「ここ……は?」
石造りの暗く冷たい牢屋の中ではなく、月明りが窓から差し込む木造建築のベッドの上で目を覚ましたジャンヌは、ぼんやりした意識もあって混乱状態にあった。
──これは処刑の日が目前に迫ったことで見ている走馬灯なのでしょうか? それとも処刑の前に郷愁の念を抱かせることで私の絶望を深めさせようとするイングランド側の策謀? どちらにしても、故郷であるドンレミの村の建物はハーフティンバー建築*1なのだから、理解が浅いと言わざるを得ないのに。
「兎に角、状況を把握しないと……あれ?」
ジャンヌは拘束されている身体なりに少しでも身をよじろうとして、手足の戒めていた荒縄が解かれ質素ながらもちゃんとした衣服を着ていることにようやく気が付く。そのまま身体を起こして自らの手首と足首を見れば、本来はきつく縛られているはずの部分には包帯が巻かれていた。
「拘束されていないなんて……それに、いったい誰がこれを? ……え!?」
不可解な事態に頭を悩ませているジャンヌが、ふと身体を起こして月明りに照らされている窓の方に視線を向けるる。するとそこには、鏡写しのように
「月が……二つ。どういう事?」
予想だにしていない光景にジャンヌは、思わず自分の頬を抓る。
──痛みは感じる。夢ではない。だとすると、私は気を狂ってしまって幻覚でも見ているのでしょうか? だとしたら……
ジャンヌが不安を抱いたその時、部屋の扉の先からギシ、ギシ、と床を軋ませながらこちらへと近づいていく足音が聞こえてくる。
ジャンヌの脳裏によぎるのは、ルーアンの地下牢での陰惨な凌辱の記憶。
──毎日何人も相手してるってのにガバマンにならねえなんて、どんだけ淫乱なんだよ! この魔女は!
──マンコとケツマンコのどっちが先にガバガバになるか、賭けようぜ~♪
──ギャハハっ! どっちの穴からもザー汁が溢れてやがる! 勿体ねえからこいつに舌で掃除させようぜぇ~?
ぼんやりとしていた思考が急覚醒すると共に、ジャンヌの視界がぐわんぐわんと揺れて明滅する。息が詰まり、呼吸が荒くなって動悸が激しくなる。身体は震えて冷や汗が止め処なく溢れ、ジャンヌは自らの身体を抱きしめる事しかできない。
──ああ、またやってくるのですね。私の尊厳を骨の髄までしゃぶりつくし、苦痛と共に望まぬ快楽で私を堕とし壊そうとするあの時間が。
ジャンヌの身体を這いまわる指や男根の感触、膣や尻穴に男根をを根元まで突きこみ圧迫してくる感触がリフレインする中、足音が扉の前で止まり、ギィ……と扉が開く。
「良かった。目が覚め……」
扉を開けて入ってきたのは、一人の少年だった。銀と銅を溶かして混ぜたような色合いの、少し色素が抜けているようにも感じられるショートヘアーと赤い瞳からは、華奢な体躯と印象に反して確かな意思を感じさせる。
彼の心配の言葉は、ジャンヌの様子を見て途中で止まった。
震えるジャンヌの様子を見た少年が、彼女にゆっくりと近付く。ジャンヌは自身を搔き抱いたまま目を閉じて身体を震わせる。
少年がゆっくりとジャンヌから離れる。近付いてきた異性の気配が少し遠のいて、ジャンヌの身体の震えが少し収まる。
少年が部屋の外に出る。ジャンヌの身体の震えが完全に収まり、閉じていた眼をゆっくりと開いた。
そして、少年がそのまま扉を閉めようとして、
「待って……ください。私は、大丈夫……です」
──私は、その少年に思わず声をかけた。どうしてなのかは自分でもわからない。でも、確かにさっき、あの少年は私の目が覚めているのを見て安堵してくれていた。だから、私は信じたい。人を信じる心に罅が入ってしまった私に、どうか信じさせてほしい。
「……わかった。でも、辛かったらすぐに言って欲しい。俺は、君に苦しんで欲しくないから」
少年は、勇気を振り絞って声を出したジャンヌの気持ちを汲んで、扉を開けて廊下に立ったままジャンヌが落ち着くのを待っている。
身体に刻まれたトラウマによって荒くなっていた呼吸を整え、抱きしめていた腕を解き、ジャンヌは俯いたまま少年と言葉を交わす。
「わ、私は……ジャンヌ。ジャンヌ・ダルクと、言います。あなたの……お名前を教えていただけませんか?」
「分かった、ジャンヌ。俺の事はジークと呼んでくれ」
──なんてことない自己紹介のはずなのに、心臓はバクバクと高鳴って、気持ちは急いてしまって。先ほどまでの
「ジーク君、貴方が……私を助けてくださったのですか?」
──初対面の方なのに、君付けしてしまった。本当ならば様付けかあるいはさん付けしないといけないのに。
「それについてだけれども、ジャンヌ……まずは落ち着いて聞いて欲しい。君は元の世界で神隠しにあってこの世界に流れ着いた」
「神……隠し、ですか?」
君付けされたジークは気にする様子もなく外の景色──ジャンヌが先ほど目を疑った月が二つある景色を指差しながら説明し始める。
──先ほどは自分が狂ってしまったのかと不安になったけれども、ジーク君の話を信じるならば、どうやらこの世界は私の世界と異なるようですね。それにしても、神隠し……ですか。これは、神のお導きという事なのでしょうか?
