じりじりとアスファルトを焦がす太陽がようやく傾き始め、けたたましく鳴いていた蝉の声が、涼しげな鈴の音に変わる頃。
私のスマホが、軽快な着信音を鳴らした。
画面に表示された名前は「ハナ」。
「もしもし、みこ? あのさ、近所の神社で今日から夏祭りなんだけど、一緒に行かない?」
電話の向こうで、親友が弾んだ声を上げている。
夏祭り。
その言葉を聞いた瞬間、私の心は、久しぶりに浮き立つような高揚感に包まれた。
人混みは苦手だ。でも、友達と行くお祭りは、特別。
「行く! 絶対行く!」
「やった! じゃあさ、せっかくだし、浴衣着ていこうよ!」
「うん! そうしよ!」
キャッキャとはしゃぐ私たち。その楽しげな会話の全てを、私の背後にいる女が、どんな顔で聞いているのかなんて、この時の私は気にも留めていなかった。
私が、自分以外の人間との「特別」な約束に、心の底から胸を躍らせている。
その事実に、この静かな人外の独占欲に、どれほど濃い影を落としているのかを。
約束の時間。
私は、お母さんに手伝ってもらいながら、何年も前に買ってもらった浴衣に袖を通した。
紺色の生地に、凛とした白い朝顔が描かれた、少しだけ大人びたデザイン。
帯をきゅっと締められ、髪をアップに結い上げてもらうと、普段は隠れているうなじが、夜の生温かい空気に晒されて、少しだけそわそわした気分になる。
「あら、みこ、綺麗じゃない」
「そ、そうかな…」
お母さんに褒められ、鏡に映る自分の、いつもとは違う姿に、私自身も少しだけドキドキしていた。
やがて、お母さんが「それじゃ、楽しんでらっしゃい」と部屋を出ていき、私一人になった、その瞬間。
ふわり、と背後に、いつもの気配が現れた。
しかし、その気配は、いつもとは明らかに違っていた。
ねっとりと絡みつくような、熱のこもった視線。
振り返るまでもなく、分かる。
女は、興奮していた。
私の和装姿に、その金色の瞳が、ギラギラとした、剥き出しの欲望の色に燃えている。
女は、手伝うふりをして、私のうなじに顔をぐっと近づけてきた。そして、匂いを嗅ぐように、深く、深く、息を吸い込む。
「……すごく、いい匂い」
吐息と共に囁かれる言葉に、私の背筋がぞくりとした。
そして、帯を締め直すふりをして、腰を背後から力強く抱きしめられる。
その腕の力は、明らかにいつもより強い。
「ちょっ! 着崩れるからやめて! ハナが、もう下で待ってるんだから!」
私は、興奮気味の女を何とかいなし、その腕から逃れるようにして、部屋を飛び出した。
玄関のドアを開け、夏の夜の喧騒へと駆け出す。
この時の私は、まだ知らなかった。
今日この後、この美しい人外の、これまでで最も執念深く、そして背徳的な愛情表現に、身も心も囚われることになるということを。
※※※
神社の参道へと続く道は、すでにたくさんの人でごった返していた。
色とりどりの浴衣、綿あめの甘い匂い、鳴り響くお囃子と、子供たちのはしゃぐ声。その全てが、非日常的な高揚感となって私を包み込む。
待ち合わせ場所の鳥居の前には、すでにハナが立っていた。
「みこー! こっちこっち!」
「ハナ! ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ! ってか、みこ、めっちゃ可愛い! その浴衣、超似合ってる!」
ハナは、ピンク色の生地に金魚が描かれた可愛らしい浴衣姿で、私の周りをくるくると回りながら絶賛してくれた。
「ハナこそ、すっごい可愛いよ!」
「えへへー、でしょー! よし、記念に写真撮ろ!」
私たちは、提灯の明かりを背景に、腕を組んだり、頬を寄せ合ったりして、何枚も写真を撮った。
楽しい。心の底から、そう思った。
でも、その間もずっと、私の背中には、氷のように冷たい視線が突き刺さっていた。夏祭りの熱気とはあまりにも不釣り合いな、女の嫉妬に満ちた視線が。
「うわー、すごい人だねー!」
「はぐれないようにしないとね」
ハナと腕を組み、人波をかき分けるように進んでいく。
もちろん、女も、いつも通り私の背中にぴったりと身体を寄せていた。そして、帯の下の、素肌が覗く腰のあたりを、その冷たい指先でそっと撫でた。
「んっ…!」
思わず変な声が出そうになるのを、必死で堪える。ハナに気づかれないように、何でもない顔で歩き続ける。
その私の様子を楽しんでいるのか、女の指はさらに大胆になり、うなじにふっと息を吹きかけてきたりもした。
(やめて…!お願いだから、今日だけは…!)
