あの日、私が「ご褒美」をちらつかせて、この人外の化け物を手懐ける術を覚えてから、私たちの奇妙な共生関係は、新たなステージに突入していた。
恐怖は薄れ、代わりに増えたのは、予測不能なこの女をどうコントロールするかという、日々の気苦労だ。
もはや、どちらが飼い主で、どちらがペットなのか。時々、本気で分からなくなる。
そんな、歪だけど安定した日常は、しかし、新たなる脅威(?)の登場によって、唐突に破られることになった。
それは、ある日の昼休みのことだった。
私が購買で買ってきたパンを食べようと、机の上に置いた、その瞬間。
パンが、消えた。
「え?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。きょろきょろと周りを見渡すが、パンはどこにもない。
背後にいる女は、私と同じように不思議そうな顔をしている。彼女の仕業ではないらしい。
私が呆然としていると、教室の隅の、誰も見ていない天井近くの空間が、僅かにゆらりと歪んだ。そして、そこから「もぐ…へへ…」という、いやらしい咀嚼音と、小さな笑い声が聞こえた気がした。
その日から、私への陰湿で、子供っぽい嫌がらせが始まった。
教科書の特定のページだけが、いつの間にか破られている。
筆箱の中の消しゴムに、針で刺したような小さな穴が無数に開けられている。
体育で着替えている間に、上履きが片方だけ隠される。
犯人は、分かっていた。
あの日、私のパンを盗んだ「新顔」の怪異だ。
その姿はハッキリとは見えない。ただ、気配だけは分かる。じめじめとしていて、陰湿で、小物感あふれる、たちの悪い気配。
そして何より厄介なのは、その新顔が、私の背後にいる女の存在を、全く意に介していないことだった。
もちろん、私の女が黙っているはずがなかった。
自分以外の存在が、自分の「おもちゃ」である私にちょっかいを出す。
その事実は、この人外の独占欲と嫉妬心に、盛大に火をつけた。
「……っ!」
私が上履きを探して困っていると、背後から放たれる女の怒りのオーラが、物理的な圧力となって教室の空気を震わせる。
次の瞬間、女は新顔の気配がする空間に向かって、不可視の何かを叩きつけた。
「ギッ!」という短い悲鳴が聞こえ、嫌な気配は霧のように消え去る。
そして、私の隠されていた上履きが、天井からぽとりと落ちてきた。
(おお、やるじゃん)
私が感心したのも束の間。
数時間後、私がトイレから戻ってくると、今度は私の椅子の座面に、べったりと糊が塗られていた。
嫌な気配が、また教室の隅から「へへへ…」と笑っている。
そして、私の背後では、女が再び怒りのオーラを臨界点まで高めている。
そう。
消しても、また現れるのだ。
ゴキブリのような、しぶとさ。
私と、私の女、そして新顔の怪異による、仁義なき、そして非常に迷惑な戦いの火蓋が、切って落とされた瞬間だった。
私の平穏な(?)学校生活は、二体の怪異による「私を巡る仁義なき代理戦争」のせいで、めちゃくちゃになった。
授業中、私が黒板に集中していると、背後で女が新顔の怪異に無音の攻撃を仕掛ける。その余波で、私の机の上の筆箱がガタガタと揺れ、消しゴムが床に転がり落ちる。
「四谷、どうした。集中しろ」
先生に注意され、私は「すみません」と頭を下げるしかない。背後では、女が「邪魔するな」とさらに怒りを燃やし、新顔が「やーだよ」と挑発する、見えない攻防が繰り広げられている。
(私の授業に集中する権利を返してほしいんですけど!?)
体育の着替え中、新顔が私の体操服を隠す。
それを察知した女が、ロッカーごと新顔を消し飛ばそうとする。
その結果、私のロッカーの扉が、なぜか内側から歪んで閉まらなくなる。
「きゃー! 四谷さんのロッカーが!」
「なんで!? こわーい!」
クラスメイトの悲鳴と、私の心の悲鳴がシンクロした。
給食の時間。
私の分のデザートのプリンを、新顔がまたしても消し去る。
ブチギレた女が、教室中の空気を震わせ、窓ガラスをミシミシと揺らし始める。
「ひぃっ! ポルターガイスト!?」
「やだー! 早く塩持ってきて!」
パニックに陥る教室のど真ん中で、私は頭を抱えた。
(お願いだから! 食べ物の恨みでクラスを崩壊させるのはやめて!)