「──。ジャンヌ、俺は君が元の世界で何をしていたのか知らない。でも、此れだけは約束するよ。俺は、君を守ると」
「……どうして? どうして、見ず知らずの私にそこまで親身になってくれるのですか?」
「う~ん、信じてくれるかわからないけど……声が聞こえたんだ」
「声……?」
「うん。顔はぼやけてわからなかったけれども、夢の中で鎧姿の剣と秤を持った
──あぁ、なんという事でしょうか。私の行いは、決して無駄などではなかった。私の信仰は確かに届いていたのですね、ミカエル様。
ジークの言葉に、ジャンヌは神の声を聴いた12歳の頃を思い出して、一筋の涙を流しながら祈りを捧げる。
虜囚の身となり、異端審問の名を借りた陰惨な凌辱を受ける中で、ジャンヌは幾度となく虚言を吐いて人心を惑わす魔女と、犠牲を増やすだけの無駄な足掻きを扇動した愚か者だと罵られてきた。
「その人から、大切にされていたんだね」
「はい。私に進むべき道を示してくれた、尊いお方です。苦難の試練は数多あれど、あの方は、私を見守ってくださっていたのだと知る事が出来ました。感謝いたします」
──ぐぅぅ……。
穏やかな空気の中、感謝の祈りを捧げていたジャンヌのお腹の虫が鳴る。
「そういえば、ジャンヌはこの世界に来てからまだ何も食べていなかったね。作り置きしておいたスープを用意するから待っていてほしい」
「ぁ……はい」
──なんでこんな時にお腹が鳴ってしまうのですか。ジーク君ともっとお話しをしていたかったのに……。
しょんぼりするジャンヌだったが、お腹がぐぅぐぅなるくらいに空腹である事実は変わらない。
男性恐怖症ともいえる男性不振を刻まれたジャンヌが、初めて会ったばかりの異性であるジークに対して既に心を開いている事に、彼女は気付かない。
「お待たせ、ジャンヌ。いきなりかっ込むと胃がびっくりしてしまうから、ゆっくりと食べてほしい」
「ありがとうございます。それでは……っ!?」
──ジーク君が持ってきてくれたスープは、香りから恐らく山羊の乳を使った温かい麦粥でした。ベッドで体を起こしたままの私は、ジーク君から麦粥の入った器と木のスプーンを受け取ります。そのまま口を付けようとして、麦粥が浸っている山羊の乳の白濁した色が視界に入ると、胃がギュッと掴まれたようになって息が詰まりました。脳裏に浮かんだのは、ルーアンの地下牢で出されていた|食事《穀物の粥に男達のザーメンと小便が混ぜられたもの》。
──違う、違う! ジーク君が用意してくれた食事が、あんなものと同じはずがない! 冷汗と動悸が止まらない身体を叱咤するように、私は麦粥をスプーンで口に運ぶ。
「ジャンヌ!?」
「だ、大丈夫……です。美味しい、です」
──私の変調に気づいたジーク君に対して、私は嘘をついてしまう。本当は思考が明滅し、味なんてわからないのに。
「すまない、ジャンヌ。君がどのような目に合っていたか、考えが足りなかった……ちょっと待ってて」
──そんな私の嘘をジーク君は見抜いたのでしょう。申し訳なさそうな表情で謝る彼に、私は罪悪感に苛まれます。
「お待たせ。スープに少し手を加えるよ」
──少しして、ジーク君がもってきたのは山羊のチーズでした。私は麦粥が入った器をジーク君に渡すと、器の中にスライスした山羊のチーズを乗せて、
「──。恵みの炎を齎したまえ」
──何かを唱えると、山羊のチーズを乗せた麦粥の表面に炎がともりました。
「これ、は……?」
「調理とかに使う火の魔術だ。ジャンヌ世界では、一般的じゃなかったのか?」
「はい」
──異端審問で魔女と扱われた身である私としては思うところはありますが、それよりも山羊のチーズが炙られて溶けながら焦げ目がつくことで香ばしい香りがし始めて、再びお腹の虫が鳴くくらいに食欲がわいてきます。
「はい、お待たせ。これでどうかな?」
──やがて麦粥の表面から炎が消えると、真っ白だったチーズは満遍なくなく茶色く焦げを纏っていました。色味が大きく変わったからなのか、先程の様な胃が掴まれるような圧迫感は感じません。何より、香ばしい香りがとても美味しそうです。ジーク君から山羊のチーズを焦がした麦粥を改めて受け取ると、木のスプーンで掬って口に運びます。山羊のチーズの塩気とミルクの仄かな甘味が、麦粥の滋味と共に身体に染み入っていきます。
「ぁ……美味しい。美味しい、よぉ……」
──トラウマを想起することなく正直な感想を言えた私は、思わず涙を浮かべてしまいました。だって、
ジャンヌは山羊のチーズ入りにミルク麦粥を食べ終わると、ほぅ……とため息をついて瞼を重そうにする。ルーアンの地下牢に囚われてから満たされる事は無かった空腹感が満たされ、張り詰めていた緊張が緩んで睡魔に襲われ出したからだ。
「ジャンヌ、無理はしないでゆっくり眠っていいんだよ」
「わか、り……ました。……お休み、なさい」
ジャンヌの手を握り、落ち着かせるように語り掛けるジークの言葉に、ジャンヌの意識は微睡みにへと誘われる。異性に触れられて、肉体が拒絶反応を示さない事にジャンヌは気が付かないまま、意識は緩やかに微睡みにへと沈んでいった。
チーズを上に乗せ炙って焦がした麦粥に近い料理のイメージはドリアから着想をえましたが、ドリアの発祥は20世紀ごろだったんですねぇ(雑なWiki調べ)