私の心の叫びは、もちろん届かない。
「あ、射的だ! やろーよ、みこ!」
ハナに手を引かれ、私たちは射的の屋台の前に立った。
コルクの弾を銃に詰め、景品のぬいぐるみを狙って構える。こういうのは結構得意だ。息を止め、的を見据え、引き金に指をかけた、その瞬間。
「みこの真剣な顔、可愛いね…」
耳元で、甘い吐息と共に囁かれた。
集中力が、ぷつりと切れる。
パンッ、と乾いた音を立てて発射されたコルク弾は、狙いとは全く違う方向へと飛んでいき、虚しく壁に当たった。
「あー、おっしいー!」
隣でハナが笑っている。私は悔しさと怒りで女を睨みつけたかったが、もちろんそんなことはできず、「ほんと、惜しかったー」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。
少し歩き疲れた私たちは、屋台でりんご飴を買って、一息つくことにした。
私が赤いりんご飴をしゃり、と一口かじった時、隣のハナが「あ、みこの方が赤くて美味しそう!」と言った。
「一口ちょうだい!」
「もう、しょうがないなー」
私は、親友の無邪気なおねだりに苦笑しながら、自分のりんご飴をハナの口元へと運んだ。ハナは「あーん」と口を開け、嬉しそうに一口かじる。
それは、いつも通りの、なんてことのない友達同士のやりとりだった。
しかし、私の背後にいる女にとっては、そうではなかったらしい。
ぎゅっ、と。
背後から、帯が強く締め付けられた。
まるで、蛇に身体を締め上げられるような、息苦しいほどの力で。
それは、明確な嫉妬と、独占欲の発露だった。
『私以外の人間と、そんなに親密にするな』
声なき声が、背中から直接、私の脳に響いてくる。
「…みこ? どうかした? 顔色悪いよ?」
心配そうに覗き込んでくるハナに、私は「ううん、なんでもない。ちょっと、人混みに酔っただけかも」と、かろうじて笑顔を作った。
背中からは、まだ、女の冷たい怒りのオーラが放たれ続けている。
楽しいはずの夏祭りが、じわりじわりと、悪夢に変わり始めていた。
りんご飴を舐めながらも、背中に感じるプレッシャーは一向に弱まらない。
じりじりと肌を焼くような、女の嫉妬。
「ねぇ、みこ。ちょっとあっちで休憩しない? さすがに人混み疲れちゃった」
私の顔色の悪さに気づいたのか、ハナがそう提案してくれた。私たちは頷き合い、賑やかな参道を外れて、神社の本殿の裏手にある、少し薄暗く人気のない場所へと移動した。
木々に囲まれたそこは、祭りの喧騒が嘘のように静かで、遠くでお囃子の音が微かに聞こえるだけだった。
「あー、涼しい。でも、なんか喉渇いちゃったな」
ハナはそう言うと、ぱんと手を叩いた。
「みこ、ちょっと飲み物買ってくるから、ここで待ってて! すぐ戻ってくるからね!」
私の返事も待たずに、ハナはパタパタと下駄を鳴らし、再び屋台の並ぶ明るい方へと駆け足で去っていく。
一人、残される私。
そして、私の背後にいる、嫉妬の炎を静かに燃やし続ける、美しい人外の女と二人きり。
まずい、と思った。
ハナを追いかけようと一歩踏み出した、その瞬間だった。
ぐいっ、と強く腕を掴まれた。