いつの間にか、私はこの状況に慣れ、奇妙なスキルを身につけ始めていた。
「はいはい、喧嘩しない! そこの天井の隅と、私の背中! ちょっと離れてなさい!」
二体の怪異に向かって、そう一喝する。
すると、一瞬だけ、二体の気配がおとなしくなるのだ。
もちろん、効果は数分しか持たない。
でも、私は気づいてしまった。
この仁義なき戦いの中心にいるのは、他ならぬ、私なのだと。
そして、ついに、その時が来た。
放課後、誰もいなくなった教室で、私は一人、残って掃除をしていた。
新顔の怪異が、私の目の前に、初めてその姿をぼんやりと現した。それは、もやのような、ハッキリしない輪郭の、意地の悪そうな少年のような姿だった。
そして、私の背後からは、これまでで最も強く、冷たい女のオーラが放たれる。
二体の怪異が、私を挟んで睨み合っている。
それは、言葉のない、問いかけだった。
『どっちを、選ぶんだ?』
空気が、張り詰める。
ここで下手を打てば、私はこの教室ごと消し飛ばされるかもしれない。
私は、手に持っていたホウキをぎゅっと握りしめた。
そして、大きく、大きな溜息を一つ、ついた。
(ああ、もう。本当に、面倒くさい)
私の平穏な日常は、どこへ行ってしまったのだろう。
でも、もう、後戻りはできない。
ならば、選ぶしかない。
より「マシ」な地獄を。そして、私が「手懐けられる」地獄を。
私はまず、目の前でぼんやりと揺らめいている、新顔の怪異に向き直った。
そして、手に持っていたホウキの柄で、ビシッとそいつを指し示す。
「あんた」
私の声に、新顔の怪異の気配が、びくりと揺れた。
「あんたは、嫌がらせばっかりで、何の役にも立たない。私のプリンを返して。だから、いらない。消えて」
私の、はっきりとした拒絶の言葉。
それを聞いた新顔の怪異は、まるで叱られた子供のように、その輪郭をしょぼしょぼと歪ませた。そして、一言「…ちぇ」と呟いたかと思うと、その気配はすぅっと、本当に綺麗さっぱりと、教室から消え去っていった。
(…言えば分かるんじゃん)
あっけない幕切れに、少しだけ拍子抜けする。
そして、私はゆっくりと、背後を振り返った。
そこには、勝ち誇ったような、そして「早く私を選んで」と言わんてんばかりの期待に満ちた瞳で、美しい人外の女が立っていた。
私は、その女に向かってもう一度、大きな、本当に大きな溜息をついた。
そして、新顔に向けたのと同じように、ホウキの柄で、その完璧な顔を、ビシッと指し示した。
「あんたも!」
「え?」
予想外の展開に、女の金色の瞳が、きょとんと丸くなる。
私は畳み掛けるように言った。
「あんたは、役に立つこともあるけど、セクハラが多すぎる! ベタベタしすぎ! 重いの! いい加減にして!」
「……っ」
「だから、これからは、私の言うことを聞くこと! 私が『待て』って言ったら待つ! 『やめろ』って言ったらやめる! いい? 返事は!?」
まるで、言うことを聞かない大型犬を躾けるように。
私の剣幕に、女は一瞬、呆気に取られたような顔をしていた。しかし、自分が「選ばれた」という事実が、じわじわと喜びとなって込み上げてきたのだろう。
その表情が、ぱあっと、花が咲くように明るくなった。
そして、これ以上ないほど満面の笑みで、ぶんぶんと、力強く頷いてみせた。
その夜。
自室のベッドに腰掛ける私の前で、女はそわそわと落ち着かない様子だった。
昼間の「主従契約」が、この夜の関係にどう影響するのか。期待と、ほんの少しの不安が入り混じっているのだろう。
すぐにでも飛びかかってきたいのを、必死で我慢しているのが見て取れた。
私は、この絶対的な存在が私の言葉を待っているという状況に、奇妙な全能感と、背徳的な愉悦を覚えていた。
私はゆっくりと口を開いた。
