以前の話のこと。
「チューしよう」
「駄目だから」
十階建てのマンションに住んでいる常治の家に二、三回目に遊びに来た時のメイは、しばらく部屋の中を物色して、常治が淹れたお茶を飲むと、胡座をかいて座っている常治の上へとちょこんと座り、身体を少しに半身に常治の方へと向け、そんなことを提案してきた。上目でお願い、しよ?♡と可愛らしく見つめてくるので手を交差させて、×印を作ると、ぷう、と頬を膨らます。
小さな掌で常治の股間を撫で回して来るがこれだけは常治は譲れないので強情に断ると、掌はピタリと動きを止める。
「どうしてもだめ?」
「駄目だよ、メイちゃん。好きな人同士でスるものだから」
「えー。わたし、オジさんのことすきだよ? だいすき♡♡♡」
「ぐっ……」
小首を傾げて、赤い髪を揺らしながら(この時は髪を結わずにおろしていた時代のメイ)可愛らしく告白してくる。心が揺れる。常治は初めて異性から告白された。
しかし、ここで押され負けてはいけない。この好きというのは幼稚園時代にお父さんに対して、「将来はパパのお嫁さんになる♡」と同じ一過性のものであることを。
「でも、メイちゃん。オジさんはメイちゃんのことが好きだけど、まだ大好きではないんだ」
「そんなあ」シュンと肩を落とすメイ。
「き、嫌いになってるわけではないから安心してほしいのだけど」
「うん……」
先程までの明るい表情が一転して、曇り顔のままであり、このまま帰るまでメイがこの表情であることを心苦しく感じた優しき常治は言葉を付け加える。
「自分がメイちゃんのことを大好きになったときは、自分からちゅーするからね」
「ほんとう?!」
やけに食いついてきたので、少し心配になりつつも常治は首を縦に振る。
「約束だよ」念を押す常治。
「ぜったいだよ?」大きめの声で尋ね返すメイ。
「絶対だとも」
「ゆびきり」
「うむ、指切りだ」指を互いに絡める常治。
「ゆびきりげんまーん」同じ様に指を絡めるメイ。
「うそついたら」
「ブラックジャックでどつきまわーす」
「?!」
この場合のブラックジャックとはトランプのゲームを指すわけでも、某医療漫画における天才的な医者でもない。円筒形の革や布袋(あるいは靴下でも代用可)に砂や硬貨を入れて使う武器、鈍器の一種だ。それでどつき回されるなど、針千本も勘弁ではあるが、こちらで殴られるのも相当にキツい(出血しにくいので長く嬲れる特徴があるためだ)。拷問に等しい。
「ゆびきったー」
「ちょっと、どこでブラックジャックとか知ってくるの?!」
「イロハちゃんがおしえてくれた!」
「イロハちゃんんんんん!?」
「すいりドラマとかで、でるんだってー!」
「ああ、そういえば、出てくるね……それでか……じゃなくて?!」
「えへへ」
そのような経緯で今日に至るまでメイとのキスは延期されてきた。しかし、それ以外の事はどこから知識を仕入れてくるのかは分からないが、貪欲にメイは性知識を学び、日々、常治を快楽に染め上げてきたのである。
§-§
ある平日のこと。
その日、常治は悪夢を見た。
無職になる前、接客業についていた時のこと。
嫌な記憶ばかりが蘇る。客からの罵倒やクレーム、目まぐるしい作業、膨大な商品知識の勉強。そんな中でも頑張ってきたが、ある日の同僚からの一言で、その頑張りの線は容易く切れてしまった。そこからはズブズブと休職と復帰を交互に繰り返し、最初は贔屓めに見てくれていた他の同僚も、次第に態度を悪くしていった。
「自分たちは頑張ってるのに常治さんは休んでいるんだ」「もう平気そうなのにまた休職するんですか」「大丈夫ですよ、期待してないんで」「あ、休んでいていいですよ。邪魔なので」
もちろん、心の底から常治を嫌っているわけではないが、彼らも接客業で頑張っている人間であり、ストレスを抱えている。そのストレスがその瞬間にだけ強く発揮され、常治に当てこすりするような発言。世にいう「ちくちく言葉」である。