そして、有無を言わさぬ力で、拝殿の柱の影、最も暗い場所へと引きずり込まれる。
「ちょ、何…!?」
どん、と背中を木の壁に押し付けられた。
目の前には、これまで見たこともないほど、飢えた瞳をした女がいた。
その金色の瞳は、夏祭りの提灯の赤い光を反射して、妖しく爛々と輝いている。
私の耳元で、女は熱く、そして掠れた声で囁いた。
「もう、我慢できない」
その言葉と共に、女はアップにした髪で無防備に晒された私のうなじに顔を埋め、まるで牙を立てるかのように、強く、強く吸い付いた。
「ひゃっ…! だめ、こんなところで…! ハナが、戻ってくる…! 浴衣、変になったらどうするの…!」
私の悲鳴のような抗議に、女は楽しそうに喉を鳴らした。
そして、私の耳に、悪魔のように甘い言葉を吹き込む。
「大丈夫。あの子が戻ってくる前には、全部元通りにしてあげるから」
女は一度、うなじから顔を離すと、私の目をじっと見つめて、こう付け加えた。
「―――見た目は、ね」
ゾッとした。
その言葉の意味を、私は瞬時に理解してしまった。
女の冷たい指が、私の浴衣の合わせ目に、ゆっくりと、しかし確実に差し込まれていく。帯を解くことなく、着付けを崩すことなく、ただ内側だけを侵食しようとする、その卑劣で陰湿な手つき。
遠くで聞こえる、楽しげな祭りの喧騒。
いつハナが戻ってくるか分からない、心臓が張り裂けそうなスリル。
そして、普段とは違う和装という非日常感が、これから始まる背徳的な夜を、否応なく告げていた。
女の冷たい指が、私の浴衣の合わせ目から、するりと滑り込んできた。
肌襦袢の薄い布地を押し分け、直接、私の素肌に触れる。
ひやりとしたその感触に、私の身体はびくりと跳ねた。
「や…やめて…」
か細い抵抗は、女の耳元で囁くような吐息に変わってしまう。
「しー…。声、出しちゃだめだよ。あの子に、聞こえちゃう」
女は楽しそうに言うと、その指をゆっくりと、私の肌の上で這わせ始めた。
まずは、胸元へ。帯で締め付けられているせいで、いつもより肌が敏感になっている。指先が鎖骨をなぞるだけで、ぞくぞくとした痺れが背筋を駆け上った。
(ハナが、戻ってくる…!)
その恐怖が、私の心臓を早鐘のように打つ。遠くで聞こえる祭りの喧騒、人々の笑い声。その全てが、この柱の影で行われている背徳的な行為とのコントラストを際立たせ、私の理性を麻痺させていく。
女の指は、さらにお腹へと下っていく。
そして、帯の下をくぐり抜け、ついに下腹部へと到達した。
「んんっ…!」
声を殺すため、私は自分の唇を強く噛み締める。
帯で腰回りが固定されているため、逃げ場がない。女の指の動きの一つ一つが、ダイレクトに身体の芯へと響いてくる。
女は、私の反応を確かめるように、わざとゆっくりと、じらすように、最も柔らかな場所へと指を近づけていく。
そして、薄い下着の上から、その湿った熱の中心を、ぐり、と押さえつけた。
「んぅぅぅっ…!」
もう、限界だった。
スリルと、背徳感と、そして抗えない快感が、ごちゃ混ぜになって私を襲う。
涙が、じわりと目に滲んだ。
その時だった。
「みこー! おまたせー!」
遠くから、ハナの明るい声が聞こえた。
まずい! 戻ってきた!
