最近、女は静かだ。
もちろん、背後から抱きしめられたり、不意にキスされたりという日常は変わらない。
ただ、朝食の時、私が牛乳をごくごくと飲んでいる時も、食後にヨーグルトを食べている時も、女は何もせず、ただじっと、私の様子を観察しているだけだった。
その視線に、私はすっかり慣れてしまっていた。「また見てるな」くらいにしか思わず、それが、この人外による私の嗜好の、緻密な「データ収集」であることなど、知る由もなかった。
その日の昼休み。
ハナと一緒に、人でごった返す購買へと向かう。新商品がいくつも並ぶ中、私は冒険を避けて、いつも買っている無難な焼きそばパンに手を伸ばそうとした。
その、瞬間。
「待って。そっちじゃない」
背後から、女が低い声で囁いた。そして、私の手を掴むと、まるで操り人形のように動かし、少し変わった新作のパンへと導く。
パッケージには「とろーり半熟卵のカルボナーラ風パン」と書かれている。
いかにもカロリーが高そうで、当たり外れが大きそうな、普段の私なら絶対に選ばないタイプの商品だった。
「え、何で? 私これ食べたことないし、好みじゃないかも…」
戸惑う私に、女は有無を言わさぬ、奇妙な自信に満ちた口調で断言した。
「こっちの方が、絶対にみこは好きだよ」
その妙な迫力に押され、私はなぜか逆らえず、言われるがままにそのパンをトレイに乗せてしまった。
教室に戻り、席について、半信半疑でそのパンの袋を開ける。
そして、一口、かじってみた。
―――衝撃だった。
ふんわりとしたパン生地の中から、とろりと溢れ出すクリーミーなソース。卵のまろやかさとベーコンの塩気、そして鼻に抜ける黒胡椒の絶妙なアクセント。
それは、これまで食べたどのパンよりも、私自身の好みのど真ん中を、完璧に射抜く味だった。
「なにこれ…めちゃくちゃ美味しい…!」
思わず心の声が漏れる。夢中でパンを頬張る私の横で、女は「ほらね」とでも言いたげに、満足そうに微笑んでいた。
その笑顔を見て、私の背筋はぞくりと凍りついた。
偶然じゃない。
この女は、私自身よりも、私の「好き」という感覚を、正確に理解している。
その事実に、言いようのない不気味さがこみ上げてきた。
帰り道、女は楽しそうに「ほらね、私の言った通りだったでしょ?」と囁く。
そして、住宅地に新しくできたお洒落なカフェを指さした。
「あそこの新作の『焦がしキャラメルと岩塩のフラッペ』、きっとみこは好きだよ。飲んでみない?」
「……っ」
反発したい。「あなたの言うことなんて聞かない」と。
でも、昼間の、あの衝撃的な美味しさが脳裏から離れない。この女の言う通りにすれば、またあの「幸福な味」に出会えるかもしれない。
その甘い誘惑に、私の足は縫い付けられたように動かなくなってしまった。
「……別に、あんたのためじゃないから。私が、ちょっと気になっただけだから」
そう、誰に言うでもない言い訳を呟いて、私は結局、そのカフェのドアに自ら手をかけていた。
注文したフラッペは、案の定、香ばしいキャラメルの甘さと、後味を引き締める岩塩のしょっぱさが完璧なバランスで、私の好みに完全に合致していた。
美味しい。幸せだ。
でも、その幸福感と同時に、とてつもない恐怖が私を襲った。
女に指示されることで、最高の「好き」に出会える。
この甘い罠に、私はもう、自ら飛び込んでしまっている。これは、自分の味覚を、幸福の基準そのものを、この人外に明け渡してしまうことと同じじゃないのか。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
今日一日の出来事を思い返し、私は混乱していた。じんわりとした幸福感と、それを上回る底知れない恐怖。
そんな私の隣に、女は優しく横たわり、労わるように私の髪を撫でた。
「みこが何が好きか、私は全部知ってるよ。食べ物も、飲み物も…」
そして、妖しく、蠱惑的に微笑むと、私の耳元に唇を寄せた。
「―――もちろん、身体の『好き』もね」
「私が一番気持ちいいと思うやり方で、今夜も愛してあげる。だって、私はみこのこと、みこ以上に分かっているんだから」
その言葉に、もはや抵抗の意志は湧いてこなかった。
自分の好みも、快感の在り処も、全てこの人外に握られている。
その絶対的な支配を前に、私はただ、身を委ねるしかないのだと悟った。
女は私の上に覆いかぶさると、宣言通り、私の身体が最も「好き」な場所だけを、的確に、そして執拗に攻め始めた。
それは、まるで私の身体の設計図を熟知しているかのような、精密で無駄のない愛撫だった。
まず、耳からだった。
私が耳の裏を撫でられるのが好きだと、いつ学習したのだろう。
女の指先が、そこをくすぐるように、しかし確実に快感を呼び起こす絶妙な力加減でなぞる。
「ひっ…ぁ…」
いきなり弱いところを突かれ、私の身体はびくんと跳ねた。
次に、腰。
私が腰骨の少し上、くびれのあたりを優しく撫でられると力が抜けてしまうことを、この女は知っていた。
手のひら全体で、そこをじんわりと温めるように撫で回される。抵抗しようにも、腰から力が抜け、身体がシーツに沈み込んでいく。
「ほらね、ここ、好きでしょ?」
楽しそうな声が、私の理性を麻痺させていく。
そして、女の唇と舌は、私が最も感じやすいポイントだけを渡り歩くように、移動していく。
鎖骨の窪みでも、胸の頂点でもない。その少しだけ外側。
内腿でも、膝の裏でもない。その間にある、何でもないはずの場所。
私自身ですら、そこが自分の性感帯だと、今まで意識したこともなかった。
しかし、女がそこを舐め上げるたびに、私の身体は正直に、これまで以上の熱を帯びて反応してしまう。
「んんっ…ふ、ぁう…なんで、そこ…」
「みこが、ここを触ってほしがってるからだよ」
違う。そんなこと、望んでない。
そう叫びたいのに、身体は歓喜の悲鳴を上げている。
自分でも知らなかった、自分自身の「好き」を、この人外によって無理やり暴かれ、教え込まれていく。
その屈辱と、抗いがたい快感。
思考はぐちゃぐちゃになり、もう、何が本当の自分で、何が女に与えられた快感なのか、区別がつかなくなっていた。
そして、ついに女の指先は、私の最も柔らかな場所へと到達した。
しかし、女はすぐには触れない。
その周辺を、私が最も焦れるリズムで、円を描くようになぞるだけ。
「あ…っ、はやく…」
無意識に、懇願の言葉が漏れる。
自分の快楽の在り処を正確に把握され、それをちらつかされる苦しみ。
もう、いっそ早く、この女に貫いてほしい。そう願ってしまっている自分がいた。
「みこは、ここを、こうされるのが一番好きなんだよね」
その言葉と同時に、女の指は、これまでとは全く違う角度と深さで、私の最も感じやすい一点を、的確に、強く、刺激した。
それは、私が無意識の内にずっと求めていた、完璧な快感だった。
「あああああああーーーーーッ!」
脳髄が痺れるような、圧倒的な絶頂。
視界が真っ白に弾け、思考が完全に停止する。
これまでのどんな快感とも違う。「最適化」された、私のための快楽。
その快感は、同時に、私の自我が完全にこの人外の支配下に置かれたことを意味していた。
意識が途切れる寸前、私は悟った。
もう、この女から逃れることはできない。
私の「好き」は、全部、この女のものになってしまったのだから。