空蝉の裂け目 自分のことをまだ男だと思い込んでいる精神異常TSっ娘を壊してしまった僕の話 作:あかん子を説法
昔、父とこんな話があった。
医師は患者とは決して距離感を間違ってはいけない。
慮る必要はある。けれど同情してはいけない。
それは「転移」を招くから、と。
転移は心理学用語で、患者が過去に関わっていた人物に向けていた感情が医師に向けられてしまう現象を指す。
僕と彼方は、当然ながら医師と患者の関係ではない。
けれど仕組みを考えたら、なにも特別な肩書きに限って起こるものではないことがわかる。
なにせ話を親身に聞くものと、心の不安を話すもの。その条件が揃ってしまうだけで、この転移は成立してしまう可能性があるのだ。
だから誰との間でも起こりうるし、向く矢印は逆にも、双方向にもなる可能性がある。
心は、ままならないものだ。
人のはもちろん、自分のも。
わかっていた。はじめから、僕は間違っていた。
「マソラ、カナタ。最近はどうだ?」
ある晩。久々に、父と母、彼方と僕が揃った食卓で、父は僕らにそう尋ねてきた。
こういった機会は、週に1度あるかないかだ。なので、必然的に緊張感が漂う、はずなのだけれど。
「まそらはちょっとくたびれてますけど、オレは元気にやってますよ」
「おいこら」
彼方は決して、そういう空気にさせない。にこやかに笑って、「夏休み絶賛満喫中です」とピースサインを作った。
「そうか。マソラは、生徒会頑張っているのか?」
「……うん、まあ」
「頑張ってますよぉ。夏休みなんだから、もう少しオレみたいにだらーんと過ごせばいいのにさ」
そうやって、生きてきたからだろう。
パニックさえ起こしていなければ、僕以外を相手にしているとき、彼方はあまりにも無難に振る舞って見せる。
服装も何もかも、少年時代の装いを作り込んで、しっかりと。
「だらーんとって言ってるけど、カナタさん。ちゃんと家事も手伝ってくれてるんだからねあなた」
「えー? そんなことないですよー!」
「ダメダメ! 家が綺麗なのもカナタさんのおかげなんだから、感謝してもらわないと!」
比較的顔を合わせる機会の多い母にもこれだ。おかげで毎度、和やかな団欒ができてしまう。
食卓で見られる僕らの笑顔の数は、おそらく、彼方が家族として迎えられる前よりもずっと増えたことだろう。
父は、当然そんな彼方を見抜いている。
食事が終わったあと、僕を書斎に呼んで訊ねてきた。
「カナタの調子はどうだ?」
僕は、背筋を正して答えた。
「だいぶ、元気になってきたんだと思う」
「そうなのか?」
「うん。最近は少しずつだけど、身体の変化を自覚してきてて、僕とちゃんと距離を取るようになった」
「……そうか」
「外出の抵抗感も、だいぶ和らいできてる。一緒ならパニックも起こさなくなってきて、普通に話せるようになったよ」
肝心の情報を伏せて、彼方と同じように、調子のいいことをつらつらと。
「……わかった」
内容の恥ずかしさと、良く見せたいという見栄。バレてしまうのではという不安と、バレたあとの恐怖。
それらが邪魔をして、本当のことは、決して自分から口にはできなかった。
しかし、父なら。あわよくば気付いてくれるのではないかとも思っていた。
言葉と態度の裏を読んで、見抜いてくれるのではと。
「順調そうだな。良くやっているようだ」
父は、気付かなかった。
それどころか、僕を笑顔で褒めた。
「遅くに呼び出して悪かった。よく休みなさい」
心が軋んだ。
きっと、悲鳴を上げていた。
だれか、この言い表しようのない感情から、僕を救ってくれと。
彼女は、それに気付いていたのだろうか。
ガタガタ、ガタガタ。立て付けのイマイチな窓が鳴る。
外は荒天模様。グラウンドは今にも濡れて、雨音を立て始める。
クーラーは付いているはずなのに音が聴こえず、空気は蒸し暑い。
けれどパイプ椅子に浅く腰掛けた僕は意に介さずに、PC画面に没頭する。
「────ちょう、会長」
不意に、耳の奥を深く撫でるような低めの女声に引き戻され、「ん?」と首を捻る。
すると、見知った綺麗な顔が思いのほかすぐ近くにあって、僕は若干椅子を引き距離を取った。
「藤原さん?」
藤原冬花(ふじわらとうか)さん。同級生の女子で、僕の次に票を集めた生徒だ。
彼女とは中学3年でこちらに越してきたときから顔馴染みで、何かと縁がある。
名前に違わない、雪のように白い肌。それと対極的な、黒く艶めく癖のない髪。
肩にかかる長さのそれが、僅かな身じろぎでさらりと滑って、その胸元へ落ちる。
スラリと高い背丈。制服の上からでもわかる、豊かだが引き締まった体つき。
硬めの衣服に収まり切らない女性的なボディーラインは、彼方とは異なるタイプのグラマーな魅力を湛えている。
そんな彼女が、人よりも高めにある腰を折り曲げながら「大丈夫ですか? 何度も呼び掛けましたよ?」と、長いまつ毛が印象的な瞳でこちらを覗き込む。
「ああ、ごめん。集中し過ぎちゃって」
まだいたんだ。
ほかのみんなは────当然、もう帰ってるよな。
お盆休みが近づく時期だ。仕事はもうほとんど片付いているから、居残る理由なんてない。
