女の底知れない独占欲に内心で慄きながらも、私の日常は続いていく。
そして、その日常に、また新たな、そしてタチの悪い変化が訪れた。
しゃこ、しゃこ。
朝の歯磨きを終え、私は無意識に身構えていた。いつもの長いキスが来る、と。身体が、唇が、もうそれを予期してしまっている。
しかし、背後から抱きしめてきた女は、ふい、と顔を逸らした。
そして、私の唇のすぐ横、ほんの数ミリずれた頬の肌に、ちゅ、と子供にするような軽いキスを落としただけだった。
「え?」
思わず、声が漏れた。拍子抜けとは、まさにこのことだ。
私が呆気に取られていると、女は私の顔を覗き込み、全てお見通しだと言わんばかりに、金色の瞳を細めてニヤニヤと笑った。
その意地の悪い笑顔を見て、私は悟った。これは、嫌がらせだ。
その日、女の奇妙な「焦らし」は一日中続いた。
学校の休み時間、トイレに続く廊下で、突然壁に押し付けられる。背後から抱きしめられたり、制服の上から身体を撫でられたりするのとは違う、正面からの、逃げ場のない拘束。
女の顔がゆっくりと近づいてくる。濡れたように艶めく唇、吐息がかかるほどの距離。私は目を閉じて、来るべき衝撃に備えた。
しかし、何も起こらない。
おそるおそる目を開けると、女は唇と唇が触れ合う寸前のところで動きを止め、私の反応を楽しんでいた。そして、私が何か言う前に、ふっと身体を離す。
これを、何度も、何度も繰り返された。
最初は「キスされないだけマシ」「清々する」と思っていた。
でも、次第に、私の心はかき乱され始めた。
触れそうで、触れない。
与えられそうで、与えられない。
そのじりじりとした距離感に、無意識にキスを「待ってしまっている」自分がいることに気づいてしまった。もどかしさと、どうしようもない焦燥感が胸の中に渦巻く。
ハナと他愛ない話をしている時でさえ、女の意地悪は続いた。
私の顎にそっと手をかけ、唇を奪う寸前まで顔を近づける。そして、ハナに気づかれない角度で、私の耳元に悪魔のように囁くのだ。
「我慢できる?」
その声に、背筋がぞくりとした。
これは、ただの嫌がらせじゃない。
放課後、一人になった帰り道、私は必死に自分の感情を整理しようとした。
なんで私はキスされないことにもやもやしてるんだ? されない方がいいに決まってるのに!
その答えは、考えたくなくても、分かってしまった。
これは、犬の躾と一緒だ。
「お手」や「待て」を覚えさせ、ご褒美をちらつかせて、自分の思い通りに動かすための「調教」。
これまで散々、快楽という名の餌を与え、私の身体をそれに慣れさせた。そして今、その餌を意図的に断つことで、私が自ら「キスして」と求めるように仕向けているのだ。
(悪霊だ…)
全身に、鳥肌が立った。
底知れない悪意と、狡猾な計算高さ。この女は、ただ欲望のままに私を貪っているわけじゃない。私の心を、意思を、完全に支配し、屈服させようとしている。
(絶対に、絶対に、自分から求めてなんかやるもんか…!)
私は固く、固く決意した。
この屈辱的なゲームに乗ってたまるか。絶対に、負けない。
自室に戻り、重い足取りでベッドに向かう。
部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。すぐに、女が隣に入ってくる気配がする。
今夜は、きっと長い夜になる。
私のちっぽけなプライドと、この人外の化け物との、我慢比べの始まりだ。
闇の中で、女はいつものように私の上に覆いかぶさってきた。
しかし、その唇は私を求めない。代わりに、冷たい指先が、私のパジャマのボタンをゆっくりと一つずつ外していく。
はだけさせられた肌に、女の吐息がかかる。
「今夜は、みこの身体の声だけを聴いてあげる」
その囁きは、今夜の責め苦の始まりを告げていた。
女の指と舌は、いつも以上に執拗に、私の身体の隅々を愛撫し始めた。
鎖骨を舐められ、胸の膨らみを揉みしだかれ、脇腹をくすぐられる。身体は正直に反応し、甘い疼きが全身を駆け巡った。
「ん…っ、ぁ…」
声が漏れる。でも、女は決して私の唇には触れてこない。
何度も、何度も、快感の頂点へと追い詰められる。
身体がびくんと跳ね、絶頂を迎えそうになる、その寸前。
ぴたり、と女の動きが止まるのだ。
荒い息だけがシーツに落ちる。熱を持て余した身体が、次の刺激を待ちわびてしまう。その浅ましさに、涙が出そうになる。
そして、私が少し落ち着きを取り戻すと、また、執拗な愛撫が再開される。
寸止めの、無限地獄。
「どうしたの、みこ。息が上がってるよ」
女の声は、どこまでも楽しそうだ。
「何が、欲しいの?」
その問いに、私は唇を固く結んだ。絶対に、言うもんか。絶対に、お前の思い通りになんてなるものか。
私の意地を感じ取ったのか、女は楽しそうに喉を鳴らした。
そして、その指先が、私の最も濡れて熱くなった場所へと滑り込んできた。
「いやっ…!あ、ぁああ…っ!」
花弁を直接なぞられ、私のちっぽけな抵抗など、いとも容易く吹き飛んでいく。
それでも、私は最後のプライドを懸けて、懇願の言葉だけは飲み込んだ。
しかし、身体はもう限界だった。
女は私の反応をじっくりと観察し、私が一番感じている場所を、的確に、しかし絶頂させない絶妙な力加減で弄び続ける。
焦らしと寸止めの責め苦に、私の理性は少しずつ削り取られ、溶けていく。
もう、無理だった。
「…っ、…き、す…」
声にならないような、か細い囁き。
「ん? なあに、みこ。聞こえないな」
分かっているくせに。
この悪魔。悪霊。
悔しさと、屈辱と、そして抗えない欲望に、涙が頬を伝った。
私は、観念した。
「……きす、して……ください……っ」
ついに、その言葉を口にしてしまった。
負けたのだ。完全に。
その瞬間、私を見下ろしていた女の顔に、これまでで一番美しい、満足に満ちた笑みが浮かんだ。
「よくできました」
その言葉は、まるで飼い主がペットを褒めるように、残酷なほど優しかった。
そして、待ち望んでしまった唇が、ようやく私の上に降ってくる。
それは、これまでで最も深く、甘く、全てを奪い去るような支配的なキスだった。
そのキスと同時に、女の指が私の中を強く、深く抉る。
「んんんんッ!」
唇を塞がれたまま、私は絶頂の奔流に飲み込まれた。
身も心も、完全に降伏させられた。
この女には、もう、逆らえない。
遠のく意識の中、耳の奥にこびりついていたのは、ただ、女の満足げな囁きだけだった。