しかし、仕事ができない人間、休んだりして周りに迷惑をかける人間というのは日本社会において冷遇される。常治もそれに倣い、同じような扱いを受けているだけのこと。
だが、それは頭では分かっていても、受け止める側の心というのは違うのである。
常治は些細な言葉でも苦しんでしまい、次第に疲れていった。
そうして無職になってしまった。
その時の悪夢を見てしまった。汗がびっしょりで冷や汗が止まらない。けど、朝の時間は過ぎていくので、職業学校に行く準備を始める。
しかし、どういうわけか。苦しさが止まらなかった。
少し話を無職後の話に戻すが、常治も貯金や補助金がいつまでも持つわけではない。又、諸事情で余り実家に力を借りにくい彼としては、新しく職を探さなくてはいけなかった為に、接客から離れた別の職業に目をつけ、そのための職業学校に通い、次の職への準備を始めていたわけだ。
実は職業学校に通っても制度として、補助金は出たりする所がある。
しかし、条件はある
ほぼ毎日通い、欠席することがないようにしなくてはいけないのだ。
ところが、この日の常治は苦しさの余り、部屋の中でベッドに向けて倒れてしまい、その日の職業学校は休んでしまうことになる。
§-§
ぺろぺろ。
頬に伝う柔らかい粘膜の感触。この感触を常治は知っていた。温かい感触と濡れた感触が交互にやってくる。ゆっくりと目を開く。
メイちゃんだった。
「あ、オジさん」
メイちゃんは制服姿のセーラー服の出で立ちであった。常治が横になっていたベッドの上に彼女も上がり、常治の身体に覆いかぶさるようにしていた。至近距離。息がかかるくらいの距離で心臓が跳ね上がる。その次にきゅう、と胸を貫く苦しみに息が詰まる。そうして、チラリと視線を外すと、夕方であった。空に浮かぶ夕暮れの色が常治の気持ちを暗く沈ませる。
ああ、自分はなんと駄目なんだろう。
「う、うう……」
「……オジさん」
雫が目の端から溢れる。今日はやけに涙脆い。
しかし、溢れた筈の雫が温かくなる。
ぺろり。
メイに頬を舐められていた。犬のようだ、とふと感じて、小さく笑いが込み上げた。
「……どうしたの、メイちゃん」
「オジさん、ないていてかわいそうだったから」
「……そっか。ごめんね、心配させて」
「ううん、しんぱいするのはとーぜんだよ」
「ありがとうね。……でも、なんで頬を舐めるの」
「わたしのいえのワンちゃんも、わたしがないていたらなめてくれるの。げんきでるよ」
「……」
少女は自分がされて嬉しかったことを実践してくれていたらしい。そこに邪な気持ちはなく、100%の純粋な気持ちにまた涙が溢れそうになるが、ここはググッと涙を堪える。
「……げんきでた?」
「うん、げんきでたよ」
本当のことであった。心の底から元気が出てきた。もしも、起きて一人だったら死にたくなるほど、苦しくなっていたかもしれない。
「メイちゃんのおかげで、元気出たよ」
「! えへへ」
なでなで。
常治は思わずメイの頭を撫でる。サラサラで柔らかくふんわりとした髪質。高級感あるブランドのシャンプーでも使っているのだろう。良い匂いもする。少女の匂いを嗅いでは変態さが益々加速するために、余り嗅覚に意識を向けてこなかったが、今は違う。
メイの香りがたまらなく愛おしく感じた。柑橘類と赤ちゃんのような甘い香り。
普段は性に積極的だが、それはまた別のこと。こういう時に人が悲しんでいれば、その悲しみに寄り添い、一緒に悲しんだり慰めてくれるのがメイの性格と人格を表している。自分のせいで「歪み」は生まれてしまったが、それでもメイという人物の、少女が持つ本質、大事な部分というのは変わらないのだ。
ベッドから二人で起き上がり、すぐ下のカーペットの上に胡座をかいて座ると、ぽつりぽつりと常治は呟く。悪夢のこと、学校に行けなかったことを愚痴ってしまう。誰かに話を聞いてもらいたかった。