先に9月分の雑務まで片付けよう、なんて奇特なことをしているのは僕だけで十分だ。
「会長」
彼女の声は甘やかで、ともすればなにか勘違いを起こしそうな、そんな甘美な響きを残す。
一瞬の髪を掻く仕草も上品だけれど、そこはかとなく淫靡だ。そして付け込みたくなるような隙がある。
まったく、彼女はいつもこうだ。
別に僕が特別なわけじゃない。誰が相手でも同じなのだろう。所作があまりに自然だ。
一体何人がこれで熱に浮かされたのやら。
「なに?」
用事はなんだろうか。
窺うと、彼女はまた長い黒髪を少し掻き分け、しばしこちらの顔を覗き込む。
整った眉尻は相変わらず凛として変わらないが、泣きぼくろのある切れ長の目尻はどことなく鋭く、黒く大きな丸い瞳は、どこか不満と憤りを讃えているように見えた。
「大丈夫ですか?」
が、杞憂だったか。吐息混じりに吐かれた言葉は、「お疲れのようですし、今日はもう休んでは」と、こちらを気遣ったものだった。
「え? そう見える?」
「ええ、とても」
確かに、最近はあまりよく眠れていないけれど。
「目の下のクマ、ひどいですよ」
「そうかな」
それは朝顔を洗うときに確認している。自分の基準では、そこまで酷いとは思わなかった。
しかし指摘されたというならば気をつけないといけない。僕は自嘲気味に「ありがとう、今日は早く寝ようかな」と返した。
「……」
彼女は、納得がいっていない、といった態度を隠さず、眉を顰めた。
ただ黙って、こちらをじっと見つめたまま動かない。
なんだ、どうしたんだ。
しばらく続くと、流石に居た堪れなさが限界に達して、先に痺れを切らした僕は「どうしたの?」と尋ねてしまった。
すると彼女は躊躇うようにいくつか呼吸を置いてから、重い口を開いた。
「聞きにくいことを聞いてもいいですか?」
前振りとしてはとても仰々しかった。相変わらずの敬語口調のせいでとても恐ろしく聴こえた。
「別にいいけど」と多少身構える。
「その、何かあったんですか? あの、カナタ、さんと」
僕は態度を隠すのが苦手だ。
出さないように努めてはいた。なのに簡単に見抜かれてしまうとは。
「いや、そんなことは」
「話したくないなら、いいですけど」
「……ごめん」
あの買い物をした日以降、彼方との関係はひどくギクシャクしたものになっていた。
同じ屋根の下で暮らしている以上、顔を合わせないということは難しい。だから態度に出すまいとして、前と同じように振る舞ってはみるのだけれど上手くいかず。
居心地が悪くて、結局、僕は今こうして生徒会の仕事に逃げてしまっている。
逃避は大抵、あまり良い結果を生まない。
気持ちを整理できないまま、気まずい空気をこちらにまで持ち込んでしまったようだ。
でも、なんで彼方の話なんか。
藤原さんのメガネの奥。まっすぐなにかを訴えかけるような眼差しが、僕を捉えて離さない。
気圧されて、椅子と一緒に倒れてしまいそうだ。
「会長、覚えてますか? 1年前のこと」
たっぷり間を置いて、意を決したかのようなタイミングで藤原さんは切り出した。
「あの、私とカナタさんが喧嘩したときのことです」
「……覚えてるよ」
1年前。彼方と藤原さんは、ちょっとした揉め事を起こした。
知っていることは少ない。当時放課後の空き教室で2人は何かを言い合い、その末に藤原さんが声を荒げた。
遅れて現場を抑えた僕が見たのは、見たこともない剣幕の藤原さんと、僕を見て驚いた顔をする彼方。詳細は語られず、それきりだ。
「実はあのとき、私カナタさんのこと気に食わなくて。問い詰めてしまったんです」
もっとも、あまり先を聞きたい話ではない。聞かずとも、その後の2人の距離感を見ていれば関わるべきじゃないのがわかる。
「藤原さん」と名前を呼んで、遮ろうとした。けれど、彼女は止まらない。
「あなた、会長のことをどう思っているんですか? って」
「…………」
こちらが、黙らされてしまった。
「なんて言ったと思います?」
藤原さんは、彼方が元々男だったことなんて知らない。
だから、僕たちの距離感に違和感を抱いても不思議じゃない。
そういえばたまに、非難めいた視線を向けられていた。
不純だと思われているのか。彼女は厳しいもんなそういうの。
でも、お門違いだ。
「はぁ」
ため息をひとつ吐き、らしくもなく不機嫌な態度を露わにして席を立ち、僕は答えた。
「それは本人の口から聞くよ」と。
「……」
沈黙。
棘のある言い方をしすぎたかと、反省をするには十分な間だった。
「……ごめん。藤原さんの言う通り、疲れてるみたいだ」
雨と風の音だけが微かに響くなか、僕は「今日はもう上がろうか」と、返事も待たずに藤原さんに背を向けて帰り支度をした。
逃げるようにドアの前へ向かい、「じゃあ、また明日」と言おうとしたそのとき。
藤原さんは珍しく「マソラくん!」と僕の名前を呼んだ。
「あの子とは、少し距離を取ったほうがいいと思います!」
あまりにも必死で、少し引っ掛かるような言い方だった。
けれど、そのときの僕はもう、その理由を知ろうとするだけの余力がなかった。
「ご忠告ありがとう」
彼女の顔もよく見ずに、愛想笑いとうわべだけのお礼を残して、その場をあとにした。