季節は巡り、寒さの中にも、どこかそわそわとした空気が漂う二月。
世間がバレンタインという一大イベントに浮かれる中、私もまた、その甘い熱気に浮かされていた一人だった。
「よし、こんなもんかな」
休日の昼下がり。私はキッチンに立ち、チョコレート作りの最終工程に入っていた。
湯煎で滑らかに溶かしたチョコレートを、クマやウサギの形をした可愛らしいシリコンの型に、一つ一つ丁寧に流し込んでいく。
目的は、二つ。
一つは、いつもお世話になっている親友ハナへの「友チョコ」。
もう一つは、なんだかんだで可愛い弟の恭介への、まあ、義務みたいな「家族チョコ」。
私の手つきは、自分でも驚くほど真剣そのものだった。
もちろん、そんな私の背後には、いつも通り、美しい人外の女がぴったりと張り付いている。
私が右に動けば右に、左に動けば左に。影のように、あるいは背後霊のように。
しかし、今日の彼女は、いつもとは少し様子が違った。
ただ黙って抱きついているだけではなく、どこか、そわそわと落ち着きがないのだ。
私がチョコレートのボウルを覗き込めば、一緒にそれを覗き込む。
私が動物の型にチョコレートを流し込めば、その手元をじっと見つめる。
そして、時々、私の顔をちらりと窺う。
その金色の瞳が、何かを言いたげに揺れていることに、私は気づいていた。
(……なんか、そわそわしてるな)
そんなことを思いながらも、私は作業に集中した。
全ての型にチョコレートを流し込み終え、トレイごと冷蔵庫で冷やす。そして、ボウルに残ったチョコレートを味見しながら、片付けを始めた。
「ふぅ、終わったー」
シンクで道具を洗い終え、私が一息ついた、その瞬間だった。
背後から回されている女の腕に、きゅっ、と力が籠った。
そして、私の肩に、自分の顔をぐりぐりと押し付けてくる。
それだけでは飽き足らず、今度は、私のTシャツの上から、お腹のあたりを指でつん、つん、と突いてきた。
「……」
その、あからさまな「かまってアピール」。
私は呆れた溜息を一つついて、振り返った。
「なに? どうしたの?」
私がそう聞くと、女は何も言わない。
ただ、その金色の瞳で、キッチンの方を、特にチョコレートの甘い香りがまだ残っているあたりを、じっと見つめているだけ。
その瞳は、言葉以上に、雄弁に語っていた。
『私のは?』と。
その、あまりにも分かりやすい無言の催促に、私はもう一度、大きな大きな溜息をついた。
もはや、この面倒くさくて、子供っぽくて、そして底知れなく重い人外の感情を読み取り、適切にあしらうのは、私の日常の一部と化していた。
「……はいはい、分かりましたよ」
私は降参とばかりに両手を上げると、呆れた声で言った。
「あんたの分ね」
その言葉を聞いた瞬間、女の表情が、ぱあっと、花が咲くように明るくなった。尻尾があったら、きっとちぎれんばかりに振っていることだろう。
私はその様子に、また溜息をつきたくなるのをぐっと堪え、シンクに置きっぱなしにしていた、まだ温かいチョコレートが残るボウルの前に立った。
(まあ、でも…)
ハナや恭介にあげた、あの可愛い動物の型抜きチョコ。
これを、この人外にあげるのも、なんだか違う気がする。
こいつは、ハナでもなければ、恭介でもない。
もっと、特別で、面倒で、そして、どうしようもなく私に執着している、唯一無二の存在だ。
ならば、あげるものも、「特別」でなければ、フェアじゃないのかもしれない。
そこで、私は一つの「躾」を思いついた。
飼い主として、この忠実な(?)ペットに、とびっきりの「ご褒美」を与えるのだ。
私は、女に向き直ると、悪戯っぽく微笑み、人差し指を立ててみせた。
「あんたのは、特別だから。ちゃんと、目を閉じて待ってなさい。『いい』って言うまで、絶対に見ちゃだめだよ」
女は、その「特別」という魔法の言葉に、金色の瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせた。
