絶対零度の声と、燃えるような頬の痛み。みこは、生まれて初めて綺蝶に向けられた明確な拒絶と怒気に、思考が完全に停止した。目の前の綺蝶が、ひどく遠い存在に感じられる。
「…躾が足りなかったようね」
綺蝶は冷たく言い放つと、みこの腕を掴み、半ば引きずるようにして客間から連れ出した。背後で、翡翠がくすくすと楽しそうに笑う声が聞こえる。それが、さらにみこの心を惨めにさせた。
寝室に連れ込まれ、乱暴にベッドへと突き飛ばされる。みこはただ、打たれた頬を押さえ、呆然と綺蝶を見上げるだけだった。恐怖で、声も出ない。
「わたくしに逆らうならまだしも、わたくしの客人に牙を剥くとはね。ずいぶんと偉くなったものだわ、わたくしの人形は」
綺蝶は見下ろしながら、その瞳にはまだ冷たい怒りの色が宿っていた。しかし、みこの瞳からぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙と、怯えきった小動物のような姿を見ているうちに、その怒りがほんの少しだけ、和らいでいくのを彼女自身が感じていた。
(…少し、やりすぎたか)
嫉妬に狂う様は見ていて愉しかったが、ここまで壊れそうな表情をさせるつもりはなかった。せっかく手塩にかけて育てた、面白い玩具だ。完全に壊してしまっては、つまらない。綺蝶の心に、ほんの微かな後悔にも似た感情が芽生える。
「…顔を上げなさい」
命令され、みこはびくびくと顔を上げる。綺蝶はベッドに腰かけると、みこの赤い頬にそっと指を触れさせた。その指先は、意外なほど優しかった。
「痛む?」
「…っ」
みこは声にならない嗚咽を漏らしながら、小さく頷く。そのあまりに健気な姿に、綺蝶は思わず小さなため息を漏らした。
「翡翠は、わたくしにとって特別なの。何百年という時を共にしてきた、唯一無二の存在。貴女が嫉妬でどうこうできる相手ではないわ」
諭すような、しかし有無を言わせぬ響き。
「貴女は貴女。わたくしが今、最も気に入っている可愛い人形。…それだけでは、不満かしら?」
綺蝶はそう言うと、みこの涙を指で拭い、その濡れた唇に、自らの唇を重ねた。それは、いつものような情熱的なものではなく、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、慰めるような口づけだった。
霊力が、甘い蜜のように流れ込んでくる。それは、傷を癒し、恐怖を和らげる、慈愛に満ちた力だった。みこは、その温かさに戸惑いながらも、縋るように綺蝶の服を掴んだ。
「…ごめんなさい…ごめ、なさい…」
「もういいわ」
綺蝶はみこを優しく抱きしめた。その胸の中で、みこは子供のように声を上げて泣いた。嫉妬の苦しみも、叩かれた痛みも、突き放された恐怖も、すべてが涙となって溶けていく。
(面倒な感情を覚えさせたものだわ)
綺蝶はみこの髪を撫でながら、内心で独りごちる。だが、この面倒くささもまた、これまでのどんな玩具にもなかった新しい刺激だった。嫉妬に狂う様も、こうして腕の中で無防備に泣きじゃくる様も、どちらも綺蝶の独占欲を静かに満たしていく。
「今夜はもうお帰りなさい。その顔では、わたくしも愉しめない」
「…嫌です」
みこは、綺蝶の胸に顔を埋めたまま、か細く、しかしはっきりと呟いた。
「ここに、いたい…綺蝶さんの、そばに…」
その言葉に、綺蝶は少し驚いたように目を見開いた。そして、たまらなく愛おしいという感情が、胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。
「…仕方のない子ね」
綺蝶は観念したように微笑むと、みこの身体を抱え上げ、ベッドの奥へと横たえた。
「ならば、今夜は何もせず、ただこうして側にいてあげる。貴女の魂が落ち着くまで、わたくしの腕の中で眠りなさい」
それは、これまでで最も優しい「お仕置き」だった。罰として与えられたはずの平手打ちの痕は、今や、自分だけが綺蝶の特別な感情を引き出した証のようにも感じられた。
みこは、綺蝶の心音がすぐそばで聞こえるのを感じながら、安堵の中でゆっくりと意識を手放していく。この冷酷で気まぐれな支配者の、ほんの少しの優しさ。それだけで、自分はどこまでも堕ちていけるのだと、みこは蕩けるような心地よさの中で確信していた。