綺蝶の霊力を完全に掌握した翌朝、みこの世界は文字通り一変していた。
通学路で視界に入る異形の者たちは、もはや恐怖の対象ではない。ただの風景の一部であり、時に目障りな虫けらだった。以前のように無視するのではなく、今はその存在をはっきりと認識した上で、意識の外へと追いやることができる。まるで、騒がしい雑音を自然と聞き流すように。
「おはよ、みこ!」
いつものようにハナが駆け寄ってくる。彼女の強大な生命エネルギーは相変わらず眩しいが、今のみこにはそれを不快に感じることなく、むしろ心地よい暖かさとして受け止められた。綺蝶の夜の力と、ハナの昼の力。その両方を肌で感じながら、自分はその境界に立っているのだと、みこは密かに実感していた。
授業中、窓の外の木にぶら下がる、恨みを募らせた霊がじっと教室の中を覗いているのに気づいた。その視線が、ふと自分に向けられる。以前なら息を殺してやり過ごしただろう。だが今は、違った。
みこは誰にも気づかれぬよう、頬杖をついたまま、指先だけで小さな印を結ぶ。すると、指先に宿った微かな霊力が糸のように伸び、窓の外の霊に触れた。霊は感電したようにびくりと震え、慌てて逃げていく。その一連の流れを、みこは表情一つ変えずにやってのけた。
(簡単…)
力が身体に馴染み、呼吸をするのと同じくらい自然に扱えるようになっていた。この全能感は、甘美な麻薬のようだ。そして、この力の源泉である綺蝶への想いは、ますます深く、依存的なものになっていく。
放課後、みこはハナたちとの誘いを断り、一人、街を歩いていた。目的は、綺蝶への「贈り物」を探すためだった。綺蝶は物質的なものを何も欲しがらない。彼女が喜ぶのは、上質で、純度の高い霊的存在。つまり、強力な悪霊だ。
みこは自らの感覚を研ぎ澄まし、街に渦巻く淀んだ気の流れを探る。やがて、古びた雑居ビルの屋上から、ひときわ大きく、邪悪な気配が立ち上っているのを感じ取った。
屋上へ続く階段を上ると、そこには複数の魂を喰らい、肥大化した悪霊が鎮座していた。その姿は醜悪で、並の霊能者では太刀打ちできないだろう。
「ちょうどいいのがいた」
みこが呟くと、悪霊はぎょろりとした目でこちらを睨みつけ、威嚇の声を上げた。だが、みこは怯まない。ゆっくりと悪霊に歩み寄りながら、両手に黒い霊力を集める。その手には、まるで黒い炎のようなオーラが揺らめいていた。
「綺蝶さんへの、お土産になって」
みこが両手を突き出すと、黒い霊力は無数の蝶の形となり、悪霊へと襲いかかった。それは祓うための浄化の力ではない。魂を捕縛し、支配するための綺蝶の力そのものだった。悪霊は断末魔の叫びを上げ、抵抗するが、無数の蝶にその身を覆い尽くされ、やがて手のひらサイズの黒い水晶のような塊へと圧縮されていった。
みこはそれをそっと拾い上げ、満足げに微笑んだ。
その夜、綺蝶の屋敷を訪れたみこは、得意げにその黒水晶を差し出した。
「綺蝶さんへ、プレゼントです」
綺蝶はそれを受け取ると、興味深そうに眺め、やがて楽しそうに笑った。
「まあ、これは上物だわ。貴女が一人で狩ってきたの?」
「はい」
「ふふ、素晴らしいわ、わたくしのみこ。すっかり夜の住人になったようね」
綺蝶は黒水晶を指先で弄びながら、それをあっさりと霧散させた。エネルギーだけを吸収したのだ。そして、みこに向き直ると、その顔を両手で包み込んだ。
「ご褒美をあげなくてはね。最高の獲物を捧げてくれた、わたくしの愛しい女王様に」
綺蝶の瞳が、これまでにないほどの情欲の色を帯びる。
「今夜は、わたくしが貴女に尽くす番。貴女が望むすべてを、わたくしが叶えてあげる。さあ、命令してごらんなさい?このわたくしに、何をさせたい?」
主従の逆転。それは、二人の関係をより深く、倒錯した悦びの境地へと導く、新たなゲームの始まりだった。みこは少し戸惑いながらも、魂の奥が疼くのを感じていた。この絶対的な支配者を、自分が支配できるという背徳的な快感に。
みこは綺蝶の首に腕を回し、その耳元に唇を寄せた。そして、生まれて初めて、自らの欲望を声に乗せた。
「綺蝶さん…わたしのために、鳴いて…?」
その言葉に、綺蝶の瞳が一瞬見開かれ、そして、この上なく妖艶な笑みがその唇に浮かんだ。