綺蝶の言葉は、みこの心に甘い棘となって突き刺さった。「飽きるまでは」という一言が、頭の中で何度も反響する。これまでは、綺蝶の圧倒的な力に身を委ね、彼女の色に染まることに悦びを感じていた。だが今、初めて「捨てられるかもしれない」という恐怖が、みこの魂を冷たく撫でた。
その恐怖は、みこの行動を静かに、しかし確実に変えていった。
学校にいても、友人と話していても、心のどこかで常に綺蝶のことを考えている。どうすれば彼女を飽きさせないでいられるか。どうすれば、彼女にとって唯一無二の存在になれるのか。その思考は、やがてある種の強迫観念へと変わっていった。
「もっと、質の良い“供物”を…」
みこは放課後になると、まるで猟犬のように、より強力で、より邪悪な霊の気配を探して街を徘徊するようになった。以前よりもずっと大胆に、危険な廃墟や曰く付きの土地へと足を踏み入れる。力の使い方も、より効率的で、より冷酷なものになっていた。
ある日、みこは古い病院の跡地で、これまで遭遇した中でも最大級の悪霊と対峙した。それは、この場所で無念の死を遂げた多くの患者や医師の怨念が凝り固まった、おぞましい集合体だった。並の霊能者なら、その気配だけで発狂しかねない。
「あなたなら、きっと綺蝶さんも喜んでくれる」
みこは微笑みながら、両手に黒い霊力を集束させる。激しい戦闘の末、みこは全身傷だらけになりながらも、ついにその悪霊を黒い水晶へと封じ込めることに成功した。疲労困憊だったが、その手の中にある禍々しい輝きを見て、みこは満たされた気持ちで笑った。
その夜、意気揚々と綺蝶の屋敷を訪れたみこは、しかし、玄関先で足を止めた。屋敷の中から、綺蝶のものではない、別の女の声が聞こえてきたからだ。それは、みこの知らない、艶やかで落ち着いた大人の女性の声だった。
「――だから言ったでしょう、綺蝶。あまり下々の者に構いすぎると、つまらない情が湧くわよ」
「あら、これはただの気まぐれよ、翡翠(ひすい)。それに、この玩具はなかなかどうして、私を楽しませてくれる」
綺蝶の楽しそうな声。そして「翡翠」と呼ばれた女の、自分を「玩具」と断じる言葉。みこの心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。
そっと扉の隙間から中を覗くと、そこには綺蝶と、彼女に劣らずミステリアスな雰囲気を持つ、緑色のチャイナドレスを着た美女が、優雅に茶を飲んでいる姿があった。二人の間には、みこが決して立ち入れないような、長い年月をかけて築かれた親密な空気が流れている。
「あら、噂をすれば」
翡翠が、ふと扉の方に視線を向けた。その目は、みこの存在を完全に見抜いていた。
「入りなさい、みこ。ちょうど良いところに来たわ。こちらは翡翠。わたくしの、古くからの友人よ」
綺蝶に促され、みこは硬い足取りで部屋に入る。翡翠は品定めするような目で、みこを頭のてっぺんから爪先まで眺めると、ふっと鼻で笑った。
「これが例の“人形”ね。ふうん、まだ子供じゃない。けれど、面白い魂の色をしているわ。貴女の色に、必死に染まろうとしているのが健気で可愛いわね」
その言葉は、みこのプライドを容赦なく踏みにじった。そして何より、綺蝶が自分のことを、他の女に「玩具」「人形」と話していたという事実が、みこの胸に激しい痛みを走らせた。
「綺蝶さん、これ…」
みこは震える手で、懐から黒い水晶を取り出した。今日、命がけで手に入れた最高の供物。しかし、綺蝶はそれを一瞥しただけで、特に興味も示さずに言った。
「ああ、ご苦労さま。そこに置いておいてちょうだい」
その無関心な態度が、みこの心の最後の糸を断ち切った。黒く、どろりとした感情が、腹の底から湧き上がってくる。嫉妬。それは、綺蝶から与えられたどんな快楽よりも強く、みこの魂を揺さぶる毒だった。
(わたしだけじゃ、ないんだ…)
(綺蝶さんには、わたしがいなくても…)
翡翠は、そんなみこの心の変化を面白そうに観察している。
「あらあら、可哀想に。お気に入りの座を奪われると思って、嫉妬しているのかしら?可愛いわねえ」
その言葉に、みこの中で何かが弾けた。無意識のうちに、その手に黒い霊力が集まる。その矛先は、翡翠に向けられていた。
「あら、やる気?」
翡翠が面白そうに目を細めた、その瞬間。
パァン!
乾いた音と共に、みこの頬に衝撃が走った。綺蝶が、いつの間にかみこの隣に立ち、その頬を平手で打ったのだ。
「…みこ。誰に牙を剥こうとしているのか、わかっているのかしら?」
綺蝶の声は、絶対零度の氷のように冷たかった。それは、これまでみこが一度も聞いたことのない、本物の怒気を含んだ声だった。
みこは、打たれた頬の痛みよりも、綺蝶のその声と瞳に、全身の血が凍りつくのを感じた。