その一言で、私たちの新しい夜が始まるのだ。
「ねぇ」
その一言に、女の肩がびくりと震える。
私はベッドに座ったまま、女の完璧な顔を見上げ、命令した。
「今夜は、私が『いい』って言うまで、何もしないで。ただ、そこにいて」
それは、これまでとは真逆の命令だった。
女は一瞬、金色の瞳を戸惑いに揺らめかせた。しかし、昼間の約束を思い出したのだろう。こくりと、小さく頷くと、本当に、ベッドの横に立ったまま、ぴたりと動きを止めた。
じっと、私を見つめている。その瞳には、焦燥と、期待と、そして服従の色が浮かんでいた。
私は、その視線を受けながら、自分のパジャマのボタンに、ゆっくりと手をかけた。
一つ、また一つと、ボタンを外していく。
はだけた胸元、露わになっていく素肌。その全てを、女は息を詰めて見つめている。
私は、自分の手でパジャマを完全に脱ぎ捨てると、シーツの上に、無防備な身体を横たえた。
「……」
女は、ゴクリと喉を鳴らした。それでも、動かない。
私が初めて見せる、能動的な誘惑。
その光景に、この絶対的な捕食者は、完全に釘付けにされていた。
私は、女を見つめ返す。
そして、甘く、囁いた。
「……もう、待てない?」
その言葉が、引き金だった。
「うん…っ!」
女は、子供のような返事をすると、我慢の限界とばかりに私の上に覆いかぶさってきた。
しかし、その動きには、以前のような一方的な支配の色はない。
私の許可を得て、ようやく触れることを許された、というような、どこか切実で、必死な愛撫。
「みこ…みこ…っ」
私の名前を呼びながら、全身にキスを落とす。
それは、私の身体を確かめるような、宝物に触れるような、愛情に満ちたキスだった。
私はそのキスを受け入れながら、女の濡れたカラスのような黒髪を、そっと撫でた。
その瞬間、女の身体が、嬉しそうにびくりと震える。
もう、そこに恐怖はなかった。
私が主導権を握り、私が許可を与える。
そして、女はそのルールの中で、私に最高の快楽を与えようと必死になる。
その倒錯した、新しい関係性が、これまでにないほどの深い快感を私にもたらしていた。
「もっと、していい…?」
「……いいよ」
「キスも…?」
「ん…」
私の許可を得るたびに、女の愛撫は熱を帯びていく。
私が「もっと」と囁けば、その通りに。
私が「やさしく」と求めれば、その通りに。
私の言葉一つで、この人外は天国へも地獄へも堕ちるのだ。
その絶対的な支配感と、与えられる完璧な快楽に、私の思考はとろとろに蕩かされていく。
「あ…っ、ん、ふぅ…っ」
女は、私の喘ぎ声を聞きながら、私の反応を確かめながら、これまでで最も丁寧に、そして深く、私を愛した。
それは、もはや一方的な責めではない。
二人で作り上げる、共同作業。
快感の波が、何度も、何度も、私を打ちつける。
そして、ついに訪れた絶頂の瞬間。
私の視界の中で、女は、これまで見たこともないような、心からの幸福に満ちた顔で、涙を流していた。
翌朝。
私の隣で、女は子供のように安らかな寝顔で眠っていた。
その頭を、私はそっと撫でてやる。
「はいはい、よくできました」
そう呟くと、私はベッドから抜け出し、いつものように洗面所へと向かった。
私の日常は、何も変わらない。
隣には、相変わらずこの美しい人外がいて、きっと今日も、私にベタベタしてくるのだろう。
でも、もう、それでいい。
(まあ、色々あるけど…退屈はしないか)
私は鏡の中の自分を見て、小さく笑った。
その顔は、以前のような恐怖に怯えたものではなく、面倒な同居人との生活を、まんざらでもなく受け入れている、そんな顔をしていた。
これが、私の新しい日常。
私だけの、異常で、奇妙で、そしてかけがえのない『普通』。
この美しい人外との毎日は、これからもずっと続いていくのだ。