もはや、四谷みこの日常から「恐怖」という感情は抜け落ちつつあった。異形の存在は変わらず世界の隅々に蠢いている。しかし、それがみこの心を揺さぶることはない。彼女の心を占めるのは、ただ一つの渇望。綺蝶に会いたい、という焦げるような想いだけだった。
学校の帰り道、わざと霊が集まりやすいじめじめした路地を選ぶことさえある。早く、何か、どうしようもないほどの厄災が自分を襲ってくれればいい。そうすれば、あの人の名を呼ぶ口実ができるから。
その願いが通じたのか、古びた神社の鳥居の下で、それは現れた。嫉妬と怨嗟で黒く染まった女の霊が、みこの肩を掴もうと、歪んだ爪を伸ばしてくる。以前の自分なら絶叫していただろう。だが、今のみこはただ静かに、その瞬間を待っていた。
「綺蝶さん…」
吐息と共に名を紡ぐと、背後からふわりと甘い香りがした。次の瞬間には、温かい腕がみこの身体を背後から抱きしめていた。
「呼んだかしら、わたくしの可愛いみこ」
耳元で囁く声に、みこは安堵のため息を漏らし、その胸に身体を預ける。綺蝶はみこを抱きしめたまま、怨霊に冷たい視線を向けた。
「下衆なものが…わたくしのものに触れようなど、万死に値するわ」
指を鳴らすと、女の霊は悲鳴さえ上げられずに塵と化した。綺蝶はみこをくるりと自分の方に向かせると、その顎をすくい、抵抗する間もなく唇を重ねた。深く、魂を吸い上げるような口づけ。みこはもはやそれに驚きも抵抗も示さない。むしろ、その感覚を全身で味わうように目を閉じた。
唇が離れると、綺蝶は満足そうに微笑む。
「すっかり素直になったわね。良い子だわ」
「綺蝶さん…」
「ええ、対価をいただきましょう。わたくしの屋敷へいらっしゃい」
綺蝶の屋敷の、主の香りだけが満ちる寝室。みこは湯浴みを済ませ、薄い絹の寝間着だけを纏ってベッドに腰掛けていた。綺蝶が隣に座り、みこの髪を優しく梳く。その指使いだけで、みこの身体は甘く痺れていく。
「会えない間、どうしていたの?」
「…ずっと、綺蝶さんのことを考えてました」
「そう…例えば、どんな時に?」
綺蝶の問いかけは、すべてを見透かしているようだった。みこは顔を赤らめながらも、正直に答えるしかなかった。この人の前では、嘘も隠し事も意味をなさない。
「…お風呂に入っている時とか…夜、ベッドの中で…」
一人で慰める時、まぶたの裏に浮かぶのは綺蝶の顔だけだった。その妖艶な微笑み、自分を見つめる熱っぽい眼差し、肌に触れた時の滑らかな感触。綺蝶に抱きしめられ、キスをされ、その身を染められていく自分を想像すると、胸の奥がキュンと甘く痛んだ。
「まあ、いやらしい子。わたくしの顔を思い浮かべて、一人で楽しんでいたのね」
綺蝶は楽しそうに笑い、みこをベッドに押し倒した。見下ろすその瞳は、獲物を前にした獣のように爛々と輝いている。
「ならば今夜は、本物で満足させてあげる。貴女のその身が、心が、わたくし以外の誰にも反応できなくなるまで、たっぷりと愛でてあげるわ」
会えない時に募る恋焦がれるような想いも、会っている時に注がれる独占欲も、みこにとってはすべてが快感に変わりつつあった。自分はもう、この人なしでは生きていけない。その腕の中で、身も心も蕩かされながら、みこは自分の運命を幸福に受け入れていた。