しゃこ、しゃこ。
朝の洗面台に響く、いつもと同じ音。私の日常は、この音から始まる。
そして、その日常には必ず、この美しい人外の女がいる。今日も女は私の背後から首に腕を回し、私の頬をぺろりと舐めた。
(……おいしいのかな、私の肌って)
ふと、そんな素朴な疑問が浮かぶ。化粧水や乳液の味でもするのだろうか。いや、この女のことだ、味なんて関係なく、ただ触れたいだけなのかもしれない。
私が歯磨きを終え、口をゆすいで顔を上げた、その瞬間。
待っていましたとばかりに、女は私の顔を両手で包み込み、深く、深くキスをしてきた。
これは、もう日課だ。
歯磨きが終わったばかりの、何も味のしない私の口内を、女はまるで自分だけの色に染め上げるかのように、舌で隅々まで塗りつぶしていく。
それはきっと、誰も足を踏み入れていない真っ白な新雪に、一番に自分の足跡をつけて喜ぶ子供のような、そんな無邪気で独占的な行為なのだろう。
私の唇も、舌も、口の中も、全部この女のものだと主張するように。
(……このキス、ちょっと、好きかも)
そんな考えが頭をよぎり、自分でも驚く。
恐怖と屈辱から始まったはずの関係なのに、いつの間にか、この唇を塞がれる行為に、ほんの少しの安らぎと心地よさを感じ始めている自分がいた。
もちろん、絶対に口には出さない。こんなことを知られたら、この女がどれだけ調子に乗るか、想像するだけで恐ろしいからだ。
その日、学校の屋上へと続く階段の踊り場で、私はハナと別れて一人になった。教室に戻ろうと踵を返した瞬間、背後にいた女に壁際へと押し付けられる。
「ん……っ」
不意打ちのキス。もう何度目かわからないそれに、驚きはしても、以前のような必死の抵抗はしなくなっていた。
私が少しだけ身体の力を抜いたのを敏感に察知したのか、女のキスはいつもより執拗で、長くなった。まるで、私の僅かな受容を確かめるように、舌が何度も優しく絡みついてくる。
「……はぁ…っ」
唇が離れた時、私は軽く息を切らしていた。女は満足げに金色の瞳を細め、私の唇の端を親指でそっと拭う。その仕草は、まるで恋人のようだった。
(だめだ、だめだ)
心の中で警鐘が鳴り響く。
このままじゃ、本当にこの化け物に絆されてしまう。恐怖にも、快楽にも慣れて、この異常な日常が「普通」になってしまう。
放課後、夕焼けに染まる教室で一人、日誌を書いている時も、女は私の隣に座り、私の髪を指で弄んでいた。その仕草は穏やかで、ただ愛しいものに触れている、という純粋な喜びに満ちているように見えた。
私は、この女にとって何なのだろう。
見つけたおもちゃ? それとも、ペット? あるいは――。
そこまで考えて、私は慌てて思考を打ち切った。これ以上、この人外の存在に心を寄せてはいけない。
自室に戻り、机の椅子に腰を下ろす。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
一日の出来事を思い返し、大きく溜息をつく。
キスを、受け入れ始めている自分。
女の何気ない仕草に、意味を考えてしまう自分。
確実に、私はこの女に侵食されている。心も、身体も、もう元には戻れないところまで。
ベッドが、視界に入る。
ああ、また、夜が来た。
今夜は、どんなふうに、私はこの女に染められてしまうのだろうか。
ベッドに潜り込むと、ひんやりとしたシーツが火照った身体に心地よかった。しかし、その安らぎは一瞬で破られる。
掛け布団が持ち上がり、女が音もなく隣に入り込んできた。闇の中で、爛々と輝く金色の瞳が、じっと私を見つめている。
「みこ」
吐息まじりの甘い声で名前を呼ばれ、身体が強張る。
女は私の上にゆっくりと覆いかぶさると、今夜はすぐに肌を求めるのではなく、まず私の唇を求めてきた。昼間の、あの階段の踊り場でされたものよりも、ずっと深く、貪欲なキス。
「ん……んぅ…っ」
抵抗しようと唇を固く結んでも、女の舌はいとも容易くそれをこじ開け、私の口内へと侵入してくる。歯列を丁寧になぞり、上顎をくすぐり、舌の裏側までを探るように舐め上げる。
そして、唇が離れた瞬間、女は私の耳元で囁いた。
「ねぇ、どうして昼間、受け入れてくれたの?」
「―――っ!?」
心臓が、凍りついた。
バレていた。昼間の階段での、ほんの僅かな気の緩み。私がこのキスに慣れ、満更でもなくなっていることが、この人外の化け物には筒抜けだったのだ。
「嬉しい。みこが、私のキスを好きになってくれて」
「ちが…っ、そんなこと…!」
慌てて否定するが、その言葉は女の唇に再び吸い込まれた。今度のキスは、まるで罰を与えるかのように激しく、それでいて、私の受容を喜ぶかのように甘かった。
思考がぐちゃぐちゃになる。
パジャマがいつの間にか剥ぎ取られ、露わになった素肌に、女の唇が降り注ぐ。それは、ただ舐められるのとは違った。一つ一つの接触が、明確な「キス」だった。
「んぅっ…ぁ…」
鎖骨の窪みに、ちゅ、と音を立てて吸い付かれる。胸の膨らみの頂点に、まるで愛を囁くように唇が寄せられ、甘く食まれる。その度に、私の身体はびくん、びくんと跳ね、声にならない喘ぎが漏れた。
女の唇は、私の全身を巡っていく。お腹にも、脇腹にも、太腿にも。まるで自分の所有物だと主張するように、キスマークという名の刻印を、私の肌の至る所に残していく。
「や…やめ…キス、ばっかり…」
「だって、好きなんでしょ? 私のキス」
楽しそうな声に、羞恥と悔しさで涙が滲む。
でも、身体は正直だった。女の唇が触れるたびに、そこが一番の敏感な場所であるかのように、熱を持って疼いてしまう。
そして、ついに女の唇は、私の脚の付け根へと辿り着いた。
「ここにも、キスしてほしい?」
悪魔の囁き。私が何も答えられないでいると、女はそれを肯定と受け取った。
下着がゆっくりとずらされ、最も無防備な場所が夜の空気に晒される。そして、そこに、これまでで最も優しく、そして最も卑猥なキスが落とされた。
「あああああああーーーーーッ!」
熱い唇が、柔らかな粘膜が、直接、私の核心に触れる。
舐められるのとは違う、吸い付くような、啄むような、濃密なキスの連続。脳天まで突き抜けるような、鋭い快感が全身を貫いた。
もう駄目だった。思考は完全に溶け落ち、私はただ、女の唇がもたらす快楽の奔流に身を委ねるしかない。
「好き…でしょ…? みこ…」
何度も絶頂の波に打ちのめされ、意識が朦朧とする中、女の声が聞こえた。
好き、なんて、そんなこと、認めたくない。
でも、私の身体は、喘ぎ声と痙攣で、正直に答えを返してしまっていた。
その反応に満足したのか、女は最後の深く甘いキスを私に与えると、私の意識は快感の闇へと完全に沈んでいった。