私がパニックに陥るのと、女の金色の瞳が、愉悦にきらりと光ったのは、ほぼ同時だった。
「ほら、お友達が呼んでるよ」
女は悪魔のように囁くと、私の懇願も無視して、下着の中に指を滑り込ませた。
そして、私が一番感じてしまう小さな蕾を、的確に、そして強く、弾いた。
「んぐぅぅぅぅーーーーーっっ!!」
私は咄嗟に、自分の手で口を固く、固く塞いだ。
喉の奥で、声にならない絶叫が爆ぜる。
全身が激しく痙攣し、腰ががくがくと震えた。目の前が真っ白になり、柱に寄りかかっていなければ、立っていることすらできなかっただろう。
パタパタと、ハナの下駄の音が、すぐそこまで近づいてくる。
女は、私の絶頂の余韻が残る身体から、何事もなかったかのようにすっと手を抜くと、私の背後に回り込み、乱れた息を整えるのを手伝うふりをして、そっと背中を支えた。
「おまたせー!…って、みこ!? 大丈夫!? やっぱり顔色すっごい悪いよ!?」
角から現れたハナが、息を切らした私の顔を見て、心配そうに駆け寄ってくる。
私の顔は真っ赤で、呼吸は乱れ、立っているのがやっとの状態だ。
でも、私の浴衣は、少しの着崩れもなく、完璧なままだった。
「う、うん…大丈夫…。ちょっと、立ちくらみ、しただけだから…」
そう答えるのが、精一杯だった。
内側は、この女のせいで、もうぐちゃぐちゃにされているのに。
その誰にも言えない秘密を抱えながら、私はただ、親友の心配そうな顔を見つめ返すことしかできなかった。
背後からは、満足げな女の、甘い吐息が聞こえていた。
ハナの心配そうな顔に、私は「本当に大丈夫だから」と、か細い笑顔を返すのが精一杯だった。
「大丈夫じゃないって! もう帰ろ! お家まで送ってくから!」
ハナは私の腕を取り、肩を貸してくれようとする。しかし、私の身体は、すでに背後の見えない存在に支えられていた。
「う、うん。ありがとう…」
私は、その見えない腕に体重を預けながら、ゆっくりと歩き出した。
(この人外のせいで、足に力が入らない…)
夏の夜の熱気と、祭りの喧騒が、少しずつ遠のいていく。
カラン、コロン、と鳴る下駄の音が、やけに重く感じられた。
隣で心配そうに私を支えてくれるハナと、背後でぴったりと寄り添い、悦に入った気配を隠そうともしない女。
この、誰にも言えない、奇妙で歪な三角関係。
私は、このとんでもない秘密を抱えながら、これからも生きていかなければならないのだ。
そう思うと、楽しかったはずの祭りの思い出が、全て、甘くて苦いものに塗り替えられていくようだった。
家に帰り着き、ハナと別れる。
自室に戻った私は、どっと疲れて、その場にへたり込んだ。
女は、そんな私の背後に回り込むと、手伝うふりをして、帯をゆっくりと解き始めた。
きつく締められていた帯が解かれ、私はようやく、深い息をつく。
浴衣を脱ぎ捨て、いつものパジャマに着替える。少しだけ、日常に戻ってきた気がした。
ふと、鏡に映った自分の姿を見て、私は動きを止めた。
アップにした髪の、その下の、白い首筋。
うなじのあたりに、くっきりと、赤い痕跡が残っていた。
女が、あの時、牙を立てるかのように吸い付いた、所有の印。
(最悪だ…)
私がその痕を指でそっと撫でていると、背後から女が抱きしめてきた。
そして、鏡越しに私と目を合わせると、その金色の瞳を、満足げに、そしてうっとりと細めた。
女は、私が触れているその痕に、自分の唇を重ねるように、私のうなじに顔を埋める。
そして、囁いた。
「可愛い印がついたね、みこ」
「……」
「これで、今日一日、あなたが誰のものだったか、忘れずに済むでしょ?」
その甘く、残酷な言葉に、私はもう、何も言い返すことができなかった。
夏祭りの夜は、私の身体に、そして心に、決して消えない痕跡を残して、静かに更けていった。