綺蝶の腕の中で眠り、目覚めた朝は、嵐の後の凪のように静かだった。隣にはもう綺蝶の姿はなかったが、彼女の香りがシーツに深く染み込んでいて、それがみこの心を不思議と落ち着かせた。赤く腫れていた頬の痛みは、綺蝶の霊力によって跡形もなく消えている。しかし、肌を打たれた感触と、魂が凍るようなあの冷たい声の記憶は、消えずに残っていた。
それは、みこにとって新たな「境界線」となった。綺蝶が何を好み、何を許さないのか。その輪郭が、昨夜の一件ではっきりと身体に刻み込まれたのだ。
学校へ向かう道すがら、みこは自分の変化に気づいていた。以前は綺蝶を独占したいという漠然とした欲望があった。だが今は違う。独占したい、というよりは、「綺蝶にとって最も価値のある所有物でありたい」という、より具体的で切実な願いに変わっていた。
翡翠という存在は、乗り越えるべき壁ではない。綺蝶の世界における、侵してはならない聖域。そして自分は、その聖域の外で、誰よりも綺蝶を楽しませ、彼女の渇きを癒す最高の「玩具」でなければならない。そのための努力なら、いくらでもできる。そう思うと、昨日までの嫉妬の苦しみは、奇妙な使命感へと昇華されていた。
放課後、みこは再び強力な霊を探して街を歩いた。しかし、その目的は昨日とは異なっていた。ただ闇雲に強力なものを狩るのではない。綺蝶が好みそうな、より純粋で、より癖のある魂を探す。それはまるで、美食家の恋人のために、最高の食材を探し求めるような行為だった。
数日後、みこはとある美術館に、美しいが故に人に取り憑き、その生気を少しずつ吸い尽くすという、古い絵画に宿った女の霊を見つけ出した。力はそれほど強大ではないが、その気質はひどく気位が高く、芸術的で、そしてどこか退廃的な美しさを持っていた。
(これなら、きっと…)
みこは、その霊を傷つけないように、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に捕縛し、小さなアンティークのコンパクトミラーに封じ込めた。
その夜、綺蝶の屋敷を訪れると、彼女は一人で窓辺に座り、月を眺めていた。
「綺蝶さん」
「あら、来たのね」
綺蝶は振り返り、その視線は穏やかだった。みこは緊張しながらも、コンパクトミラーを差し出した。
「これを、貴女に」
綺蝶はそれを受け取ると、蓋を開けた。中から、美しい女の霊がふわりと現れ、綺蝶を見て驚いたように目を見開く。
「これは…なかなか雅な魂ね。どうやって見つけたの?」
「この霊なら、貴女が気に入ってくれるかと思って」
みこの言葉に、綺蝶は少し驚いたように目を瞬かせた。そして、目の前の少女が、あの夜を境に確かに変質したことを悟る。嫉妬に狂うだけの子供ではない。自分の好みを理解し、それに完璧に応えようとする、従順で、しかし恐ろしく利口な人形へ。
「…ええ、気に入ったわ」
綺蝶は満足げに微笑むと、女の霊を再びコンパクトに吸い戻した。そして、みこの前に立つと、先日叩いたのとは反対の頬を、優しく、慈しむように撫でた。
「よくできました、わたくしのみこ。良い子には、褒美をあげなくてはね」
その言葉は、以前の遊戯じみた響きとは違っていた。まるで、見込みのある弟子を認める師のような、あるいは、手のかかる愛しいペットを躾ける飼い主のような、複雑で深い響きがあった。
「貴女は、わたくしが何に価値を見出すのか、少し理解し始めたようね。よろしい。ならば、もっと教えてあげるわ。この世の真の美しさと、快楽の本当の深さを」
綺蝶はみこを抱き寄せると、深く、濃密な口づけをした。それは、躾の後のご褒美であり、新たな関係の始まりを告げる契約の証だった。
みこは、もはや嫉妬に苦しむことはないだろう。その代わりに、彼女はより洗練された渇望を抱くようになった。綺蝶の唯一無二にはなれない。だが、彼女にとっての「最高傑作」になることはできる。
その歪んだ献身こそが、みこをさらなる快楽の深淵へと誘っていく。そして綺蝶もまた、自らの理想通りに染め上げられていく少女の姿に、これまでにないほどの満足感と、そして微かな、育て上げたものへの愛着のようなものを感じ始めていることには、まだ気づいていなかった。