によって徹底的に支払わされた。
「善行とは、実に甘美な響きね。けれど、その行いによって救われた命があれば、そのぶん、世界のどこかでバランスが崩れる。その綻びを繕うのが、わたくしたちのような存在の役目…そして、貴女の役目は、そのために消費したわたくしの力を、その身で補うことよ」
綺蝶はそう囁きながら、みこの身体を隅々まで貪った。それは、いつにも増して激しく、執拗だった。まるで、みこが昼の世界で触れた「光」の気配を、自らの「闇」で完全に塗り潰そうとするかのように。
みこは、その激しい愛撫を受け入れながら、奇妙な納得を感じていた。昼間に少年を救った、あの清らかな高揚感。その記憶が、綺蝶によって与えられる背徳的な快感と混ざり合い、これまで感じたことのない複雑な味わいの媚薬となる。善と悪、聖と俗。その両極端を味わうことが、自分にしかできない特権なのだと、魂が理解していた。
翌日から、みこの日常はさらに変質した。
彼女は、意図的に「奇跡」を起こすようになった。困っている人を見つけては、綺蝶の力を使い、誰にも気づかれぬように助ける。それは、純粋な善意からではなかった。半分は、自分の力を試したいという好奇心。そしてもう半分は、その善行が、夜の綺蝶との時間をより濃密で特別なものにしてくれるという、倒錯した期待からだった。
クラスメイトの失くした大切なものを、霊を使役して探し出す。体調の悪い友人の背中にそっと手を当て、綺蝶の霊力で僅かながら癒しを与える。その度に、周囲からは「みこって、なんかすごい」「幸運の女神みたい」と感謝され、彼女の周囲には穏やかで清らかな空気が流れた。
だが、誰も知らない。その聖女のような微笑みの下で、みこが夜の代償に胸をときめかせていることを。
「また、良いことをしてきたようね。その身から、安っぽい感謝の匂いがするわ」
その夜も、綺蝶はみこの身体から漂う「光」の気配を嗅ぎつけ、嘲るように言った。
「けれど、その偽善の仮面を剥がした下にある、貴女の本当の顔…わたくしに悦ばされたくて堪らないという、そのいやらしい顔が、わたくしは一番好きよ」
綺蝶は、みこが昼間に起こした「奇跡」の数々を、まるで武勇伝を聞くかのように楽しげに聞きながら、その対価を要求した。善行の内容が大きければ大きいほど、綺蝶の要求はより倒錯し、大胆なものになっていく。
みこは、いつしか昼間の善行を、夜の快楽を得るための「通貨」のように考えるようになっていた。
そんなある日、みこはこれまでで最も大きな「代償」を支払うことになるかもしれない出来事に遭遇する。
街の中心部にある建設中の高層ビルで、大規模な火災が発生したのだ。逃げ遅れた作業員が、まだ複数取り残されているというニュースが、スマホの画面に映し出される。現場は、みこがいる場所からそう遠くない。
(どうする…?)
これは、これまでのような個人的な人助けとは規模が違う。多くの人間の運命に、直接介入することになる。綺蝶の言っていた「世界の理を歪める」行為そのものだ。その代償が、どれほどのものになるか想像もつかない。
しかし、みこの心をよぎったのは、恐怖よりも先に、ある種の挑戦的な高揚感だった。
(これを成し遂げたら…綺蝶さんは、どれほど喜んでくれるだろう?)
(どれほど、特別な“褒美”をくれるだろう?)
その思考が、みこの背中を押した。彼女は人混みに紛れ、火災現場へと向かう。黒煙が天を突き、人々の悲鳴が響き渡る地獄のような光景。
みこは、ビルの屋上に複数の人影を認めた。炎に追われ、逃げ場を失っている。
彼女は目を閉じ、意識を集中させた。自分の内にある綺蝶の力だけでは足りない。彼女は、この街に存在する全ての「水」の気を持つ霊的存在に、意識を飛ばした。近くの川、下水道、人々の持つペットボトルの中の水滴に至るまで。
『集いなさい。そして、あの炎を消しなさい』
それは、もはや命令というよりも、祈りに近い力の行使だった。みこの呼びかけに応じ、目には見えない無数の水の霊力が、火災現場へと集束していく。
そして、信じられない光景が広がった。
どこからともなく現れた濃密な霧がビルを包み込み、あれほど激しく燃え上がっていた炎が、まるで意思を持った力に抑え込まれるかのように、急速に勢いを失っていったのだ。消防隊員たちも、何が起きたのか分からず呆然としている。
みこは、その光景を遠くから見届け、ふらつきながらその場を離れた。全身の霊力を使い果たし、立っているのもやっとだった。だが、その心は、途方もない達成感と、そしてこれから訪れる夜への、恐ろしくも甘い期待に満たされていた。
その夜、綺蝶の屋敷にたどり着いたみこは、玄関で倒れ込むようにして気を失った。
意識が戻った時、彼女は綺蝶の寝室のベッドに寝かされており、綺蝶自身が、濡れた布でみこの汗を拭っていた。その表情は、面白いものを見るといういつものものではなく、どこか真剣で、そして微かな憂いを帯びているように見えた。
「…無茶を、する子ね」
綺蝶は静かに呟いた。
「これほど大きな理の歪みを生じさせるとは。貴女が支払う代償は、もうわたくしとの夜だけでは足りないかもしれないわよ」
その言葉の真意を、この時のみこは、まだ理解していなかった。