しゃこ、しゃこ、と単調な音が洗面台に響く。
パジャマ姿のまま、鏡の前に立つ私は、ぼんやりと歯を磨いていた。鏡に映る自分の顔は、どこか眠たげで、いつもと変わらない。変わらないのは、私の顔だけだ。
鏡には映らない背後から、細い腕が私の腰に回されている。パジャマの裾から滑り込んできた冷たい指先が、素肌のお腹をくすぐるように撫でていた。
(これって、誰かに相談した方がいいのかな…)
歯磨き粉のミントの香りを吸い込みながら、ふと考える。
でも、誰に? なんて? 「見えない女の人に毎日セクハラされてるんです」とでも言えばいいのだろうか。警察に行っても、病院に連れて行かれるのがオチだ。
そもそも、これはセクハラ、なのだろうか。
セクシャルハラスメント。言葉にすると、どこか軽く聞こえてしまう。今まさに、私の身体を好き放題にまさぐっているこの行為が、そんな事務的な単語で片付くとは思えなかった。これはもっと、根源的で、抗いがたい支配だ。
口をゆすぎながら、思考を続ける。
確かに、害はある。精神的な平穏は完全に破壊されたし、日中の不意打ちには未だに心臓が跳ね上がる。
でも、不思議なことに、それ以外の実害はない。殴られたり、傷つけられたりしたことは一度もない。
それどころか、プラスの面さえあることに、私は気づき始めていた。
一つは、寝覚めがすこぶる良いこと。毎晩、意識を失うまで嬲られるというのに、朝には疲労感が嘘のように消え去り、身体は快調そのものだ。
そして、もう一つ。これが最も大きい。
他の“ヤバい”やつらを、全く見なくなったのだ。
以前なら、通学路の電柱の陰や、教室の隅に、蠢く黒い影や異形のナニカが常にいた。私はそれらを必死に無視し続けてきた。だが、この女が憑いてから、彼らはぱったりと姿を消した。まるで、この女の存在を恐れるかのように。
(もしかして、この人…いや、この化け物は、すごく上位の存在なのかも…)
そう考えると、今の状況は一種のトレードオフなのかもしれない。絶え間ないセクハラ(という言葉で一旦は括る)を受け入れる代わりに、他のあらゆる怪異から守られている。そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、この生活も悪くないのかもしれない、なんて危険な思考が頭をよぎった。
そんなことを考えているうちに、私の日常は奇妙な形で安定しつつあった。
絶えず快楽を送られ続ける暮らしにも、身体は正直に慣れていく。
昼休み、ハナと購買で買ったパンを頬張りながら話している最中も、女は私の背後から胸を揉み、うなじにキスを落とす。
「でさー、昨日のテレビ見た? めっちゃウケたんだけど!」
「ん、うん、見た見た。あの芸人さん、すごかったよね」
びく、と身体を震わせながらも、私は顔色一つ変えずに会話を続けることができていた。内心では「今、胸触られてる!首にキスされてる!」と絶叫しているのに、表情と声は完璧に平静を保っている。
(何のスキルだ、これ…)
極限状態で身につけた謎の特技に、我ながら呆れてしまう。
そうして、また一日が終わる。
夕焼けに染まる帰り道、女はいつも通り私を背後から抱きしめて、幸せそうに囁く。
「みこ、今日もかわいかった」
私はもう、それに何も返さない。ただ、黙って家路を歩くだけだ。
自室のドアを開け、ベッドが視界に入る。
ああ、また、夜が来る。
恐怖と、諦めと、そしてほんの少しの予感が入り混じった溜息が、静かな部屋に落ちた。
ベッドに潜り込むと、案の定、女はするりと隣に入り込んできた。いつものように覆いかぶさってくるかと思いきや、今夜の女は少し様子が違った。私のパジャマのズボンの裾をゆっくりとたくし上げると、露わになった足首を、陶器のように冷たい両手でそっと掴んだのだ。
「……きれいな足」
恍惚とした囁きと共に、女は私の足をゆっくりと持ち上げた。
何が始まるのかと身構える私の目の前で、女はまるで聖遺物にでも触れるかのように、恭しく私の足の甲に唇を寄せた。
「ひゃ…っ!?」
そして、ちろり、と生温かい舌が肌を撫でる。
足の指を一本一本丁寧にしゃぶられ、指の間にまで舌をねじ込まれる。ぞわぞわとした未知の感覚が背筋を駆け上り、私は思わず身をよじった。
「や、やめて…あし、なんて…きたな…」
「ううん、きれいだよ。あなたのものは、全部きれい」
否定の言葉は、女の欲望を加速させるだけだった。
足先への愛撫に満足すると、女の舌はゆっくりと上へ、上へと移動を始める。くるぶしを舐め、アキレス腱をなぞり、ふくらはぎの柔らかな膨らみを丹念に味わうように舐め上げていく。そして、膝の裏の窪みに舌を這わせた瞬間、私は甲高い声を上げてしまった。
「あ…っ!んんんッ!」
身体が勝手に跳ねる。そこがこんなにも感じやすい場所だなんて、今まで知らなかった。
しかし、本当の地獄はそこからだった。
女はついに、最も柔らかな内腿に到達した。指先で皮膚の薄い部分を絶妙な力加減で撫でられるだけで、腰が震え、甘い痺れが下腹部に集まってくる。
「も…だめ、そこは、ほんとに…っ」
「ここ、好きなんでしょ?」
楽しそうな声と共に、今度は湿った舌が直接、内腿を撫でた。
つま先から足の付け根まで、脚の全てを支配するような、執拗な愛撫。もう、胸や秘部を直接触れられているわけでもないのに、身体の芯は熱く、とろとろに蕩かされているのがわかった。
直接触れられていないからこそ、羞恥心と焦燥感が極限まで高まっていく。
「ぁ、あ…いく、いっちゃうから…だめぇ…っ!」
懇願は、絶頂を乞う喘ぎに変わっていた。
そして、女の舌が脚の付け根、最も敏感な場所のすぐ際を、わざとらしく舐め上げた瞬間――。
「あああああーーーーーッ!」
頭が真っ白になった。
足への刺激だけで、私は完全にイかされてしまったのだ。その屈辱と、抗えない快感の奔流に、視界がぐにゃりと歪む。身体が痙攣し、シーツを掻きむしる指先から力が抜けていく。
金色の瞳が、満足げに細められるのが見えた。
ああ、また、こうやって…。
そんな思考を最後に、私の意識は深い、深い快楽の海の底へと沈んでいった。