空蝉の裂け目 自分のことをまだ男だと思い込んでいる精神異常TSっ娘を壊してしまった僕の話 作:あかん子を説法
そう、彼方には自覚がないのだ。
「自分が女の子の身体になっている」という自覚が。
正確には、理解を拒んでいるといったほうが正しいか。
彼方自身が語りたがらないから、詳細は未だにわからない。
けれど彼は明らかに、過去の出来事を無意識的になかったことにしている。
心理学的に「乖離」と呼ばれる心の防衛反応だ。
強い心的外傷に耐えかね心が壊れてしまいそうなとき、手段を問わずその原因を遠ざけることで、心は崩壊を免れる。
「ははは、まーた敵さんどたまぶち抜かれにきましたわ!」
彼方の場合、手段は「女子になった事実を切り離す」ことだった。
数年観察してわかった。彼はすべての心的外傷の起点が、自身の性転換にあると思い込んでいるのだ。
だから、自分の身体が女子のものであると自覚するような出来事に遭遇すると、彼方はひたすらにその現実を拒んで遠ざける。
”胸の膨らみは病気による腫れ。痛いのもそのせい。サラシを巻けば問題ない”
”女の子扱いは容姿のせい。気にしない”
と、そういった具合に。
「あっ、逃げんなコラ!」
頑なでしたたかなその意志は、とても彼方らしいものだ。
けれど常々思う。事ここに至っては仇となり、彼の健全な成長を阻害しているのでは、と。
現に、振る舞いはこの通り。
「まそらそっちいった!」
「ん」
今日もまたTシャツに短パン、白い太ももと二の腕を大きく露出させたルーズな格好でリビングのテレビ画面の前に座って、コントローラをガチャガチャと弄り回し、無邪気にはしゃいでいる。
「あっ、こら撃ち漏らしたな!」
画面の中で頑強そうな機体が踊れば、彼方の柔和な上半身もまた踊る。
どっしりとした黒いレザーのソファーが揺れて、隣の僕も少し揺れる。
動けば香る。同じシャンプーなのに、自分とはまったく違う。混ざっていっそう甘さを増した、女の子特有の香りが。
「いや、大丈夫、いま、あっ」
気を取られて操作をミスった。
2分割されていた画面を割り裂いて、デカデカとLoseの文字が出る。
彼方が「ああああ!」と悔しそうに声を上げた。
「ご、ごめん」
目を伏せて謝ると、童顔は「むー」とむくれて僕を睨む。
子猫のように愛らしくも親しみ深い、少年的な表情だ。
しかしながら、その下のほう。白いシャツの広い襟元からは、たわわな白桃の谷間がちらついている。
最近、いっそう豊かになった気がする。
学校では閉じ込められていたぶん、存分に、奔放に解放された、蠱惑的なカラダ。
視線が吸い込まれそうになってしまい、後ろめたさと関係なしに彼方を直視できなくなってしまう。
「次勝ったら許す」
「次って」
自然に顔を逸らすついでに、そういえばと白い壁にかかった丸いアナログ時計を見た。
案の定だ。時刻は既に10時を回っていた。
「宿題は?」
「まだだけど、寝る前にやればいいじゃん。すぐ終わるんだからさ」
「そりゃ彼方はそうだろうけども」
僕はそうじゃない。というか、これ以上の夜更かしはよくない。
「今日はこれまでだね」
「えー、どうせ終わるなら勝って終わらない?」
「だめだよ、それ沼だって知ってるから」
口を尖らせ「優等生めー」と納得いかなさそうな彼方をにこやかにいなしつつ、ゲームを切り上げた。
父と母が帰ってこないからといって、好き勝手してはいけない。これまで積み重ねてきた信頼感があるから許されている自由だ。
彼方も、自分自身も。手綱はしっかり締めないと。
数時間後。
自室の机に向かっていた僕は、ふと時間を忘れていたことに気がついて、ひとつ伸びをしたあと、大きくあくびをする。
「げっ」
傍に置かれたデジタル時計の数字は、すでに2時を過ぎていた。
高めの学力を維持するために、僕はいつも宿題が終わったあとは予習復習をする。
べつに勤勉じゃない。むしろ怠惰なほうだ。だからこそ習慣にしているんだけれど、つい先に先にと考えて終わりを後ろにずらしてしまうことがある。
タイマーで管理していたのに、今日はつけ忘れてしまっていたみたいだ。失敗した。
提出物をまとめる。忘れていることはない。
寝る支度も、勉強前に既に済ませている。
リモコンを取って、煌々と光っていた電気を消す。ベッドに入って目を閉じれば、自分の雑多な音は静まって、周囲の何気ない静音に包まれる。
エアコンの音。窓の外の盛んに鳴いている虫達の声。
なんとなく落ち着かなくて寝付けないときには意識してしまう、ちょっとした音の数々。
僕はそれらが嫌いではなかった。それらに耳を傾けていれば、自然と眠りにつくことができるから。
だからつぶさに耳を立てていた。今日も、そのまま眠れるはずだった。
────ぁ。
眠りに落ちる、ほんの少し前に。
微かに、聞き馴染みのない音を拾った。
人の声、高い、幼い子供か、女の子の声だ。
泣いているような、苦しんでいるような、それでいてそれを必死に抑えている感じの、そんな声。
聞き馴染みがない? いや、僕はこの声を知っている。
馴染みがないと感じたのは、よく聴いていたものと少し毛色が違うからで。僕は数年前から散々この声を聴いている。
……かなた?
