※この作品はR-18です。

境界の蝶   作:heatmajin

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代償という名の鎖

「代償は、わたくしとの夜だけでは足りないかもしれない」

 

綺蝶のその言葉は、まるで不吉な予言のように寝室の空気に響いた。みこは、霊力を使い果たした気だるさの中で、その意味を測りかねていた。もっと激しい快楽を要求されるのだろうか。それとも、身体の一部でも奪われるのだろうか。しかし、綺蝶の表情からは、いつものような遊戯の色は消えていた。

 

「今夜はもうお休みさない。代償の支払いは、貴女の身体が回復してからよ」

 

綺蝶はそう言うと、その夜は本当に何一つ要求することなく、ただみこの隣に横たわり、眠りにつくのを見守った。その静かな優しさが、かえってみこを不安にさせた。

 

数日後、みこの体力が完全に回復したのを見計らい、綺蝶は口を開いた。

 

「さあ、代償を支払ってもらいましょうか」

 

みこは覚悟を決め、身を硬くした。どんな要求でも受け入れるつもりだった。しかし、綺蝶がみこを連れて行ったのは、寝室ではなく、屋敷の奥にある、これまで一度も足を踏み入れたことのない部屋だった。

 

その部屋は、まるで古い標本室のようだった。壁一面の本棚には難解な魔術書が並び、ガラスケースの中には曰く付きの呪具や、黒水晶に封じられたままの強力な霊たちが飾られている。そして、部屋の中央には、黒曜石でできた祭壇のようなものが鎮座していた。

 

「貴女が救った命は十数人。その重さは、貴女が思っている以上に世界の天秤を傾けたわ。その歪みを正すには、同等のエネルギーが必要になる」

「エネルギー…?」

「ええ。わたくしとの交合で生まれる霊力だけでは足りない。貴女自身の“存在”の一部を、この世界に還元してもらうわ」

 

綺蝶はそう言うと、みこに祭壇の上に横になるよう促した。みこは言われるがままに、冷たい石の上に身体を横たえる。

 

「何を…されるんですか?」

「貴女から、“思い出”を一つ、いただくわ」

 

「え…?」

 

「貴女が救った命一つにつき、貴女の大切な思い出を一つ。それが今回の代償よ」

 

綺蝶の言葉に、みこは絶句した。思い出を奪われる?そんなことが可能なのか。

 

「心配しなくても、命に関わるような記憶は奪わないわ。例えば…そうね。貴女の親友…ハナ、と言ったかしら。彼女と初めて会った日の記憶、とかね」

 

綺蝶は楽しそうに、しかし有無を言わせぬ力で、みこの額に手を置いた。

 

「いや…やめて…!」

 

みこは初めて、本気で抵抗しようとした。綺蝶との身体の関係は受け入れられた。しかし、ハナとの大切な思い出を奪われるのは、耐えられなかった。だが、祭壇に縫い付けられたように身体は動かない。

 

「駄々をこねないの。これは、貴女が自ら招いたことでしょう?」

 

綺蝶の手から、冷たい霊力が流れ込んでくる。みこの意識は急速に遠のき、頭の中に、ハナと出会った小学校の入学式の光景が鮮明に浮かび上がった。緊張していた自分に、太陽のような笑顔で話しかけてくれたハナ。その時の嬉しさ、温かい気持ち…。

 

その光景が、まるで古いフィルムが焼き切れるように、ブツリと途切れた。

 

次に意識が戻った時、みこは祭壇の上で呆然としていた。頭が、少し靄がかかったようにぼんやりとしている。何かが失われたという、漠然とした喪失感だけがあった。

 

「どうかしら?何か、思い出しにくいことはない?」

 

綺蝶が覗き込んでくる。みこは必死に頭を働かせた。ハナは、自分の親友だ。いつからの親友だっけ?小学校から?中学校から?なぜか、出会った瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちていた。気づいたら、隣にいて、笑い合っていた。そんな曖昧な感覚。

 

「あ…あ…」

 

その事実に気づいた瞬間、みこは恐怖に目を見開いた。本当に、思い出が消えている。

 

「ふふ、これで一つ分ね。あと十数個、貴女の大切な思い出をいただかなくては。家族との楽しかった旅行の記憶?初めて自転車に乗れた日の達成感?どれも、貴女という人間を形作る、素敵な思い出でしょうね」

 

綺蝶は、まるで美食家がメニューを選ぶように、楽しげに呟いた。

 

「やめて…!やめてください…!」

「嫌なら、最初からしなければよかったのよ、聖女様?」

 

その日から、みこの地獄が始まった。数日おきに、みこは祭壇へと連れて行かれ、大切な思い出を一つ、また一つと奪われていった。幼い頃の記憶、友人との些細な、しかし温かい記憶、家族との記憶。それらが失われるたびに、みこは自分が自分でなくなっていくような、底知れない恐怖に苛まれた。

 

そして、失われた記憶の空白を埋めるように、綺蝶との記憶だけが、より鮮明に、より重く、みこの中に根を張っていく。

 

みこはもう、人助けなどしなくなった。力の行使を恐れるようになった。しかし、皮肉なことに、思い出を失い、人間としての輪郭が曖昧になるにつれて、彼女の霊的な存在感は増していく。より、綺蝶に近い存在へと変質していったのだ。

 

「ずいぶんと綺麗な色になったじゃない、みこ」

 

ある日、最後の代償を支払い終えたみこに、綺蝶は満足げに言った。みこの瞳からは、かつての人間らしい光が薄れ、どこかガラス玉のような、無機質な美しさが漂っていた。

 

「これで貴女は、過去という名の鎖から解き放たれたわ。貴女を満たすのは、これからわたくしと作る、新しい記憶だけ。…嬉しいでしょう?」

 

綺蝶は、自らの手で完璧な人形を創り上げたことに、この上ない満足感を覚えていた。

 

みこは、何も答えなかった。ただ、空虚な瞳で綺蝶を見つめ返す。彼女の心に残っているのは、断片的な思い出と、そして、綺蝶という絶対的な存在への、恐怖と依存だけだった。

 

この代償は、みこを綺蝶から永遠に離れられなくする、最も強力な鎖となったのだった。

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