そして、こくこくこく! と、ものすごい勢いで頷くと、期待に満ちた顔で、両手で自分の目をぎゅっと固く閉じた。その姿は、サンタクロースを待つ子供のように、あまりにも無邪気で、純粋だった。
私はその様子に小さく笑うと、ボウルに残った、まだ温かいチョコレートを、自分の人差し指で、とろり、とすくい取った。
チョコレートの甘い香りが、指先から立ち上る。
そして、目を閉じて健気に待っている女の前に、静かに立った。
これから始まる、甘くて、背徳的な儀式。
その全てを、私はもう、受け入れてしまっている。
「はい、目を開けていいよ」
私の声に、女はゆっくりと、瞼を上げた。
そして、目の前に広がる光景に、その金色の瞳を、驚きと、歓喜と、そして深い深い独占欲の色に、染め上げていく。
女が目を開けると、目の前には、チョコレートでとろりと濡れた、私の指先が差し出されていた。
「え…?」
女は一瞬、呆気に取られたような顔をする。
私は、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「あんたのチョコは、これ。私からの、手作り。ちゃんと味わって食べてね」
その言葉の意味を、女はすぐに理解した。
これは、ただのチョコレートではない。
私の体温で温められ、私の指から直接与えられる、究極の「所有」の証であり、絶対的な「服従」の証だ。
女は、その金色の瞳を恍惚と潤ませると、まるで聖遺物にでも触れるかのように、私の指先を、恭しく両手で包み込んだ。
そして、そのチョコレートで濡れた指を、ゆっくりと、自分の口へと運んでいく。
ちゅ、と小さな音を立てて、女は私の指を吸った。
舌が、指先に絡みつく。
チョコレートの濃厚な甘さと、私の肌の微かな塩気が混じり合い、女の口の中で、この世で最も甘美なデザートへと変わる。
「ん……っ」
指先を吸われる、その直接的な感触に、思わず私の喉から甘い声が漏れた。
一口、また一口と、女は私の指を丁寧に、綺麗になるまで舐めとっていく。
そして、物足りなそうに顔を上げると、私の瞳と、私がまだ持っているチョコレートのボウルを、交互に見つめた。
そして、掠れた声で、こう囁いた。
「これだけ…?」
「……え?」
「もっと欲しい。みこの全部を、チョコレートで味わいたい」
その熱のこもった瞳に、私はもう、逆らうことなんてできなかった。
女は、私の手からチョコレートのボウルを受け取ると、私の手を引き、ベッドへと誘う。
「今夜は、みこ自身が、私だけのバレンタインチョコになってくれるんでしょ?」
その背徳的な提案に、私は「食いしん坊なんだから…」と、呆れたように、でも、どこか嬉しそうに呟く。
もう、その提案を拒む気は、どこにもなかった。
ベッドに横たわった私の素肌の上に、女は、温かいチョコレートを、まるで絵を描くように、ゆっくりと垂らしていった。
胸の谷間に、お腹に、そして太腿に。
まだ熱を帯びたチョコレートが、私の体温と混じり合い、じわりと肌に広がっていく。
その光景は、あまりにも淫靡で、倒錯的だった。
「いただきます、みこ」
女はそう囁くと、私の身体という名の「特製チョコレート」を、心ゆくまで味わい始めた。
チョコレートの甘さと、私の肌の感触が混じり合い、これまでにないほど、甘くて、濃密な快感が私を襲う。
舐められるたびに、チョコレートの香りと、私の喘ぎ声が部屋に満ちていく。
私が「もっと」と求めれば、女はさらに多くのチョコレートを私の身体に塗りたくり、その全てを、愛おしそうに舐めとっていく。
ああ、私、この人外の化け物に、食べられちゃってるんだな。
そんなことを、蕩けた思考の片隅で思う。
でも、不思議と、嫌じゃなかった。
むしろ、この上なく満たされていくような、幸福な感覚。
「みこ、愛してる」
チョコレート越しに、女の熱い唇が私の唇を塞ぐ。
口の中に広がる、甘くて、とろけるような味。
それは、私が今まで食べた、どんな高級なチョコレートよりも、ずっと、ずっと、甘かった。
ハッピーバレンタイン。
私と、この食いしん坊な人外との、甘くて、とろけるような一日は、まだ始まったばかりだ。