最近、私はこの人外の化け物との付き合い方を、ほんの少しだけ掴みつつあった。
その朝も、一つの発見があった。
私が洗面所で髪を結ぼうと、お気に入りの、小さな星のチャームがついた新しいヘアゴムを手に取った時のことだ。
背後から私を抱きしめている女の視線が、そのヘアゴムに釘付けになっているのが、鏡越しにわかった。
その金色の瞳は、ショーウィンドウに飾られたキラキラしたおもちゃを見つけた子供のように、あからさまな「欲しい」を訴えかけてくる。
またか、と私は内心で溜息をついた。
この女は、どうやら綺麗なものや、私の持ち物に対して、異様な執着を見せる癖があるらしい。
これまでの経験から学習した私は、振り返ると、女の顔の前に人差し指を立ててみせた。
「これは私のだから。あげない」
きっぱりと、明確に、拒絶の意思を伝える。
すると、どうだろう。
女の金色の瞳から、キラキラとした輝きがすぅっと消え、露骨にしょんぼりとした表情になった。肩を落とし、私の背中に額をこすりつけてくる。まるで、おやつを貰えなかった大型犬のようだ。
その日、女は一日中、その調子だった。
学校でも、私の背後でいじけたオーラを出し続けている。いつものベタベタしたセクハラも、どこか元気がなく、ただ力なく引っ付いているだけ。
その姿に、私は思わず考えてしまった。
(……なんか、すっごい面倒くさいな、この人…)
でも、同時に、ある確信も得ていた。
私の言葉、私の明確な拒絶が、この予測不能な人外の行動に、直接的な影響を与えるのだ、と。
それは、真っ暗な洞窟の中で、ようやく見つけた一本の頼りないロープのようなものだった。
そのロープがどれだけ役に立つのか、試す機会は意外と早くやってきた。
帰り道、よく使う近道の商店街の路地裏から、ぬるり、とソレが姿を現したのだ。
いくつもの腕がもぞもぞと蠢く、私が以前から生理的に苦手としているタイプの怪異。いつもなら、息を殺して、気づかないふりをして通り過ぎるところだ。
しかし、今日の私は少し違った。
私は、背後でいまだにいじけモードの女に、そっと話しかけた。
これは、賭けだ。
「ねぇ」
女が、しょんぼりしたまま顔を上げる。
私は、路地裏の怪異を顎でしゃくってみせた。
「あの邪魔なやつ、どうにかしてくれたら……」
一呼吸おいて、私は悪戯っぽく微笑んでみせる。
「朝のヘアゴム、ちょっとだけなら、貸してあげなくもないけど?」
その言葉を言い終わるか、終わらないかの刹那だった。
しょげていた女の金色の瞳が、カッと見開かれ、凄まじい輝きを放った。次の瞬間、女の姿が私の視界から消え、路地裏から「ギィッ」という短い悲鳴が聞こえたかと思うと、もう何事もなかったかのように、女は私の隣に戻ってきていた。
ほんの数秒の出来事だった。
そして、女は、尻尾をぶんぶんと振る大型犬のように、キラキラした期待に満ちた目で、じっと私を見つめてくる。
そのあまりの分かりやすさに、私は若干引きながらも、込み上げてくる笑いを堪えることができなかった。
「え、ちょ、本気にしたの…」
呆れつつも、私は約束を守ることにした。鞄から例のヘアゴムを取り出し、女の白い手のひらに、ぽんと乗せてやる。
女はそれを、まるで世界で一番大切な宝物のように、そっと両手で包み込んだ。そして、心底嬉しそうに、幸せそうに微笑む。
その無邪気な笑顔を見て、私は心の中で、確信を持って呟いた。
(こいつ、もしかして…チョロい?)
