ざわめきと排気ガス、様々な匂いが混じり合ういつもの帰り道。
四谷みこは、今日の放課後も無事に乗り切れたことに、ささやかな安堵を覚えていた。リュックのショルダーベルトをぎゅっと握りしめ、家路を急ぐ。
(今日も何も見なかった、何もいない、大丈夫、大丈夫…)
それは祈りであり、自己暗示だ。この世界に蔓延る“ヤバい”存在から身を守るための、彼女だけの処世術。視界の端にどれだけ異様な影が映ろうと、決して視線を合わせず、意識を向けず、ただの染みか何かだと思うようにする。そうすれば、大抵の場合はやり過ごせる。
人波に紛れ、駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしていた、その時だった。
ふと、雑踏の音が遠のいた。いや、音が消えたわけじゃない。ただ一点、すべての音と色を吸い込むような存在が、みこの目に飛び込んできたのだ。
交差点の向こう側、人々の間に立つ、一人の女。
光を受けて白磁のように滑らかな肌。濡れたように艶めき、鮮烈な印象を与える真っ赤な唇。風に揺れる髪は、まるで濡れたカラスの羽のように深い黒。
そして、何よりも―――瞳。
夕陽を受けているわけでもないのに、その瞳は内側から発光しているかのように、淡い金色に輝いていた。
(きれい…)
思わず、心の声が漏れた。
神様が丹精込めて作り上げた芸術品。そんな陳腐な言葉では足りない。常軌を逸した、この世のものとは思えないほどの美しさだった。周囲の人間たちが、色褪せた背景のように見えてしまうほどに。
みこは、文字通り見惚れていた。鼓動が早鐘を打ち、呼吸すら忘れる。
ヤバい、と頭の警鐘が鳴り響いたのは、その金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを捉えた瞬間だった。
違う。あれは人じゃない。
本能が、経験が、絶叫する。美しい姿形に騙されるな。あれはこれまで見てきたどんな化け物よりも、格が違う。危険だ。
みこは慌てて視線を逸らし、俯いた。心臓が喉から飛び出そうだ。
(見てない、見てない見てない見てない!私は何も見てない!ただの綺麗な人!いや人じゃないけど!とにかく私には関係ない!)
いつものように鉄壁の無関心を装う。信号が青に変わる。みこは周りの人々に合わせて、足早に横断歩道を渡り始めた。
すれ違う。それで終わりだ。お願いだから、通り過ぎてくれ。
しかし、その願いは無慈悲に打ち砕かれた。
ふわり、と甘く、それでいてどこか背徳的な花の香りが鼻腔をくすぐる。
すぐ隣に、あの女が並んでいた。
みこは決して顔を上げない。歩く速度も変えない。ただ、背中を冷たい汗が伝っていくのを感じていた。
やがて、陶器のように冷たい指先が、みこの肩にそっと触れた。
「―――っ!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。身体が氷のように強張る。
女の指は、みこの肩から首筋をなぞり、やがてリュックからはみ出た髪を一房すくい上げた。指先で弄ぶように、ゆっくりと。
やめて、やめてください、ごめんなさい。
心の中で繰り返すが、唇は震えるばかりで音にならない。ここで反応すれば終わりだ。この美しい化け物が、自分に害意を持っているかは分からない。でも、関わってはいけないことだけは確かだ。
みこが必死に恐怖を押し殺していると、女はさらに身体を寄せてきた。
耳元に、熱を持った吐息がかかる。
「……見えてるんでしょ?」
囁きは、蜜のように甘く、そして絶望的な響きをしていた。
みこの全身から、一瞬で力が抜ける。
「嬉しい」
金色の瞳がすぐ側で細められるのを、視界の端で捉えてしまった。
その表情は、ずっと欲しかったおもちゃを見つけた子供のように、無邪気で、そして残酷な喜びに満ちていた。
ああ、終わった。
みこは、これまでのルールが一切通用しない、新たな恐怖の始まりを悟った。