隣の、彼方の部屋から聴こえてきていた。
聞き間違いを疑って、さらに耳をそば立てる。
その間にもその声はだんだんと大きくなっていく。
と、そのとき。
「────!」
声は突然押し殺したような悲鳴に変わった。
口を閉じたまま、何か物を噛んだまま叫んだみたいな悲鳴だった。
久々だけれど、こちらはよく知っている。すぐに確信が持てた。
「かなた……!」
僕は大慌てで布団から飛び出した。
目を瞑ってからそう間が空いていないからか、夜目が利いていない。習慣を頼りに進んで廊下に出る。
電気をつけていないので真っ暗だ。悲鳴はもう聴こえない。かわりに微かな嗚咽と、啜り泣きが聴こえてくる。
眠たくなっていた頭は覚めて、こういったときどうすればいいのかを思い出す。
“心配であるときほど冷静に”
心の中で父の教えを反芻して、ふうっと息をついてから、ゆっくりとドアを3回ノックした。
瞬間、音が止む。痛々しい間が開く。
「……」
もう一呼吸置いて、僕は「彼方、大丈夫か」と、努めて穏やかに呼び掛けた。
返事はない。少し待ったが、気配は強張って物音すらしない。
「僕だ、まそらだ」
ハラハラとした心持ちで伝えた。「大丈夫なら返事してくれ」と。
すると、返事はないもののどことなく空気は緩み、そう間を置かずに物音という形で返ってくる。
とん、と床が軽く鳴らされたあと、存在の拙さを感じさせる足音が徐に近づく。
かちゃり。回された錠が硬質な音を立ててドアは開き、淡い灯が廊下に差し込む。
開いた隙間から、彼方が顔を出した。
引き攣った表情で「はは、起こしちゃった?」と。
「ごめんな、久々に少しこわい夢見ちゃってさ」
僕と目を合わせると少しほころんで、健気な笑顔が作られた。
その額と首筋は汗でびっしょりと濡れていて、白い絹肌の上を沢山のしずくが伝っている。
濡れた髪、着崩れた鼠色のパジャマ。部屋の中を含めすべてから立ち上がる匂いは、今までに嗅いだ覚えのないほど濃くて、痺れるような甘さが強い。
「うるさかったよな? ごめんな」
袖から覗く華奢な手は、自身のパジャマの裾を強く掴んでいる。
声にも呼吸にも現れていない。だが肩も含めて、心許なさそうに小さく震えている。
酷く儚げで、触れたら壊してしまいそうな気がした。
「いや」
声をかけようとした途端、「もう大丈夫だからさ、安心してくれ」と、彼方はさっと引いて、ドアの奥へまた消えて。
その向こうから「おやすみ、また明日」と気丈に言い残す。
「あ、うん、おやすみ」
錠がかかる音が響いて、静けさが戻った。
ああ、なにやってんだよ、もう。
自分の手をぐっと握ってから、力無く項垂れた。
彼方を救う。それがあのとき、すぐそばにいたにも関わらず手を差し伸べられなかった僕の責任であり、罪滅ぼしだ。
たとえ今はダメでも、少しずつ。
僕は本気で、そう思っていたつもりだった。