帰り道、という概念は、もはや私にとって存在しなくなったのかもしれない。
あの美しい化け物は、私に囁いた後も離れることなく、腰に腕を回してぴったりと身体を密着させてきた。まるで長年の恋人同士であるかのように、自然な仕草で。
「……かわいい」
「あなたの匂い、好き」
「やっと見つけた」
吐息と共に耳元へ囁かれる言葉は、どれも甘く蕩けるようだ。けれど、その声が人間のものではないと知っている私にとっては、呪いと何ら変わりない。
周囲の人間には、この女の姿は見えていない。私一人が、白昼堂々、人ならざるものに抱きしめられながら歩いているのだ。背中から伝わる柔らかな感触と、なぜか温かい体温が、悪夢のような現実を突きつけてくる。
(……歩きにくくないのかな)
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
女は私に身体を預けるように密着しているのに、その足は地面を捉えていないように見える。まるで影のように、私の動きにただ追従しているだけ。なら、歩きにくさなんて関係ないのか。
どうでもいい思考で現実から逃避しようとしている自分に気づき、自嘲しそうになる。
(このまま、家に…連れて帰るしかない、のか)
抵抗は無意味だと、出会った瞬間に悟っている。振り払おうとしても、その手は空を切るだけ。叫んでも、きっと誰にも届かない。この女は、私にしか見えないし、私にしか触れられないのだから。
諦念が、恐怖に染まった心をじわりと侵食していく。
案の定、女は「お邪魔します」とでも言うように、私と一緒に玄関をくぐった。
リビングでは、母と弟の恭介がテレビを見て寛いでいる。いつも通りの、平和な光景。そのすぐ隣で、私が人外にまとわりつかれているとも知らずに。
「おかえり、みこ」
「……た、ただいま」
母の声に返事をしながら、私は必死に平静を装う。女は私の背後から回り込み、まるで母や恭介の存在などないかのように、私の制服のブラウスに指をかけた。第二ボタンを、意味ありげになぞる。
「―――っ!」
息を呑む私を見て、女は楽しそうに金色の瞳を細めた。
食事中も、それは続いた。テーブルの下で、女の冷たい手がスカートの中に滑り込み、太腿をゆっくりと撫で上げる。箸を持つ手が震え、ご飯の味が全くしなくなった。
「みこ? どうかしたの、顔が赤いわよ」
「…………っ」
母の言葉に、私は何も答えられない。言い訳すら思い浮かばず、ただ俯いて熱くなった顔を隠すことしかできなかった。目の前で心配そうな顔をする母と、すぐ隣で私の反応を楽しんでいる人外。狂ってしまいそうな状況に、ただ耐えるしかなかった。
風呂場は、さらに地獄だった。
湯船に浸かると、女も湯気の中から現れ、背後から私を抱きしめる。濡れた肌に触れる指は、食事の時よりも大胆になっていた。耳朶を甘噛みされ、首筋に唇を寄せられる。声を殺すため、私は自分の腕を強くつねることしかできなかった。
そして、夜。
自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ時が、唯一の解放の時だと思っていた。
だが、それこそが最大の過ちだったと思い知らされるのに、時間はかからなかった。
掛け布団が、独りでに持ち上がる。その隙間から滑り込んできた女は、馬乗りになるように私の上に覆いかぶさった。闇の中で爛々と輝く金色の瞳が、獲物を前にした捕食者のように、私を射抜く。
「やっと、ふたりきりになれたね」
その囁きを合図に、これまでとは比較にならないほど濃密な愛撫が始まった。
抵抗しようとした両手は、いとも容易く頭上で押さえつけられる。パジャマのボタンは引きちぎるように剥ぎ取られ、露わになった素肌に、冷たい唇が吸い付いた。
「ん……っ、ゃ……め…」
鎖骨を舐められ、胸の膨らみを執拗に指で捏ねられる。声にならない喘ぎが漏れると、女は嬉しそうに喉を鳴らした。
ああ、違う。これまでのは、本当にただの「あいさつ」だったのだ。家族の前では、これでも手加減をしてくれていたのだと、今更ながらに悟る。
容赦のない責め。
身体の隅々まで、まるで所有を確かめるかのように、舌と指が這い回る。唇は何度も貪るように塞がれ、思考は徐々に快楽の色に染め上げられていく。
恐怖も、抵抗の意志も、熱い奔流の中に溶けていく。快感に耐えきれず、背中が弓なりにしなった。
「ひ…ぁ、ぅ……っ」
自分のものではないような、甘ったるい声が喉から漏れ出る。それを聞いた女は、満足げに喉を鳴らし、さらに深く、執拗に私の身体を求め始めた。
女の指が、パジャマのズボンの中にまで侵入してくる。未知の感覚に、全身がびくりと跳ねた。
「だ、め…そこは、だめ……っ!」
懇願は、もはや抵抗の体をなしていなかった。むしろ、女の所有欲を煽る媚薬にしかならないことを、私は本能で理解していた。
案の定、女は私の懇願を無視し、最も柔らかな場所をゆっくりと、しかし確実に暴いていく。初めて触れられる場所に、熱と痺れが一気に集中した。
「あ……ぁ、ああッ!」
もう、駄目だった。
恐怖も、羞恥心も、何もかもが熱い奔流に飲み込まれて消えていく。思考は真っ白に塗りつぶされ、ただ女が与える快楽の波に翻弄されるだけの存在になってしまった。何度も身体が跳ね、シーツを掻きむしる。その度に、女は嬉しそうに私の名前を呼び、唇を奪った。
金色の瞳が、すぐ側で恍惚と細められる。
ああ、この女は、私のこの姿が見たかったのだ。恐怖に屈し、快楽に溺れる様を。
その事実が、絶望と共に最後の引き金を引いた。
視界が白く点滅し、全身から力が抜けていく。快感の絶頂で、私の意識はぷつりと糸が切れるように途切れた。
暗闇に沈む直前、耳元で聞こえたのは、心からの喜びに満ちた、悪魔の囁きだった。
「…かわいい、みこ。これで、あなたは私のもの」