しゃこ、しゃこ。
朝の歯磨きを終え、恒例のキスをされながら、私の頭には一つの疑問が浮かんでいた。
心の中では「この女」とか「この化け物」とか、散々な呼び方をしているけれど、そういえば、私はこの存在を直接呼びかける言葉を知らない。
「ん……っ」
唇が離れた隙に、私は意を決して尋ねてみた。
「ねぇ、あなたの名前は?」
私の問いに、女は一瞬、金色の瞳をきょとんと丸くした。そして次の瞬間、堪えきれないというように、くすりと喉を鳴らして笑った。
「名前? そんなもの、私にはないよ」
あまりにもあっさりと、まるで「人間にはどうして尻尾がないの?」とでも聞かれたかのように、自然に告げられた言葉。
その答えに、私は衝撃を受けた。名前がない? そんなことがあるのか。
名前という、存在を定義し、他者と区別するための最初の記号すら持たない。それは、この女が人間の常識や理解の範疇から、完全に逸脱した存在であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
得体の知れない恐怖が、背筋を這い上がってくる。
その日の昼休み、親友のハナが私の顔を覗き込み、ニヤニヤしながら言った。
「みこさー、なんか最近、雰囲気変わったよね。ちょっと色っぽくなったっていうか…彼氏でもできた?」
「なっ…!? できてないよ!」
思わず声が裏返る。私の激しい動揺に、ハナは「えー、怪しいー」とさらにからかってくる。
その時、背後から私を抱きしめている女の腕に、ぐっと力が籠った。ハナに殺意を向けるわけではない。ただ、拗ねた子供のように、私の首筋にぐりぐりと顔をうずめてくる。
「私以外の人の話で、そんなに赤くならないで」
耳元で、小さく不満げな声が囁かれた。
その子供っぽい独占欲に、私は呆れを通り越して、少しだけおかしくなってしまう。ハナに怪しまれないように平静を装いながら、私はこの不可解な人外の感情に、ただ振り回されるしかなかった。
放課後、帰り道のことだった。
ふと、あの怪しげな占い屋の前を通りかかった。ゴッドマザー、だったか。
店の前に出て客引きをしていた老婆と、偶然、目が合ってしまった。
「お嬢さん、ちょっと見ていか…」
言いかけた老婆の言葉が、途中で止まる。にこやかだったはずの顔から、サッと血の気が引いた。見開かれた目には、純粋な、底なしの恐怖の色が浮かんでいた。
まるで、目の前に死神そのものが現れたかのように。
老婆は次の瞬間、慌てて目を逸らし、手にしていた数珠を握りしめてぶるぶると震え始めた。
(あ…)
そのあからさまな恐怖反応を見て、隣にいる女が、面白そうに小さく口角を上げた。まるで「あら、気づく人間がいるのね」とでも言うように。
しかし、老婆の視線が恐怖に歪みながらも、私に纏わりつく「何か」を祓うべき厄介な怪異として捉え、分析しようとしているのに気づいた瞬間、女の表情から笑みが消えた。
金色の瞳に、冷たい光が宿る。
自分の存在を、ただ認識されるのではなく、値踏みされ、分類され、敵意を向けられることへの、静かな不快感。
私はその変化に気づき、混乱した。
(どうして…? 私に見られた時は、あんなに嬉しそうだったのに…)
あの時、女は「見えてるんでしょ? 嬉しい」と、心から喜んでいるように見えた。それなのに、なぜ、この老婆の反応には嫌悪を示すのだろう。
私をその場から引き離すように歩き出した女は、私の疑問を感じ取ったかのように、耳元でそっと囁いた。
「あんな風に見られるのは嫌い。値踏みするような、汚い目」
そして、私の頬に自分の頬をすり寄せ、うっとりと目を細める。
「あなたのその綺麗な目で、ただ私だけを見ていてくれればいいの。私を見つけたのは、あなただけでいい」
その言葉で、私は理解してしまった。
女が喜んだのは、「見える人間」がいたことではない。
私に、見つけてもらえたことが嬉しかったのだ。
この女にとって、私以外の人間がその存在に気づくことは、自分と私の「二人だけの世界」を邪魔する、不快なノイズでしかない。
その深すぎる独占欲に、背筋が凍る思いがした。
自室に戻り、ベッドに腰掛ける。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
この女は、私だけのものになりたいのだ。そして、私を、自分だけのものにしたいのだ。
それは、どんな鎖よりも強力な束縛だった。
ベッドに潜り込むと、女も音もなく隣に入ってくる。
闇の中で、爛々と輝く金色の瞳が、今夜も私を捕らえて離さない。
女は私の髪を優しく撫でると、その冷たい手のひらで、そっと私の両目を覆った。
「んっ…!」
「しー…」
突然視界を奪われ、恐怖で身体が強張る。
女は私の耳元で、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で囁いた。
「あの汚いものを見たあなたの目を、清めてあげる。これからはもう、私以外の余計なものは見なくていい」
それは、まるで呪いのような言葉だった。
視覚を絶たれたことで、他の感覚が嫌というほど鋭敏になる。
パジャマの布地が肌を擦る音、シーツの冷たさ、そして、すぐ側にある女の気配。
女は私の目を覆ったまま、もう片方の手でパジャマのボタンを外し始めた。肌の上を滑る指先の感触が、いつもよりずっと生々しく感じられる。
「あなたの肌が感じるのは、私だけでいい」
はだけさせられた胸に、女の唇が触れる。その熱と湿り気が、暗闇の中で鮮烈な一点となって、私の意識を支配した。
「ひぅ…っ」
声を出そうとすると、今度は耳を指で優しく塞がれる。
「あなたの耳が聞くのも、私の声と、この音だけでいい」
『この音』とは、女の唇が私の肌を吸う、卑猥な水音のことだった。
視覚も、聴覚も、徐々に女の世界に塗り潰されていく。私の世界から、私以外の全ての情報が消えていく。残されているのは、肌に触れる女の感触と、身体の奥から湧き上がってくる熱だけ。
「ねぇ、みこ。今、何を感じる?」
問いかけに、私は答えることができない。ただ、喘ぎ声で応えることしか。
女は私の反応に満足したのか、今度は全身をゆっくりと舐め始めた。まるで、私の身体に残った「私以外の世界の痕跡」を、全て洗い流すかのように。
指先から、足の裏、そして太腿の内側へ。
逃げ場のない暗闇の中で、私の身体は女の舌が這う軌跡の通りに、快感の地図を描かれていく。
「名前なんてなくても、こうすれば、私が誰だか分かるでしょ?」
もう、抵抗の意志はどこにもなかった。
この暗闇の中で、私を支配しているのは、この名無しの化け物だけ。
それが、唯一の真実。
そして、女の舌と指が、ついに私の最も敏感な場所へと辿り着いた。
「あなたの全部、私だけのものにするね」
その決定的な支配の言葉と共に、私の核心が暴かれる。
視界も音も遮断された世界で、ただ一つの感覚だけが、脳を焼き切るほどの奔流となって、私を襲った。
「あああああーーーーーッ!」
声にならない絶叫が、喉の奥で響く。
見えるのは、女がもたらす快感の光だけ。
聞こえるのは、自分の心臓の音と、女の満足げな吐息だけ。
「あなたは、私の」
遠のいていく意識の最後に聞こえたその言葉を、私の魂は、もう決して否定することができなかった。
二人だけの世界で、私は快楽の底へと沈んでいった。