昨夜の、あのネクタイが肌に擦れる感触が、まだ手首に残っている気がする。
心も身体も、鉛のように重い。
これまで散々、好き放題にされてきたけれど、昨夜の出来事は、私のちっぽけなプライドを根こそぎへし折るには十分すぎた。
もう、この人外の化け物に、私は逆らえないのかもしれない。
そんな無力感に苛まれながら、私はとぼとぼと帰り道を歩いていた。
(……このままじゃ、ダメだ)
このまま流されて、飼いならされて、心が死んでしまう。
せめて、何か一つでも。
この女の支配の外にある、私だけのものを。
そんな、ほとんど祈りに近い思いで、私はふらりとコンビニの明かりに吸い寄せられた。
目的は、デザートコーナー。
その一角に、それはあった。
少しお高めの、とろりとしたカラメルソースが特徴の「とろ蜜プリン」。
子供の頃から、何か良いことがあった日にだけ食べられた、私にとっての特別なご褒美。
私はそれを一つ、震える手で掴んだ。
これだけは、私のもの。
この女のためじゃない、私のための、私だけのささやかな幸せ。
そう、心の中で何度も繰り返しながら、私はレジへと向かった。
家に帰り着くと、お母さんや恭介に見つからないように、私は泥棒のように素早く階段を駆け上がり、自室へとプリンを持ち込んだ。
ドアに鍵はかけられない。でも、今は女も静かに私の後ろにいるだけだ。
私は机の椅子に座り、ゆっくりとプリンの金の蓋を開けた。
ふわりと広がる、甘いバニラと、ほろ苦いカラメルの香り。
スプーンですくい、一口、口に運ぶ。
とろり、と舌の上で溶けていく濃厚なカスタード。追いかけてくる、香ばしいカラメルの苦み。
おいしい。
その味は、強張っていた私の心を、ほんの少しだけ解きほぐしてくれた。
ほんの一瞬、この部屋にいる化け物の存在を忘れられる、至福の時間。
あっという間に食べ終えた私は、名残惜しさを感じながらも、空の容器をそっとゴミ箱へと捨てた。
その様子を、背後の女がどんな瞳で見ていたのか。
この時の私には、知る由もなかった。
風呂から上がり、パジャマ姿で部屋に戻る。
そして、私は目の前の光景に、息を呑んだ。
机の上。
私が先ほど捨てたはずの、プリンの空き容器が一つ。
そして、その隣に。
まるで供物のように、まだ誰も開けていない、新品の「とろ蜜プリン」が、いくつも、いくつも、綺麗に並べられていた。
一つや二つではない。十個は軽く超えているだろう。
異様で、狂気じみた光景に、全身から血の気が引いていく。
ベッドの上には、女が座っていた。
そのうちの一つを手に取り、私ににっこりと、無邪気に微笑みかける。
「みこ、これ、好きなんでしょ?」
金の蓋が、ゆっくりと開けられる。私が先ほど味わったばかりの、甘い香りが、今度は部屋中に絶望の匂いとして充満していく。
女はプラスチックのスプーンでプリンをすくった。
しかし、そのプリンを自分の口に運ぶことはない。
「たくさん用意したよ。一緒に、もっと美味しく味わおうね」
その言葉と共に、女はプリンを乗せたスプーンを、私の胸元へと、ゆっくりと、ゆっくりと近づけていく。
私だけのささやかな抵抗。
私だけの小さな幸せ。
それが今、最もおぞましく、背徳的な儀式の道具へと姿を変えた。
ああ、この女の前では、私が「好き」だと感じたもの全てが、私を嬲るための凶器になるのだ。
逃れられない甘い絶望に、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
女はプリンを乗せたスプーンを、ゆっくりと私の胸元へと近づけてくる。
私は後ずさろうとしたが、足が床に縫い付けられたように動かない。
「や…やめて…」
か細い懇願は、女の耳には届かなかった。
スプーンが、くい、と傾けられる。
ひやりとした感触。
とろりとしたカスタードが、私の鎖骨の窪みに溜まり、そのままゆっくりと胸の谷間へと流れ落ちていく。
「ひっ…!?」
甘いカラメルの香りが、私の体温で温められて立ち上る。
それは、冒涜の匂いだった。
「やめて! 食べ物をそんなことに使わないで…!」
私の悲鳴は、女の嗜虐心を煽るだけのスパイスにしかならない。
女は楽しそうに目を細めると、今度はスプーンを使わず、容器から直接、プリンを私の身体に垂らし始めた。
お腹に、太腿に、そして足先にまで。
冷たくて甘い液体が、肌を伝い、パジャマの生地に染みを作っていく。
その光景は、あまりにも倒錯的で、狂っていた。
「もったいないよ、みこ。だって、あなたの好きなもので、あなたの身体が満たされていくんだから」
女はうっとりとした声で言うと、四つん這いになり、私の足元から、その「デザート」を味わい始めた。
足の甲に垂れたプリンを、舌でぺろりと舐めとる。
「ん…おいしい。みこの肌と混ざって、もっと美味しくなったよ」
その言葉に、全身の血の気が引いた。
嫌悪感で吐き気がする。罪悪感で胸が張り裂けそうだ。
しかし、そんな私の心情を嘲笑うかのように、女の舌が私の肌を這い始めた。
冷たいプリンの感触と、生々しい舌の熱。その温度差が、私の肌の感覚を狂わせる。
立ち上る甘い香りと、女の舌が肌を舐め上げる卑猥な音。
それらが混じり合った、未知の刺激が私の身体を貫いた。
「いや…っ、あ…」
身体が、勝手に震える。
女はゆっくりと、まるで巡礼の道を辿るかのように、私の身体に塗られたプリンを舐め上げていく。
太腿の内側を舐められた時、私の腰は大きく跳ねた。
お腹の窪みに溜まったカラメルソースを舌で掬われた時、甘い喘ぎが漏れ出た。
そして、ついに。
女は最後のプリンを手に取ると、その中身の全てを、私の脚の間に、無慈悲にぶちまけた。
「あ…ああ…っ!」
最も柔らかな場所に、冷たくて甘い塊が塗りたくられる。
その不快で、あまりにも卑猥な感触に、涙が溢れた。
「ここが、一番甘そうだね、みこ」
悪魔の囁き。
女はそこに顔を埋め、執拗に、丹念に、私の一番好きなものを、私の一番感じやすい場所で、味わい尽くし始めた。
自分の「好き」という感情の象徴が、今、私を最も辱める快楽の源泉になっている。
その耐えがたい矛盾に、私の思考はぐちゃぐちゃに掻き乱され、崩壊していく。
「あああああーーーーーッ!」
強烈な背徳感と、それに比例するように増していく快感の波。
もう、何も考えられない。
私は、自分のお気に入りのプリンの味に塗れながら、その甘さに溺れるように、絶頂した。
意識が途切れる最後の瞬間、私の鼻腔をくすぐったのは、甘ったるいカラメルの香りと、汚されてしまったという、深い、深い絶望の匂いだった。