恐怖の対象だったはずの人外が、なんだかとても、扱いやすい存在に見えてきた瞬間だった。
チョロい、かもしれない。
その発見は、私にとって革命的だった。
もちろん、根本的な力の差はどうしようもないだろう。この女が本気を出せば、私はなすすべもなく捻り潰されるに違いない。
でも、日々の行動レベルであれば、違う。
私が「ご褒美」をちらつかせれば、この人外は私の言うことを聞く。それはつまり、この奇妙な共生関係の主導権を、私が握れるということじゃないか。
「されるがまま」だった受け身の思考から、「どうやってコイツを動かしてやろうか」という、能動的な思考へ。
恐怖に支配されて縮こまっていた心が、少しだけ、軽くなった気がした。
私が「飼い主」として振る舞えば、この猛獣は、案外可愛いペットになるのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと、校舎の屋上から、誰かに見られているような視線を感じた。
振り返って見上げるが、そこには誰もいない。
でも、確かに感じたのだ。
女とはまた違う、もっと冷たくて、じめじめとした、陰湿な気配を。
一瞬、背筋がひやりとしたが、今の私には、それどころではなかった。
手の中の「チョロい猛獣」を手懐けられるかもしれないという、目の前の大きな発見に、私の心はすっかり奪われていたのだ。
その視線の意味を、この時の私は、まだ深く考えることはなかった。
自室に戻り、ベッドに腰掛ける。
女は、今日一日貸し出してやることにした私のヘアゴムを、飽きもせず弄んでいた。指に巻いてみたり、光に透かして眺めたり、チャームの星を撫でてみたり。本当に、心の底から嬉しそうだ。
やがて、いつもの時間がやってくる。
女はヘアゴムを大切そうにポケットにしまうと、ベッドにいる私に、ゆっくりと近づいてきた。
その瞳は、いつものように、欲望の色を宿している。
しかし、今夜の私は、もうただ怯えるだけの私ではなかった。
女が私に覆いかぶさろうとする、その寸前。
私はベッドに座ったまま女を見上げ、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「ねぇ」
私は、女がヘアゴムをしまったポケットを、指でとん、と突く。
「今夜、私が気持ちよかったら、明日もそれ、一日貸してあげる。でも、もし私が満足できなかったら、これは没収だからね」
私の言葉に、女は一瞬、金色の瞳を驚きに見開いた。
しかし、その「ゲーム」の提案をすぐに理解すると、その唇に、挑戦的な、しかしどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「望むところだよ、みこ」
女の声は、いつもより少しだけ、楽しそうに弾んでいた。
「絶対に『満足したから、明日も貸してください』って、言わせてあげるから」
恐怖に支配されるだけの夜は、もう終わり。
今夜から始まるのは、歪で、倒錯的で、でも、ほんの少しだけ対等な、私とこの人外との、新しいゲームなのだ。
女の挑戦的な言葉に、私は少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。
怖い。でも、それだけじゃない。
この人外を、自分の言葉で動かせるかもしれない。その可能性が、恐怖に麻痺していた心に、奇妙な高揚感を与えていた。
「じゃあ、お手並み拝見といこうかな」
私は、少しだけ強気な声でそう言ってみせた。
女はそれに、妖艶な笑みで応える。
そして始まった「ご褒美」を賭けた実技試験は、これまでとは全くの別物だった。
女は、私の身体をまるで最高級の楽器か何かのように、丁寧に、慎重に扱い始めた。
指先が肌に触れる。その感触だけで、女が今夜、どれだけ本気なのかが伝わってきた。
女はまず、私が「好き」だと知っている弱点を、的確に、しかし決して性急にならず、じっくりと時間をかけて攻めてくる。
それは、快感と同時に、試されているような感覚だった。
(ここで感じたら、負け…!)
私は必死に歯を食いしばり、快感に耐えようとする。しかし、女のテクニックは、そんな私のちっぽけな抵抗を嘲笑うかのように、的確すぎた。
「んぅ…っ、ぁ…」
「どうしたの、みこ? 声、漏れてるよ。もう満足しちゃった?」
「ま、まだ…っ!こんなの、全然…!」
強がる私の言葉を聞いて、女は楽しそうに喉を鳴らす。
そして、今度は私自身ですら知らなかったような、新たなポイントを探り始めた。
首筋の、ほんの少しだけ耳に近い場所。
腰骨の、指一本分だけ下のライン。
女の指と舌が触れるたびに、私の身体は裏切り者のように、びくん、びくんと正直な反応を返してしまう。
「ほら、ここも好きだったんだね。知らなかったよ」
「ちが…っ、そんなこと、な…ぁんっ!」
違うと言い張りたいのに、否定の言葉は甘い喘ぎに変わってしまう。
悔しい。悔しくてたまらない。
私が主導権を握るはずのゲームだったのに、いつの間にか、私は女の掌の上で、ただただ快楽に翻弄されているだけだ。
女の指が、ゆっくりと私の脚の間に差し向けられる。
「さあ、みこ。これが最後の仕上げだよ。これでも『満足しない』って、言い張れるかな?」
「……っ!」
私は、最後の抵抗として、ぎゅっと目を瞑った。
しかし、女の指は、これまでで最も優しく、そして最も意地悪に、私の最も感じやすい場所を、くるり、と撫でた。
たった、それだけで。
「ああああああーーーーーッ!」
私の身体は、簡単な罠に落ちたかのように、あっさりと快感を認めてしまった。
強烈な刺激が全身を駆け巡り、思考が真っ白に染め上げられる。
視界がチカチカと点滅し、呼吸もままならない。
悔しい。ゲームに負けた。
でも、それ以上に、気持ち、いい…。
意識が朦朧とする中、女が私の顔を覗き込み、悪魔のように優しく囁いた。
「ねぇ、みこ。どうだった?」
「……」
「満足、した?」
その問いに、私はもう、首を横に振る力も残っていなかった。
悔し涙なのか、快感の涙なのか、分からない雫が頬を伝う。
私は、震える声で、絞り出すように答えた。
「……しました……」
「ん? なあに?」
「満足、しました…! だから、明日も、貸して、あげます……っ」
「ふふ、正直でいい子だね」
その言葉を聞いた瞬間、女は勝利を確信した、とろけるようなキスを私に落とした。
ああ、やっぱり、この人外には敵わないんだ。
そんな諦めと、ゲームに負けた悔しさと、そして身体の芯に残る甘い痺れの中で、私の意識はゆっくりと闇に溶けていった。