「そっかー。……しんどかったね、オジさん」
手を伸ばして、座っている常治の頭を撫でるメイ。
「……うん」撫でられて頷く常治。
「あしたからまたかんばればいいよ。あしたもしんどかったら、べつのひにがんばろ?」
「……うん」
メイから母性が溢れているようであった。頭を撫でられるだけでリラックス効果があるという噂は本当らしい。少しずつ落ち着いてくる常治。実は今まで乱れていた呼吸も整ってきた。
そうして慰められている内に窓の外は暗くなってきていた。
時刻も良い時間になってきていた。夜が近づきつつある。
「帰らなくていいの? メイちゃん。オジさんはもう平気だよ」
「? オジさんのいえに『おとまり』するっておかあさんにつたえたよ」
「え」
余りに用意周到すぎて、驚いてしまう。ここまでに電話する素振りは一切なかったので、恐らく、部屋に上がってから、常治の様子を見て、その場で電話し、宿泊していくことを決めたのだろう。
「だから、こんやはオジさんのいえにいるよ?」
「……そっか」
その心遣いを受けて、物寂しさは埋まるどころか加速してしまう。いつもは距離を離さなくてはいけない、と感じているのに。今日は無性にメイのことが可愛く見えてしまう。
ずい。
胡座をかいて座っていたが、膝立ちのメイの方に顔を寄せてみる。身長差から顔を寄せるのは容易い。
「……オジさん?」少し怯えた顔をするメイ。
互いの顔が至近距離になる。吐息がかかるほどの距離間。いつもは攻勢にばかり出ているメイであるが、守勢に回ると弱々しい態度に見える。けれども。
「……ん」
メイは瞼を閉じた。可愛らしい顔を朱色に染めて、ドキドキしているようで、目元を少しピクピクと震わせながら、愛らしい眉が緩んだまま、キス待ち顔。
どこまでも聡明な子であった。常治のしたい欲求を空気や雰囲気から簡単に読み取り、それに合わせて対応する。優秀な遺伝子の血脈たる血の「本能」がそうさせるのか。
「んっ」
ちぅ。
これは常治の意志であった。常治の方から唇が寄せられる。柔らかく、ぷるぷるとしていて、形の良い小さい唇と自らの唇が重なる。気持ちよかった。唇を重ねているだけなのに、心が爆発するくらいに熱くなる。目の前のメイのことがどんどん好きになっていく常治。彼はまるで魔法をかけられたようだった。
歳下の一回りの少女と接吻するという罪深いイベントをこなし、ゆっくりと顔を離す常治。
世間では変態だの、なんだの糾弾されてもおかしくないが、この目の前の少女の表情の瞬間は一生切り取っておきたいくらいの光景であった。
「えへへ♡ わたしの『ふぁーすときす』、オジさんにあげられてよかったー♡」
可愛らしい。
自分とのキスをそんなに喜んで貰えるとは。常治の成功体験の一つとなる。
メイは口元を掌で隠して、えへへ♡と心の底から少女は喜び、立ち上がるとローテーブルの周りを一周して小躍りしている。その内に脛を机の脚にぶつけてしまう。
「いたっ~~~!?」
「だ、大丈夫かい!? メイちゃん」
「へ、へいき……」うーと涙目になりながら痛い所を擦るメイ。
少し半泣きになりながらも、強がりつつ彼女はまた口を開く。
「『ふぁーすときす』ってしょっぱいんだね。レモンのあじだってきいてたからおどろいた」
「……それは『僕』のせいだね」
互いに顔を見合わせて、小さく笑いあった。思わず常治は一人称が漏れ出る変化もあったが、メイは気づいていたのか、気づいていなかったのか。
その後、オジさんが手料理を振る舞い(焼きそばとサラダという簡単なものだが)、お風呂は流石に別々に入りつつ、一緒のベッドで寝た。その日の寝付きはとても良く、悪夢も見なかった(メイはオジさんの部屋に万が一のために置いていたピンク色の
その日は久しぶりにメイはオジさんに会ったのに「悪戯」をしなかった日となるが、同時に彼女にとって、とても大事な日となったのであった。